2. 右目

 月に一度、満月の日に女性が一人喰い殺される。

 そういう話だった。

 見た者の話によれば、大きな犬のような影だったと。


 水牛がのろのろと引く荷台の上、ユエはごろんと寝転がって顔を平笠ひらかさで隠す。

 息を吸うと稲藁いなわらの香りがする。嫌いじゃない。

 不意に右目がくすぐったく震えた。その振動は頭蓋を伝って、ユエにしか聞こえない声になる。

 明晰で、雑味のない低音。

 

(女ばかり狙うというなら、樫鬼かしおに水鏡笑みかがみわらい、触り猫、蟻塚ありづかひゃくもく、かげろう橋。こんなところかね?)


「うーん、どれも犬とは遠いよね」

 頭蓋だけ震わせる真似なんてできないので、ユエは声に出さざるを得ない。

「それに『さらう』じゃなくて『その場で喰う』っていうのが珍しいよ。その場で喰われるのは圧倒的に男だもの。何にしたって、ガノイの荘園とやらに着いたらもう少し聞いてみないと」

(ユエ、あまり乗り気でないのか?)

「そんなことない。どうして? 六人以上食べてるなら、そこそこの大物だよ? かなり腹持ちいいんじゃないかな」


 両目に笠の編み目が映る。右目の視界だけが小刻みに揺れる。こんな時は大抵、相棒が何か言いあぐねている時だ。

 まだ相棒を相棒と思っていなくて、真珠色の美しい猫が側にいた頃には、気づかなかった癖。


「リールー? 言いたいことあるなら、言ってよ」

(なに……人死にが出ている割には、ずいぶん落ち着いているのだなと)


 右目リールーの言いたいことはユエにもわかる。数年前なら、もっと取り乱して、または過剰な使命感にたぎって、事に当たっていたように思う。

 だけどもう十五の小娘じゃないのだ。だから、これは

「慣れただけだよ、この六年で。お腹の居候は大人しくしてる。大丈夫だって」

 心配性のリールー。金の瞳の、王族猫ケトリール

 

 水牛車はのろのろ揺れる。そろそろ夕涼みにもいい時間で、ゆるゆると両のまぶたが降りてくる。




 ガノイの荘園まで、二日かかった。

 夜半にも関わらず起き出してきた荘園主は、ユエを見るなり疑わしげに頬を吊り上げた。

 陳情の間。一段高い所に護衛を従え、一人だけ化粧彫りの椅子にどっかり座っている。


「異人の娘とは聞いていたが、まだ小娘ではないか。生白いうえに細い。本物なんだろうな?」

「腕っぷしでやる仕事じゃないですから」


 気に入らないが、よくあるやり取りだ。ユエは至って普通のつもりでも、この国の人間には病弱に、そして幼く見えるらしい。

 使いの男が、弁解するように口を挟んだ。

「瞳を確認しております。稲穂の髪に、猫の右目。間違いございません」

 荘園主が鷹揚に頷き、手招きする。

 これも良くある。右目リールーもそこは承知したもので、先ほどから手近な提灯に焦点を合わせていた。

 左右にさぶらう護衛に緊張が走るのにはかまわず、つかつかと近寄って荘園主の目を覗き込む。右目の視界は部屋の暗さにすぐ順応したけれど、それでも縦にすぼまる猫の瞳孔は見せられたはずだ。

「この通りです。お望みなら、いくつか西方の術をお見せしてもいいですよ」

「いや、結構……面妖な。よく見れば左右の色も違うのか」

 左は琥珀色、右は金色。

 昼間なら、違いはもっと顕著に見えただろう。


 一瞬だけ視線を下に動かし、荘園主が口を開いた。

「では、仕事の話に移ろう」

「その前に椅子出してもらっていいですか?」

 今こいつ、胸みたな。

 


 ※ ※ ※



 ユエにとって、金額の多寡はどうでもいい。

 建て前では仕事と言うが、本当の目的は食事なのだ。


 だが、安すぎれば土地のまじない師から不興を買って面倒なことになるのも知っていた。

 仕事の便宜と六十万ドン、またはそれ相当の価値のあるもの。通過儀礼的に揉めて、そこに落ち着いた。

 

 さすがに荘園主の屋敷だけあって、離れにある来客用の部屋は快適だった。風通しが良く、日陰で涼しい。普段寝泊まりしている雑居房とは大違いだ。


 早起きして身支度を整え、持ち込んだ荷物から手鏡と化粧道具を取り出す。

 異国の人間に、土地の人間はそう簡単に心を開かないものだ。特にユエは年下にも見られてしまう。

 だから化粧は入念でなければならない。モノの怪に対峙する人間には相応の妖しさが求められる。

 目を強調するように墨と紅を引く。鏡に映った右目リールーの瞳孔が、朝の光で縦に絞られている。


 この金色の瞳を見るたび、ユエの胸は小さくうずく。



 十四歳の冬至の日。三日三晩かけた約定の魔法陣に王族猫ケトリールが現れた時、霜焼けやあかぎれの痛みも忘れてはしゃいだのを覚えている。

 真珠のような光沢をもつ、白く、しなやかで、美しい獣だった。

 お互いの血を舐め、使い魔としての名を付けた。

 名付けが安直だと当の本人に文句を言われたが、ともかく「猫の魔法」を得て、これで一人前の魔法使いだとお祝いもしてもらって、その翌年にリールーは身体を失った。 

 ユエのせいで。ユエを助けるために。



(手が止まっておるが?)

「ん、なんでもない」



 化粧を終え、紅い薄衣うすぎぬを留めて口元を隠すと、同じ色の長衣ザイを着込んで平笠を取った。笠につけた五色の布がふわりと周りに垂れ下がる。


 まじない師として装った魔法使いが、右目に声をかける。

「行こう、リールー」

 相棒が、つんつん、と二度震えて応えた。

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