化け猫ユエ

帆多 丁

1. 平麺

 雨季が明けた。


 じりじり陽が差すいちを上から眺めれば、日除けの編み笠ばかりが明るく光を跳ね返す。円の群れが露店の合間を好き勝手に流れている。

 そんな中でひときわ大きな円が、同類の隙間を器用にすり抜けて行った。

 行く先のむしろ屋根からはむんむんと湯気が立ち上り、大きな円、持ち主の肩幅よりも広い平笠ひらかさが動きをとめて、編み目の下から娘の華やいだ声が上がる。



「おばさん、まだ出せます?」


「ん? あー、刻み鶏と香菜でいいかね?」

 平麺ひらめん売りの店主が片付けの手を止め振り返る。平笠の娘が二度頷くと、大鍋から立ち上る湯気が煽られて渦を巻いた。

「おじさんの調子はどうですか?」

「ああ、おかげさんでもうすぐ仕事に戻れそうだ。西方のまじないがアタシらにも効くなんて思わなかったよ。二五〇ドン


 金銭の受け渡し。


「しかしアンタ今日は遅かったね。昼飯時も終わりにするところだった」

「変な時間にごめんなさい。妙な男に付きまとわれちゃって、いてくるのにひと苦労でした」

「あんたみたいな異人の若い娘が、胴布イェム一枚で街中をうろつくからだよ。長衣ザイなり開衣バーバなり、上着を着な、上着を」

「わたしのせいじゃないですよ、そんなの」

 店主の説教に口を尖らせて屋台前の食卓につき、娘は平笠のあご紐をほどいた。笠の影が外れ、稲穂の色をした髪が肩に揺れて日差しに映える。

 外した笠で娘が盛大に扇ぐと、背中の開いた深紅の胴布イェムや、濃紺のつつはかまの裾が風に波を打った。


 茹であがった平麺を丼に滑り込ませて、店主が言う。

「立ち入ったことを聞くけどさ、アンタ目の具合悪いのかい?」

「右目は生まれつき弱くって、陽差しがきついから昼間は閉じてるの。慣れてます。大したことじゃないです」

「そうかい。西のまじない師さんでも治せないもんがあるんだね。はいどうぞ」

 店主が差し出す丼を、食卓からいっぱいに手を伸ばして受け取る。

 娘は平笠を頭に乗せ、一度両手を合わせると鶏出汁と魚醤の香る丼へと箸を滑り込ませた。



 

 レンゲに乗せた蒸し鶏と透き通る麺を口に運べば、最初は甘く、次に酸っぱく、飲み込んだ後で舌に辛味が残る。鼻孔に香菜のクセになる香りが抜けていき、ふつふつと額に汗が浮く。こうなれば、多少暑く湿った風でも涼を連れてきてくれる。


 もういちど。甘く、酸っぱく、辛い。

 そして、かすかな焦燥感。


 ──ああ、そろそろ、まずいかな。

 

 平麺を吹いて冷ましながら、娘は思った。

 前に喰ってから、ひと月ぐらいにはなるか。

 

 前回は子盗コン小鬼・イオンだった。この国に滞在する西方出身の夫人に死産と流産が続いたと聞きつけて、行って見つけて喰ってきた。

 夫人には小鬼コン祓いに犬を捧げる方法を教えたが、野蛮な、と卒倒された。西方あちらではともかく、ここではしっかり効くというのに。

 ともかく、今度はできれば大物がいい。小物を喰っても、すぐにお腹を空かせてしまう。


 下腹部のあたりをそっとさすって紛らわせると、今度は閉じた右目が細かく、くすぐったく震えた。

 相棒が起きたのだ。

 けれども店主に適当な説明をした手前、まぶたを開くわけにもいかない。

「食べ終わるまで待ってて」

 と呟いたら

「食べながらで良いので、聞いて頂きたい」

 と背後から声が飛んできた。


 振り返ると、臙脂の長衣ザイと黒い口髭の顔が見えて、娘は軽く舌打ちした。

 こいつだ、ずっと後をつけて来たやつ。撒いたと思ったのにしつこいなぁ。

 娘の心中を量ることもなく、男は儀礼的に頭を下げると

「怪しい者ではありません。私は、ガノイの荘園からの使いです。失礼ですが、化け猫ユエ様ですね?」

 と続けた。



 ※ ※ ※



「女ばかりを好んで喰うモノの怪が出ております」

「食事中に聞きたくないです」

「最初は、野犬の群れかなにか、そういったものかと思っていたのですが」

「今ここじゃなきゃダメですか?」


 睨みつけたつもりだけれど、片目だけに眼力を込めるのは難しい。

 ちらりと見やると、おばさんの目つきが明らかに変わっていた。「異国のまじない師」程度なら大丈夫でも、そこに「化け猫」が加わって不審がられている。残念だけれど、もう気さくに話してはくれないだろう。

 

 話としては渡りに船。状況としては大変に迷惑。

 ゆっくり食べたかったのにな、とユエは平麺をごっそり箸で掬った。

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