ラスト・クリスマス

バニラダヌキ

1 さて俺は、どこでクリスマスの朝を迎えればいいんだろうな

 クリスマス・イブの夜、ベースの北森冬也とうやは、リーダーのボーカルを叩きのめして所属事務所を馘首くびになった。

 渋谷のライブハウスで演奏している間は、なんとか感情を抑えていたのだが、打ち上げの席で酒が入ると、つい激昂してしまったのである。

 バンドの他のメンバーは、誰も冬也を咎めなかった。チャラい自分らとは毛色が違って、何事も一本気な冬也のこと、いずれそうなるだろうと思っていた。一方的に腹パンや膝蹴りを食らいまくったボーカル当人さえ、冬也が顔だけは殴らなかったことに、つまり次のライブにさしつかえないよう加減していることに気づいていたから、騒動が静まった後、逆に恐縮して頭を下げた。

 しかしマネージャーが、試験導入したばかりの社用小型携帯電話で事務所に報告すると、まだ居残っていたワンマン社長は、ここぞとばかりに冬也の懲戒解雇を通告してきた。社長自身のスカウトでインディーズから引き抜き、ようやくメジャー進出にこぎつけたメンバーの内、実は冬也だけが眼鏡にかなっていなかったのである。

 磨けば磨くほどオーラの増すボーカル、ボーカルほどではないが充分以上にスタイリッシュなギターとキーボードとドラム、その中でベースだけが垢抜けない。髪形と衣裳以外はロックより演歌が似合いそうな風貌だし、演奏自体も手堅いだけで華がない。いわゆる耳コピで始めた若いロッカーには珍しく、独学で譜面を読み採譜までこなす小器用さが、かえって災いしているのだ。高校以来のオリジナルメンバーにこだわるボーカルの顔を立てて、そのままメジャー・シーンに送りこんだのだが、すでに冬也が足手まといであることは、他のメンバーも、そして冬也自身も悟っているはずだった。

 マネージャーは長い通話を終えると、事務的な社畜顔に似合わず、あんがいしんみりした声で冬也に言った。

「懲戒解雇は勘弁してもらったよ。会社都合の退職になる」

 社長よりも彼らと行動を共にする機会が多いから、メンバー内での諍いの経緯は、知りたくないところまで知っている。暴力に走ったのは確かに悪いが、情状酌量の余地は多分にある。その場で事務所に報告したのも、社長が贔屓ひいきにしている小洒落た酒場をここまで騒がせてしまった以上、明日には社長の耳に入るからだった。社長と親しい常連客が、騒ぎに辟易へきえきして何人か姿を消している。そちらから話が伝わって激怒されるよりは、こちらから報告した方が、まだ事を穏やかに運びやすい。

 冬也は無言のままうなずいた。クリスマス・イブの夜でさえ、カウンターのささやかなツリーと、テーブルごとにあしらったひいらぎの小鉢だけで祝うような大人の酒場を、騒然とさせてしまった後悔の念が先に立っている。

「いつもの給料は、明日ちゃんと口座に入る。今日までの日割り分も来月に入る。あと、退職金の件なんだけど、君の在籍期間だと、残念ながら支給対象にならないんだ。まあ他のみんなも、今のところ同じ条件だからね」

「……はい」

「代わりに、そのスティングレイでどうだい?」

「え?」

 思いがけない話だった。冬也の希望を入れて改造されたその特注のエレキベースは、あくまで会社からの貸与品である。個人で注文したら百万は下らないだろう。冬也がインディーズ時代に使っていた自前の中古ベースは、数万そこそこだった。

 明らかにマネージャーの好意的裁量らしいので、冬也は深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

「それから、失業保険の書類なんだけど、どこに送ろうか。現住所じゃまずいよね。実家に送る?」

「そのうち取りに寄ります。置いといてください」

 冬也は、それ以上何も言わずに席を立った。

 生酔いの胸焼けをこらえながら、マネージャーに一礼する。

 最後にマネージャーは言った。

「これからもベースを続ける気があるなら、僕個人に連絡をくれないか。たぶん、君はスタジオとかバックの方が、生きるタイプだと思うんだ」

 冬也は答えられず、再度、黙って頭を下げた。

 それから、まだ騒ぎの余韻を残している酒場の客たちや従業員にも頭を下げ、ベースのギグバッグと、使い古したボクサーバッグを肩に、ドアに向かう。

 さっきまでの仲間たちを、あえて振り返る気はなかった。どのみち自分と同じ、単細胞野郎ばかりである。殴られると知っていても、そっちに転がるしかなければそっちに転がり、気が変わればあっちに転がる。そうして良くも悪しくも、たぶん死ぬまで気ままに転がり続ける――そんな連中だった。

 店の外に出ると、さっきまでぱらついていた雨は、もう上がっていた。街路の雑踏も、倍はうるさくなった気がする。

「やっぱりホワイト・クリスマスは無理だったなあ」

「でも雨やんだからラッキー」

 連れ立って歩く若いカップルの、そんな屈託のない会話を聞き流しながら、冬也はただ黙々と歩いた。


          *


 冬也が渋谷駅から適当に乗りこんだ車内には、クリスマス・イブにもしっかり残業をこなした仕事人から、毎日がクリスマスの遊び人まで、百数十人分の悲喜交々が充満していた。

 しかし疲弊した仕事人たちの顔も、遊び人ほどではないが、けして暗くはない。今年も栄養ドリンクのCMに煽られながら一日二十四時間三百六十五日戦って――もちろん誇張はあるが、帰宅できるのは三日に一度、休日は月二回あれば御の字、そんな時期も珍しくない――期待以上に年収が増えたし、家で待つ妻子の機嫌も、クリスマスを重ねるたびに良くなる。昨年のイブが天皇陛下の容態悪化であまり盛り上がらなかったぶん、今年のイブは一昨年に輪をかけて華やいでいる。一九八九年、平成元年の師走、世はまさにバブル景気のまっ盛り――まさか翌年の春を待たずに株価が下落しはじめ、わずか四年ほどですべてが泡のように弾けてしまうとは誰も思っておらず、日本中が楽観的に泡立っていた年の瀬である。

 ――さて俺は、どこでクリスマスの朝を迎えればいいんだろうな。

 ギグバッグと並んでドア横に立ち、窓の外に流れる街の灯を眺めながら、冬也は迷い犬のように自由をもてあましていた。

 ここ一年ほど住みついていた吉祥寺の女の部屋は、昨夜、追い出されてしまった。ボーカルに本気になってしまったから、冬也とは住めないと言う。半年も浮気しておいて何を今さら、とも思うが、正直に言ってくるだけ、今までつきあった女の中では一番育ちがよかった。

 ボーカルを叩きのめしたのは、単なるケジメである。そのケジメだって、酒が入る前は省略しようと思っていた。ボーカルの女癖は高校時代から知っている。自分から言い寄るような面倒な事はしない。いつだって女の方から本気になる。ギターやキーボードも、一度ならず冬也と同じ目に会っている。ただし彼らは飽きっぽいたちだから、そろそろ替えたいと思った女が自動的に逃げてくれるので、逆にボーカルを重宝していた。ドラムだけは少々マゾっ気があるらしく、一度ボーカルに逃げた女が争奪戦に敗れて戻ってくると、嬉々としてりを戻している。しかし冬也は、どちらにも割り切れない性格だ。

 ――俺としちゃ、そーゆーのってメタルっぽくないと思うんだよなあ。まあ社長はビジュアル系の耽美派に仕立てたいらしいから、今さらどーでもいいんだけどな。

 そう居直りつつも、やはり今夜は飲まない方がよかったと思う。いや、どうせ飲むなら飲めるだけ飲んでしまえばよかった。下手にセーブしたのが、かえってまずかったのだ。

 元来、冬也は黙って飲むのが好きな質である。素面しらふのときも、ほとんど不平不満を口にしないので、日々のストレスはけっこう溜まるのだが、飲んでいるうちにそれを忘れてしまう。酒に強いからいくらでも飲める。だから、どんなストレスも翌日まで持ち越さない。

 なのに今夜は、飲みはじめから何か黒い塊が胸につかえて消えず、厭な予感がして、意識的に酒の量を控えていた。しかし、あまりグラスを干すまいとたびたび喫煙し、箱が空になったのでボクサーバッグから買い置きを取り出し、それが同じ銘柄でも冬也の好まないメンソール入りであることに、吸ってから気がついた。買い間違えたのではない。あの女の煙草だったのである。部屋を出るときに間違って荷物に入れてしまったらしい。結局、その香りがきっかけで黒い塊を抑えられなくなったわけだが――あんな気分を、寝取られ男のフラッシュバックというのだろうか。

 酔い覚めのしらけた気分で、車両の揺れに身を任せる。

 長髪を茫々と波打たせ、ビスだらけのジャケットの胸元から妙な豹柄のベストを覗かせ、腰から下を黒光りするレザーパンツでキメていても、この大都会だと、楽器らしい物を抱えていれば誰も嫌悪の視線を投げたりしないからありがたい。若い連中は憧れの視線すら向けてくれる。とりわけ楽器に詳しい若者なら、その黒革のギグバッグがハードケースに近い堅牢性を備えた一級品であり、ならば中身が垂涎のプロ仕様であることもひと目で判る。

 電車は御徒町を過ぎ、次は上野駅、そんなアナウンスが流れはじめた。

 冬也は、行くあてのない自分が、なぜ渋谷から井の頭線でも東横線でもなく山手線内回りに乗ったのか、ふと思い当たった。

 冬也の実家は、上野から高崎線と八高線を乗り継いだ、群馬県藤岡市にある。今は上越新幹線でも高崎まで行けるようになったが、金欠時代が長かった冬也には、ローカル線の思い出の方が多い。バンドの連中も同郷だ。冬の上州名物、赤城おろしの空っ風にはロック野郎を育む成分でも含まれているのか、同じ市内に、氷室京介やBUCK―TICKを輩出した藤岡高校があった。冬也たちが上京する前、当時まだちっぽけな木造駅舎だった群馬藤岡駅の男女共用ポットン便所に入ると、『ATSUSHI、おうちみてきたよ!』などという丸文字の落書きが、板壁のあちこちに踊っていた。『ATSUSHI』の部分は『HISASHI』とか、他のメンバー名とか、ファンの押しによって色々変わる。しかし落書きの末尾には、ほぼ例外なく大きなハートマークが添えられていた。つまり、そんな片田舎まで東京の垢抜けた娘たちがぞろぞろと聖地巡礼にやってくるほど、ロック野郎はモテたのである。

 冬也は別の私立高校に通っていたが、そこにもロック好きのモテ志願者は多かった。そのうち本気度の高い連中が五人集まり、シャカリキのバイトやら親への土下座やらでなんとか楽器を揃え、半年みっちり練習してから文化祭デビューすると、やや古臭い純ヘヴィメタ指向だったにも関わらず、半月後には全員が童貞を捨てていた。そうして卒業後、勢いに乗って上京し、バイトしながらインディーズ界で順調に名を上げ、いよいよ今年はメジャーの入り口に立った。日本経済同様に順風満帆、前途洋々なのである。ただしベース以外は。

 上野はオイラの心の駅だ――。

 実家の父親が、ときおり遠い目をして口ずさむ懐メロのフレーズを反芻しながら、冬也は上野駅で山手線を降りた。思えばその父親も、若い頃に第二の井沢八郎を目ざそうと東京に出て、結局は実家に戻り、梨や椎茸を育てている。しかし見栄っ張りの冬也には、自分ひとり都落ちする覚悟など欠片かけらもない。

 冬也は新幹線や高崎線のホームには向かわず、たまたま近くにあった公園口改札を抜け、目の前の上野恩賜公園に向かって信号を渡った。

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