第10話


「本当に、危なっかしい子だね」


 とても懐かしい、前世の出来事のような記憶と、目の前の光景が重なる。重厚に空を切る真っ黒な翼、虎のような金色の瞳、牙の突き出した口が、笑う。


「コルロル?」、分かっているのに、なぜか尋ねてしまった。あたしはコルロルに抱えられていた。


 やつは可笑しそうに目を細める。「こんなやつ、他にいる?」


 地球の引力を、圧倒的な力で振り切って、暗闇に溶け込んだ翼が滑らかに上下する。固い殻に覆われたような腕は温かく、三本しかない指の先には、鋭利な鉤爪が突き出していた。 心臓が騒ぎ出す。早鐘の脈が鳴る。


 ―――ずっと、この時を待っていた。


 待ちわびた瞬間が目の前に訪れた。太もものホルダーに手が伸びる。やつの鉤爪ほどではないかもしれないけど、よく研いだサバイバルナイフは、どこに突き刺せば最も効果的だろう。外皮は固い。やつは鎧をまとった人のような体をしている。


 でも、鎧や甲冑がそうであるように、硬い部分同士の継ぎ目というのか、やつの皮膚にも隙間がある。中は人間と同じ柔らかい肉だろうか。急所も、人間と同じだろうか。左胸。手の届く距離だ。外皮の継ぎ目にナイフを差し込めば、心臓に届くかもしれない。


「やっと会えたね、レーニス。ずっと待ってたんだよ」


 緩やかに上昇しながら、コルロルは嬉しそうに言った。


 髪の毛にしては太い、黒くつやつやしたものが、豊かな草むらのように頭から長く伸び、時折あたしの顔に当たる。先は尖っていて痛かった。海老の触覚みたい。「あ、ごめん」と、やっぱり触覚なのか、手を使わずにやつはそれを背中へ追いやる。自由に動かせるようだ。固く流れる髪のような触覚の中には、角なのか耳なのか、大きな二つの三角が突き出している。


「待ってた? あたしを? なぜ?」


「決まってるじゃないか、僕を愛してくれ」


 かくん、顎が落ちる。手で元の位置に戻す。


「なにを言ってるの? あたしは、殺すためにここに来たのよ」


「え? なにを?」


「あなたを」


 やつは急停止する。宙の一点に留まり、翼だけが動く。


「本気? なんで僕を……」


「あたしの感情を、盗んだでしょ? そのせいで、ずっと大変だったんだから。ずっと恨んできた。あなたを殺すためだけに生きてきたのよ」


「…………うぞ」、三角の耳が、ぴんと上を向いたあとで、垂れ下がる。「そうだったんだ……。そうだよね。ごめんね、それは辛かっただろうね。本当に、申し訳ないことをしたと思ってる」


「……」


 普通に謝られてしまった。


「……盗んだことは認めるのね」


「ああ、ごっそりね」


 ああ、ごっそりね?


「ちょっとちょっと、たんまたんま、冷静になろうじゃないか」


 ふと、叫びに近い声が頭上の方から聞こえてきた。見上げると、ランタンの灯りに染められて、崖から落とされそうになっているライアンの姿が見えた。大男に両脇を掴まれ、今にも放り出されそうになっている。


「ははは、ひとまず話し合おう。なっ、まずはそれからだ」


 ライアンが両足をめいいっぱい突っ張って地面を蹴ると、ぱらぱらと崩れた小石が落ちていく。


「運の悪い男だ」、おじさんは豊かな顎鬚を撫でた。「ついてこなければ良かったものを。見たところ、あれの価値を知っているんだろう? なおさら生かしておくわけにはいかん」


 おじさんは大男に、ライアンを落とすよう顎で指示を送る。


「ま、待ってくれ! 頼むなんでもする、見逃してくれ! こんなところで死ぬわけにはいかないんだ!」


「ほほう、なんでもか。それはいい」、少し思案する間があり「ならばリーススを探し出して崖下に落としてこい。なに、ここで起きたことはすべて、事故として処理される。共犯になれば、きさまも下手な真似はできんだろう。もちろん、どんぐりはやれんが」


「はは、ははは」、力なく、ライアンは断続的な笑い声を漏らす。「あんた、あの子の親戚なんだろう? 小さい頃から知ってて、可愛がってるんじゃないのか?」


「私が? バカな。私が心から可愛く思うのは、金だけだ」


「レーニス、あいつに落とされたんだよね?」、息を潜めるように翼をゆっくり動かしながら、コルロルはおじさんを見上げた。「僕が殺してやろうか」


「え?」


「はは、嘘だよ。もう人は殺さないと決めたんだ」


 冗談めかした言い方。でも、その裏には黒く燃える炎のような、不気味な熱が潜んでいる気がした。


「さあ、きさまが助かる道はひとつしかない」、おじさんは語調を強めた。「リーススを探してこい。正直なところ、この山で人を探すには人手が必要なんだ」


 あたしは、ライアンという人間をよく知らない。今日会ったばかりで、あたしたちを騙した人だ。可愛い姪っ子なんてはじめから存在しておらず、彼の語ったほとんどは嘘だった。嘘つきの盗人。細かな情報を抜いて、最短距離で彼を評するなら、そうなるだろう。


 でも、気が付くと叫んでいた。「ライアン、飛んで!」


『綺麗だな』、頭の中には、夕陽に染まった横顔があった。なぜそのたった一コマを思い出したのかは分からない。けれどその横顔は、彼を助ける理由として、充分な説得力を持っていた。


「レーニス……!」、おじさんは驚愕の表情を顕にする。「なんだその化物は!」


 ライアンはおじさん達の方を向いて「今言おうと思ってたんだけど、少女を殺してまで生きようなんて、俺はそこまで落ちぶれちゃいない」、海へ飛び込むみたいに、彼は勢いよく飛び降りる。あたしはコルロルの腕の中から手を伸ばす。


「ライアン!」「レーニス!」、あたし達は互いに精一杯手を伸ばし―――急速にすれ違った。



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