■笑顔
第36話
光の中から現れたその腕に、髪に、顔に、目が眩むようだった。彼女へ手を伸ばし、躊躇する。かわりに、慎重に呟いていた。
「……リースス?」
あたしの言葉ひとつで、彼女はシャボン玉のように、ぱっと弾けて消えてしまいそうだった。夢よりも儚く、こぼれ落ちてしまいそうだった。
「な、なんだあれは!」
「魔女が……魔女が魔法で分裂したんだ……!」
突如現れたあたしそっくりの少女に、驚きの声が上がる。
リーススは急に現れたかと思うと、そのまま倒れ込みそうになり、その体を一人の兵士が支え、丸裸の彼女に自分の上着をかけた。それから叫んだ。
「伝令! 伝令! 怪物コルロルの処分が定まるまで、魔女の処刑は延期とする! 繰り返す! 魔女の処刑は延期だ! ここに水を持て! 火を消せ! 怪物の火もだ! 今すぐ消すんだ! 家に燃え移るぞ!!」
場は騒然とした。伝令通り、足で火をもみ消すもの、水を取りに行くもの、聞いてないぞ! どういうことだ? 狼狽するもの。一刻も早くあたしに死んでほしい民衆は、一時ざわざわと隣人と話し合ってから、遠巻きに反対を主張しはじめる。
「延期だとー? はやく殺せ!」
「そうだ! 怪物も魔女も一緒に殺せばいい!」
兵はもう取り合わなかった。リーススを素早く肩に担ぎ、あたしの腕を引く。
「どういうことだ? こんなことは前例がない」
「お前、なにか聞いてるか? 延期の知らせがあったのか?」
「いえ、自分は何も……」
兵は事態が把握できず、少しでも情報を集めようと必死になっている。あたしにはよく分からないけど、決定された処罰が、決まった日時に実行されないというのは、前代未聞の大事件らしかった。
騒ぎから離れ、馬の前まで来ると、兵士は担いでいたリーススを降ろした。目を覚ましたらしい。彼女はちょっと寝ぼけた目で辺りを見回したあと、羽織っている上着を体の前で固く持ち直す。
「なにこれ。どういうこと? ここってガルパスおじさんの住んでる街じゃない? なんでこんなに兵士が……あ! そうよレーニス! コルロルには会えた? もしかして、感情も元どおりに……!」
「コルロルには会えた。でも、感情はむしろ減っちゃったの」
リーススの明るい表情が、みるみるしぼんでいく。「そう……」と彼女は呟いた。
「リースス……今、笑ってた?」
「え?」、とリーススは顔に手を当てる。「笑ってない。笑うはずないわ。急におかしなこと言わないで」
「……今までのこと、覚えてる?」
テディとなったリーススとあたしは、けっこうスリリングな旅をしてきた。テディはよく笑い、どんなに小さな発見でも楽しんでいた。
「今までのこと? う~ん……よく分からないけど……」、少し考えて、リーススは柔らかに、はにかむ。「ふふ。なんだか、とっても楽しい夢を見ていたみたい」
「あ、今わらって……」
「笑ってない、笑ってないわ」
リーススは慌てて首をふる。顔に張り付いた笑顔を、振り落とすように。
「今のはちょっとした間違いで……。それよりレーニス、状況を説明しなさい。だいたいあなたのその恰好は……」
あたしは腕を伸ばしてリーススを抱き寄せた。
「ど、どうしたのレーニス」
リーススにまた会えたなら、こうして抱きしめようって、ずっと思っていた。テディと違って、リーススの体は温かくて、肌の柔らかさの奥に、骨の感触が感じられた。ぬいぐるみなら、いくらでも強く抱きしめていいけど、リーススは壊れてしまいそうな気がした。
「リースス……笑っていいの。あたしが、あなたを笑わせなかったのね。でも、もう我慢しなくていいんだよ」、あたしはリーススの顔を両手で包んだ。「笑って? 笑顔を見せて」
そう言ったとたん、リーススの瞳がうるうる光り、大きな粒になって涙が落ちた。あたしは少し困って、彼女の頭を撫でた。
「笑って、って言ったのに」
「ごめんなさい、私……そんなことを言われるなんて……」、ぎこちない言葉。リーススは手で口元を覆った。「いいの? 笑っても……」
彼女は俯いて、肩を震わせた。その姿を見ていると、なんでだか、毎日過ごした家の中を思い起こさせる。
無表情な二人。取り決められたような同じ会話。あたしは何も楽しむことができないし、楽しもうという気も起きなかった。でも、リーススは違ったんだ。楽しい、うれしい、悲しい……。それらの感情がどこからやってくるのか分からないけど、それは人の営みに必要な、自然現象のはずだ。
そういった感情を殺して生活することが、どんな不具合やストレスを生むのか、あたしには推察することしかできない。
『笑って』、その一言で堰を切ったように泣き出したのを見ていると、せき止められていたダムが一気に流れ出したような、パンパンに張っていた水風船が弾けたような、そういう、どうにも処理することができない現象に、リーススは見舞われているみたいだった。
「リーススレーニス」
あたしがなにもできないでいると、呪文を唱えるみたいに、兵士が言った。
「君たちの名前を続けて呼ぶと、意味のある言葉になる。この辺りでは聞かない言語だけど……なにか分かる?」
兵士は軍帽を上げて顔を見せ、にーっと口を横に広げた。「笑顔だよ」
「ライアン!」
「あなただったの?」
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