第48話


「レーニス……なにする気?」、手探りの探し物みたいに、慎重な口調でリーススはたずねた。「まさか…………そんなの、許さない。絶対に許さないから。すぐにこっちに戻って。さあ、私の手を掴むの」


 手が差し出される。昇降口から入り込んでくる強風が、髪や衣服を乱雑に動かした。


「レーニス、あなたとの生活が苦痛だと言ったことは、撤回する。大変な旅だったけど、おかげで私気づいたのよ。レーニスに感情が戻らなくたっていい。生きていてくれれば……それだけで……それだけでいいの。お願いレーニス……私を1人にしないで。置いてかないで……」


 くるりと踵を返し、リーススの元へ飛び込む。そして彼女の額に、短く口をつけた。泣きながら驚く彼女へ、あたしは最後に、できる限りの笑顔を向けた。


 それからすぐ、昇降口へ。一歩、二歩……三歩目には、空の中だった。


 レーニス、とあたしを呼ぶ声は、すでに遥か後方に聞こえていた。あたしはコルロルめがけて飛んでいた。軍の銃弾が飛び交い、いくつかが服や髪をかすめていく。


「レーニス!」、コルロルはあたしに気づくなり、複葉機を蹴ってこちらへ飛び込んできた。


 やつへ向かって精一杯伸ばした腕ごと、コルロルはあっという間にその胸に抱え込んだ。


「レーニス……君は本当に、危なっかしいな」、金の目が、薄くこちらへ向けられる。「君が死んでしまったら、なんの意味もないじゃないか。僕はもう、飛べそうにない」


 コルロルの翼は上下に動いているが、焼け焦げた隙間を、風が通り抜けていくばかりだ。やがて、翼を動かす気力もなくなったのか、動きが止まる。あとはもう、真っ逆さまだ。

 

 吹き上げてくる豪風にハサミを入れるように、あたしたちは風に抗って落ちていく。


 やつの胸へ添えた手に、生暖かい液体の感触があった。血だ。赤い血だ。動物はきっと、みんな同じ色の血が巡っている。あたしにも、そしてコルロルにも。同じ色の血が流れているなら、あたしたちの本質は、同じなのかもしれない。

 

「……あんなに撃たれたら、いくら怪物でも死んじゃうのよ? 分かってる?」


「いいんだよ」、やつはあっさり答えた。


「よくない、そんなの、絶対に良くない。自分だけが犠牲になるなんて……」


 あたしはやつの人生を思った。何百年もの間、孤独に生きた怪物。人間になりたくて、人間の感情を集めた怪物。だけど人間にはなれず、今死のうとしている怪物。


「何百年もの間、ひとりきりで彷徨ってきたんでしょう? 人なんてあっけなく殺せるくらい、強いんでしょう? それがこんな最後で……あなたの何百年が報われるの?」


 あなたはなにを手にしたの? 喜び? 楽しさ? そんなものじゃ、割に合わないじゃない。


「簡単なことを聞くなあ」、コルロルは少し、声を出して笑う。その顔が、息を呑むほど幸福そうで―――。


「君に会えた。それが、怪物として生きた僕の全てだ」


 そう言うやつの口元には牙が出ていて、相変わらず凶悪だった。あたしはそこに、自分の唇をつけた。この怪物に、あたしの全てを捧げたいと思った。


 ねえリースス。どうか笑って。あたしの中は空っぽだから、あなたの真似しかできないみたい。


「死ぬときは、一緒だよ」


 そうして間もなく、ぎゅうっと濃縮された時の塊のような落下を終え、でこぼこで暗い崖底へと、あたしたちは―――……。


 その刹那、三角水晶の中に、新たな色が滲んだのを見た。水晶にヒビが生じたかと思うと、瞬く間に砕け散る。中に閉じ込められた七色が、僅かの間たゆたい、すっと、あたしへ、コルロルへ、染みていく。


 白くまっさらな、ベールの光に包まれた。コルロルの黒い羽が、自ら飛び立つように天へ登っていく。古い皮を脱ぎ捨てるみたいに、硬い外皮が細かに砕け、光の中へ舞っていく。鋭い爪が取り払われ、白い五本指の手が姿を現す。その様子を、あたしは目を見開いて見ていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る