■リーススと魔女

第35話




 なんであんなことを言ってしまったんだろう。レーニスには、喜びも哀しみもないのに。感情をなくして一番辛いのは、あの子なのに。せっかくこれまで我慢してきたのに、つい言ってしまった。もう限界だった。私だけが過去の美しさに縛られているなんて。


「お嬢さん」


 夜のアルスト山を、あてもなく歩いていた。ふと気が付くと、すぐそばにその人は佇んでいた。薄汚い布を頭から被る……魔女?


「なに? 私になにか用?」


 訝しみながら尋ねる。ヒッヒッ、その人は引きつった甲高い声で笑った。


「なに、お前の願いを叶えてやろうと思ってね。言ってごらん。願いを」


「願い?」


 私の願いって……なに? 私は考えた。レーニスや父さんと過ごした過去の記憶が、頭の中に映し出される。まるで恋焦がれるみたいに、私は何度も何度も、繰り返しその映像に縋って生きてきた。


 でも現実に帰ると、やっぱりレーニスは笑ってくれなくて、父さんがいなくなった冷えた家の中で、コルロルを探しに出かけたレーニスが戻ってくるのを、一日中待っているの。


 今があんまり残酷だから、過去を見つめるしかなかった。でも、私は本当に、過去に戻りたいの? 違う。今をいい方向へ導きたい。どうやって?


「コルロル、って、知ってる?」、魔女に尋ねる。魔女は曖昧に笑った。


「さあ。どうだったか」


「私、双子の妹がいるんだけど、そいつに感情を盗られちゃったらしいの」


「それは難儀だねえ」


「それから、ずっと探してる。その怪物のこと。憎んでるからなんだけど、あんまりにも熱意を持ってしつこく探すから……あれじゃあまるで、そう……熱烈な片想いよ」


 朝起きると、レーニスはいつもいなかった。もう出かけていた。コルロルを探すために。夜、暗くなる頃に帰ってくると、『今日もいなかった』『そう。残念ね』、そんな慣例的な会話だけを交わし、疲れきった彼女はベッドへ潜り込む。


「レーニスを、コルロルに会わせてあげて」、空を仰ぐ。群青の中に星が煌めいて、手が届くように近く見えるのに、ずっと遠くて、私はレーニスを思い浮かべた。


「それが願いか?」


「ええ。だってもう、限界なの。私たち。毎日毎日、いいかげん現れてよって願ってた。コルロルは恐ろしい怪物なのに、ヒーローの登場を心待ちにしている気分よ」


「いいだろう。その怪物と、お前の妹を会わせてやる。しかし、ただとはいかない」


「だろうと思った」、私は笑った。「おとぎ話の通りなのね」


 笑ったあとで、はっとして口を抑える。隣にレーニスはいない。そっか、今は笑って良かったんだった。


「お前のように、若く美しい娘は嫌いなんだ」


「あらやだ、ありがとう。ふふふ、褒め上手ね」


「……だから、お前の姿を奪うよ」


 こちらを指差すように、布が動いた。でも、そこにはこちらをさす指も、手も見えなかった。


「姿を?」


「ああ。お前は誰も見向きもしないガラクタとなり、記憶を失う」


 ガラクタとなり、記憶を失う。その端的な説明は、暗くて身動きの取れない密室に閉じ込められる窮屈さを想起させた。


「元には戻れないの?」


「いいや、戻るのは簡単さ。姿形が変わってもなお、そのガラクタがお前だと、誰かが気づいてくれさえすれば元に戻る」


「それって、ぜんぜん簡単じゃないと思うの。だって、記憶も無くなるんでしょう?」


「お前を愛している者なら、変わらない魂を理解してくれる」


 魔女は意地悪な笑いを漏らす。なんて、無茶なことを言うだろう。


「それじゃあ、一生戻れないわ。私が愛する人は、愛を知らないもの」 


 魔女は厳かに尋ねた。「それでも、願うか?」


「いいよ」、透明で新鮮な空気を、いっぱいに吸い込む。「笑わないでいるの、もう疲れた。不思議でしょう? それだけで生きてるって感覚が麻痺してしまうんだから。人って、笑ったり泣いたりしないと、どっか軋んできちゃうのね」


 笑気の失せたレーニスの顔が頭によぎる。あの時、はぐれたレーニスが戻ってきた時、今までずっと一緒にいたはずのレーニスが、どこか違って見えた。まったく同じ姿をしているのに、決定的な何かが抜け落ちたような違和感。私がいつもの調子でふざけても、困らせるだけだった。そんなぎこちなさを、この十年。


「レーニスが感情を失くしたとき、私も封じ込めたの。楽しくて笑うこと。喜びに胸を躍らせること。哀しくて泣くこと。あの子が失ったものを、自分の中で頑丈に閉じ込めて、あの子に足りないものは私が補おうとした。そうじゃないと、私たち二人ではとてもやっていけなかった。あの子、バカなんだから」


「それは大変だったねえ」、とくにそう思ってなさそうな声音で魔女は言う。


「一方がバカだと、一方がしっかりするしかないのよ」


「姉妹とは、そういうものだ」


 私はその人に笑いかけ、髪かざりを外した。ガラクタになった私がこれをつけているか分からないけど、付けていられるなら、私だと気づいてもらえるのだろうけど、どうせなら賭けてみようと思う。


 人生最大の賭けだ。だって、私たちの間にある絆は、呪いなんかにまやかされないと、信じたいじゃない。固く結ばれたまま、解けることはないと、夢みたいじゃない。


 きっと大丈夫、やり方は不器用だったかもしれないけど、私は精一杯レーニスに寄り添ってきたもの。


「レーニス」、と私は夜空へ呟いた。どうか、あなたが笑顔を取り戻せますように。




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