■脱出

第40話



 暗い湖のほとりに、おじさんの小さな飛行船はひっそりと佇んでいた。ゴンドラの中は操縦席と、二人掛けのシートがあるだけで、足元のスペースには、すでにいくつかの荷物が積まれている。


「この飛行船に、いったいどれだけ積み込む気だったんだ? そこの荷物を入れたら、もういっぱいじゃないか」


 ランタンをかざして飛行船の中を覗いたライアンは、木に縛り付けているおじさんを振り返り、馬の荷物を手で示した。


 おじさんはふん、と鼻を鳴らし、「まだまだこんなものじゃないぞ」と縛られていることに不満な様子だ。


「そういえば、あの無口な護衛はどうした? こんな時こそ連れてないと」


「彼らの勤務は、今日の5時までだ。最初からそういう約束だったんだ」


「少し時間を延ばすよう交渉すればいいじゃないか。雇い主なんだから。この荷物をあんた1人で運ぶのは、骨がおれるだろう」


「もちろん交渉したが、延長分の金をせびりおった。それだけじゃ飽き足らず、レーニスに切られた足の治療費まで要求しおって」


「それは払ってやれよ」


「私は想定外の出費がなにより嫌いなんだ」、おじさんはちらりとあたしを見た。「払うなら、彼を傷つけたレーニスが払うべきだ」


「おいおい、なにを言ってるんだ。レーニスがさせた怪我なら、なおさらあんたが払うべきだ。彼女にどれだけのことをしたか、理解していないのか?」、ライアンの声と身振りが大きくなる。「あんたは、あの幼い少女を崖から落とし、魔女として処刑しようとした。治療費を肩代わりする程度じゃ、まったくわりに合わない」


「しかしそれは」


「それだけじゃない、レーニスは火のついた薪で、大人の男数人に殴られたんだぞ。その時お前はなにをしてた? 金の勘定か? カルマを考えろよ」


 おじさんは叱られる子供みたいに顔をそむけていた。父さんに説教されるのは、あたしも嫌いだった。はやくこの時間が過ぎさればいいと思ったものだ。


「人のことを言えた義理か? 貴様は私と一緒に怪物を殺す約束をしていた。それなのに、裏切っただろう」


「言っておくが約束なんかしてないぞ。俺はあんたに脅されただけだし、明確な返事はしなかった。金に目がくらんだのは認めるが、土壇場になり正気に戻ったんだ。守銭奴のあんたと一緒にするな」


 2人の言い合いは続いた。交わりの見えない、平行な争いだった。聞いている限り、ライアンとおじさんの考え方は似つかない。互いが互いを理解できないと思っている。


 喧嘩ってものは、だいたいそうかもしれない。あたしとリーススの言い合いも、平行線だった。


 2人のやりとりを耳に入れながら、あたしは湖のそばで足を折り、地面にランタンを置いた。


 月明りにきらきら白く光る水へそっと手を浸し、水をすくいあげる。冷たくて綺麗な水だった。器にした手の中で、おぼろに月を映した水が揺れる。その美しさを見つめるようで、思い浮かぶのはコルロルの姿だった。


 めらめら立ち昇る炎と、薪が火花をあげる音に包まれていた。黒い翼でつくられた密室だった。この世のどこにも、あんな場所はほかにない。


 最後に、僕を愛して、とやつは言った。言葉だけでいいと。


 言えば良かったじゃない。愛してると。言葉だけなんだから。なぜ拒否してしまったんだろう。なんだか、すごくひどいことをした気がする。だけどあの時、やつの三角の耳に愛してると囁いていたなら、もっとひどいことのように思える。


 気が付くと、手の中の水はすっかり流れ落ちて消えていた。あたしはもう一度水をすくい、顔を洗った。


「レーニス、いいものがあったわ」


「リースス、どこへ行っていたの?」


 リーススがタオルを差し出してくれる。でも、いいものというのはタオルのことではないらしい。


「どうしたのその服?」、顔を拭きながらたずねる。


「おじさんの荷物にあったの」、とリーススは2つのワンピースを振って見せた。「いつまでも裸じゃ、落ち着かないよね。さすがに下着はなかったんだけど」


 あたしたちは木の陰へ移動して着替えた。袖や襟がふりふりした白いブラウスに、黒い裾広がりのワンピース。裾をぐるりと一周し、透明なきらきらした石が、まるで天の川のようにちりばめられている。


「おそろいの服なんて、いつぶりだろうね」


 着替えを済ませたリーススは、あたしの襟元に細い黒のリボンを通しながら、嬉しそうに顔を緩めた。こんな状況だけど、リーススは楽しそうだった。


 もしかすると彼女は、どんな状況にも楽しみを見出せるつわものなのかもしれない。


「小さい頃は、いつも同じものを着せられてた」


「私たちが選んでたのよ。おそろいが好きだったの。髪形だって、いつも同じにしてもらって」


 そのころを懐かしんでいるのか、父さんのことを思い出しているのか、リーススの手が止まる。ややあって、顔を上げた。


「レーニス、コルロルはどうだった?」


「小さい頃見たとおり、凶悪な見た目だった。性格は、想像と違っていたけど。やつの話によると、あたしはコルロルに恋をしてたらしいの」


「恋?」、リーススは驚いて目を丸くする。「あなたが?」


「コルロルがそう言っているだけよ。事実かどうかは」


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