第32話


 テディーは慌てて鍵を放る。でもほとんど飛ばなかった。鍵は扉の前辺りで、高い金属音を立てて着地した。足に繋がれた鎖で行けるところまで行ったけど、届かない。地面を這って、腕を伸ばす。手を振ると、指の先が鍵をかする。じれったい。


 ぽん、とワインのコルクみたいにすっぽ抜けてきたテディーが、身体で鍵を押しながらスライディングしてくる。鍵とテディー。その二つを掴みとった時、扉が開け放された。


「やあレーニス」


 顔を上げる。下から見上げると、ガルパスおじさんの丸いお腹は、シャツのボタンが弾けないのが不思議なくらいふくよかだった。相変わらず、無口な大男を連れていたけど、一人だけだった。おじさんは「よいしょ」と腰を曲げ、あたしの腕の中から、鍵とテディ―を抜き取った。


 頭を掴まれたテディは、「だっこがいいよ、頭はやめてよ」と手足をばたつかせる。それを見た見張りが、「な、なんだこのぬいぐるみは」と驚きの声を上げた。


「君が連れていたこのぬいぐるみのことを思い出してね。忙しくて忘れていたよ」


「テディをどうする気? そんな汚いぬいぐるみ、誰も欲しがらないわよ」


「なにを言う。喋るぬいぐるみだぞ? 見世物にすれば見物料を取れる」


 おじさんは大男にテディを持たせ、踵を返した。


「レーニス、君が火にあぶられるまで、あと数時間だ。いい子で」、一瞬はこの手にあった鍵を指先で降り、おじさんは出て行った。テディは大男の腕の中から顔を出し、「ばいばーい」とのんきに手を振る。きいーと錆びた蝶番の音を立て閉じた扉は、あたしが火にあぶられる日暮れの時まで、もう開くことはなかった。





 縄で縛られた両手を見下ろす。縄の先は一人の兵士が持ち、あたしの前を闊歩している。まるで、犬の散歩でもするみたいに。


 広場は大騒ぎだった。あたしが兵士に引かれ姿を現すと、喧騒は弾けたように強まった。憎き魔女を痛めつけようと、あらゆるものが飛び交い始める。


 野菜から、石から、中でもとりわけ、卵は最悪だ。あたしにもいくつか当たったけど、あたしまで届かず、ほとんどは民衆を抑える兵士の列に当たってしまい、兵士たちはあっという間に汚れてしまった。


 兵士の背の合間に、街人の顔が見える。好奇と、憎しみと、畏怖の顔。「魔女め! はやく焼き殺すのよ!」、長く、くたびれた白髪を振り乱して叫ぶ老婆のほうが、よっぽど魔女という呼び名にふさわしかった。けれど街人たちには、あたしが魔女に見えているらしい。


 そこがあたしの処刑場なのだろう。立てた丸太の足元に、薪が束になっておかれている。あたしは薪の上に立たされ、丸太に縛り付けられた。ここが少し高くなっているから、野次馬の後方で、台の上に置かれた小さな檻が目に入った。


「テディ?」


 テディだ。檻の中にテディがいる。おじさんが言っていた。『見世物にして見物料を取れる』と。たしかに檻の横には缶が置かれ、コインが溢れ、中には紙幣も混じっている。


 テディは子供たちに木枝でつつかれ、檻の中を逃げ回っていた。体をよじり、短い手で頭をかばっている。また一人、子供が家から駆けてくる。手にはハサミがあり、仲間は枝をあっさりその場に捨てて、ハサミを受け取った。そしてハサミを檻の隙間に差し込み、テディを執拗に追い回し始める。


「これより、魔女の処刑を行う!」、兵士が火のついた棒を、威厳を込めて振るう。それに合わせて、民衆が湧いた。あたしはテディを見ていた。テディは顔を歪めていた。


 あんなに良く笑い、のびやかで、生きることを手放しに楽しんでいて、たしょう毒舌なテディが、怯えて縮こまっている。


「あの奇妙なぬいぐるみは、お前の仲間なのか?」、兵士がたずねた。


「そうね。そうかもしれない」


 テディ、可哀想に。あたしについてきたばっかりに。通りいっぺんの同情の台詞が、頭を通過する。だけど、心はちっとも動いていなかった。あたしはどこかで、テディを自分の持ち物のように思っていた。


 自分の持ち物を傷つけられたとき、以前のあたしなら腹を立てていたはず。それなのに、能面のようなこの胸の内はなんだろう。


 コルロルが首に下げた三角水晶を思い出す。そうか、悔しい、腹立たしい、憎い。これらの感情は、さっきコルロルに向けてしまった。だから、あの水晶に盗られたんだ。


 コルロル、あなたってば、あたしを空っぽにしたのね。


 平面のガラスのような、冷たい無機物になったみたい。これはこれで、楽かもしれない。怒りはエネルギー消費が激しいから、ちょうど疲れたところだった。


「お腹、空いたな」


 思い返してみれば、最後にものを口にしたのは、昨晩の硬いパンだけだ。もう丸一日近くなにも食べていない。暗くなり始めるこの時間は、いつも夕食時だった。家にいたなら、リーススが温かい食事をテーブルに並べて待っていてくれた。


「リーススのご飯が食べたい」


 野菜しか入っていないスープ。玉ねぎや人参、キャベツが色あせて、味がよく染み込んでるの。どんなおかずでも、スープは必ずセットとしてついていた。この空腹なときに思い出されるのが豪華な肉の日のおかずじゃなくて、いつものスープというのは自分でも意外だったけど、あれが家庭の味というやつなのかもしれない。


 もう二日も食べてない。あたしは毎日あれを食べないとダメなんだ。体があのスープを欲している。


「リースス、怒ってたな……あたし、家に帰るとご飯があるって、当たり前だと思ってたから。当たり前だから大事に思わないのかな。もったいつけて極限まで空腹になったところで差し出されれば、あたしにだってありがたみが分かると思うの。でも、毎日そんなことされたら、頭にくるよね」


 あたしにはもう、思考しか残っていなかった。記憶をたどったり、自分の今の状態について考えたり。温かいスープの味を、思い出す。あたしはただ、リーススのスープを食べたかった。だけど、それが叶わないことも、分かっていた。


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