第13話


 橋から落ちたあたしを宙でキャッチし、元の場所へ戻す。子供は怯えてすぐに泣く、ということは、経験から分かっていた。これ以上恐怖の感情はいらないんだけど、とコルロルは嫌な気持ちだった。しかし、地面に立たせたあたしは、目をキラキラさせて開口一番にこう言った。


『かぁっ、こいい!!』


「ストップストップ、ちょい待ち、たんま」、さっきは黙って話を聞いていたライアンが、意気勇んで話の腰を折る。「これがレーニス? この天使のような満天笑顔の少女が?」


「そうだよ」


「小さい頃のあたしじゃないの。話の腰を折らないで」


「こうなるの? こうなっちゃうの? 冷たく一瞥くれちゃうの?」


 幼いあたしの反応に、コルロルは面食らってしまった。


『かぁっこいいーかぁっこいいー』、あたしはコルロルの周りを飛び跳ねる。『羽だ! 飛べるのね!』


『え、うん』、今見たじゃん、と思いつつ答える。


『すんごいねえ! 飛べるの、かっこいい! あたしレーニス、ななさい!』


 あたしはすごい勢いで、十本の指を立てた両手を突き出した。

 三角水晶に、黄色の気体が生まれる。


『これ、黄色……』、コルロルは水晶を見つめた。『黄色は、なんだろう』


 気体が生まれると同時に、心の内へ感情が現れる。今までにない感情だった。どう表現すればいいのか、コルロルは戸惑う。生暖かい液体が、体の中を満たしていくのにも似ている。


 春。その感情は、わけもなく春を連想させた。春のひだまりの中だ。湿り気のないあたたかな風が、体の隙間を吹き抜けて、いっぱいに満たしていくような……。


『君……レーニスは今、喜んでいるの?』


『えー、分かんない』、コルロルの羽を触りながら答える。『あのね、リーススと来たの』


『……そうなんだ。リーススっていうのは、君の友達?』


『リーススはね、お姉ちゃん。あたしと似てるの。みんな間違えるんだよ』


『お姉ちゃん、似てる』


『なんで喋れるのー?』


 その質問に、コルロルは少し胸を張る。


『ずっと人間のことを見てたんだ。それで覚えたんだよ。これでも最初は喋れな』


『名前はー? なんていうの?』


『……コルロル……って、呼ばれてる』


『遊ぼう! コルルが鬼ッ!』、コルロルにタッチすると、はしゃいで笑いながら駆け出す。かと思うと、すぐに戻ってきて、コルロルへ両腕を伸ばした。『やっぱり抱っこ! また飛

たい!』


 小さな少女を抱え、コルロルは翼を広げた。いつものように飛んだけど、いつもと同じじゃなかった。いつもと同じことをしているだけなのに、なにかが決定的に違っていた。いつもの風は、まったく真新しいものだった。目に映る景色は、色彩豊かに澄んでいた。


 気持ちが逸る。自然と速度が上がる。どこへ行こう。どこへだって行ける。どこへだって行ってみたい。


『すごい……楽しい。楽しいよレーニス。これが楽しいってことなんだね。すごいよ、人間ってすごい』


 天秤の秤が、一気に傾いたようだった。憎しみや恐怖。苦しい感情が天秤の片方に乗っているけど、もう片方に喜しいや楽しいを乗せてしまえば、ずんと地につく勢いで沈んでしまう。


『そうか……。喜びは、勝るのか。苦しみや恐怖に。だから、人は苦しくても生きるんだ』


『ねえコルル、結婚って知ってる?』、あたしは唐突に言った。『コルルはできるの? 結婚』


『結婚? 知ってるけど、僕はできるかな……無理めな気がするよ』


『え? なんで?』


『人間じゃないから』


 あたしはそこでまじまじとコルロルの顔を眺めた。納得したのか黙る。


『でも、人間になれるかもしれないんだ。レーニスがいれば』


 コルロルは胸の三角水晶について説明した。


『今日で一気に集まったよ。僕はそれで助かるんだけど、レーニス、君が帰るころには、君は変わってしまっていると思う』


『帰らない!』、あたしはコルロルにしがみつく。『あたし、コルロルのお嫁さんになる』


 危うく落下しそうになる。コルロルはなんとか体制を立て直した。


『そうだ、コルルもおうちに帰ろうよ』


『それは無理だよ』


『なんで? 大丈夫だよ。リーススも嬉しいと思うし。リーススも一緒に飛びたい。あ、でも、父さんは……前に猫を連れて帰ったら、戻してきなさいって言われたから』


『猫でダメなら絶対に無理だよ』


 夜が訪れた。さすがにもう帰らないといけないと悟ったあたしは、コルロルとの別れを哀しみ、泣き出してしまった。


 そんなあたしを見て、コルロルは言った。『このまま、僕と一緒にいる?』


『ダメ。リーススと会えなくなっちゃう』


『即答なんだ……』


 地上に戻り、コルロルはあたしを降ろした。


『君を探している二人が上から見えた。すぐ近くだよ。今日のところは家族の元へ帰るんだ。あと、さっきの話だけど……』、コルロルは口ごもる。『段階を踏んで、恋人からはじめよう』


『恋人?』


『彼氏と彼女ってこと。分かる?』


『分からない』


『結婚は知ってるのに、どういう知識の蓄え方してるの? まあいいや、とにかくまた会おう。君がもうちょっと大人になってから。そのときはレーニス、君をさらうよ』


 少し離れたところから、レーニスと呼ぶ声が響いていた。あたしは声の方を振り返る。


『さあ、行っておいで。あと、念の為に訂正しておくけど、僕はコルルじゃなくてコルロルだからね』


 コルロルはあたしの頭に手を乗せて、最後に言った。


『ありがとう。君のおかげで、僕は人間になれるかもしれない』


 そうして人のような笑顔を残し、コルロルは闇夜へ飛び去った。


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