第9話


「きさま! 待て捕まえろ!」


 どれくらいそうしていたか。ガルパスおじさんの怒声が響いた。しじまを破り裂く物音が続けて起こり、あたしはランタンを片手にテントを出た。


「ライアン?」


 走り去る影。彼はこちらを振り返る。


「悪いね、架空の怪物殺しに、これ以上は付き合えない」、まるで優勝トロフィーを掲げるみたいに、ライアンは金のどんぐりが詰まった瓶をこちらに見せつけ、すぐに体を翻し走り去る。


「急いで捕まえろ!」、その背中を、おじさんの声と二人の大男が追いかけた。


「なんだ、彼、泥棒だったのね」


「何を悠長な……!」、おじさんは目を剥いた。「あれは君たちにとっても大事なものだろう!?」


「大事? なんで? なんでか家に置いてあっただけよ」


 おじさんは目と口を丸く開いて、信じられない何かを否定するように首を振った。


「なんにせよ、盗人を放って置くわけにもいかん。君たちはここにいなさい」、歩き出してすぐ、おじさんは振り返る。「リーススは?」


「喧嘩したの。それで、どこかへ行っちゃった」


「またどうして……。こんな場所でひとりになるなんて危険だ。この暗さだ、誤って足を踏み外しでもしたら」


「分かってる」


「それにあの男、やはり危険なやつだった。これで分かったと思うが、君たちはもう少し警戒心を」


「分かってる!」、思わず、地団駄.を踏む。「そんなこと分かってる、ライアンは盗人で、リーススは危険な夜の崖道にひとりよ。一歩間違えれば死んでしまうかもしれない! そんなこと分かってるわよ! お願いだからうるさく言わないで、あたしは怒りっぽいのよ、それしかないの!」


 ダメだ、おじさんにこんなこと言ってもしょうがない。分かってるのに。


「少し、ここで休んでなさい」、ぽんと頭に手が乗せられた。「大丈夫、すぐに仲直りできるよ。よしよし、君もリーススもいい子だから。大丈夫さ」


 あたしを抱き寄せて、おじさんは頭をなでてくれた。おじさんの丸いお腹にもたれ、目を閉じる。そうしていると、怒りが静まっていくのを感じる。そうか、さっき、リーススを抱きしめれば良かった。よく分からないけど、そうすれば、リーススは出て行かなかった気がする。


「あたし、リーススを探してくる」


「それは危険だ」


「でも、ここでひとりで待ってるなんて」


「分かった」、おじさんはあたしの肩を掴んだ。「それじゃあ、まずは彼らと合流しよう。それからみんなで探しに行こう。こういう山では、単独行動が最も危険だからね」


 あたし達はランタンを手に、大男たちが行った方向へ歩き出した。しばらく道なりに行くと、向こうの方から声が聞こえてきた。


「おいおいおい、俺をどうするつもり? ちょっとした余興さ、盛り上がっただろう? なに? 面白くなかった? そうそう、会った時から思ってたけど、君たち、いい体してるよね。バッファローに体当たりしても、ギリギリ引き分けに持ち込めそうな感じ」


 左右から両腕を掴まれたライアンが、ランタンの光の中へ現れた。どんぐりの瓶は、男に回収されている。ライアンはあたしを見ると、バツが悪そうに笑った。


「盗んだものを、姪っ子にあげる気?」


「あんな話、嘘に決まってるじゃないか。悪いけど、俺はそんなにロマンチックな男じゃないんだ。どっちかっていうと、現実主義者なもんで……ってちょっとちょっと、女の子と話してんだから、降ろしてくれる? これじゃあナイスガイが台無しだ」


「おじさん、彼は縛っておいて、リーススを探しに行きましょう」


 つま先を返す。同時に、突風が吹く。水流が低い方に流れるように、風は山の隙間を通り道とし、私たちのいる崖みちへ一気に押し寄せる。ぐらり―――体が傾く感覚。吹き抜ける風が、頭の中を真っ白にする。でも体は先に状況を察知して全身を粟立たせ……投げ出された腕が、掴まれる。


 ランタンが落ちていく。壊れるような音はしなかった。きっとそんな音、届かないほどこの崖は深い。


「おじさん……」、まだ、体は傾いたまま。おじさんは笑った。


「人間って不思議だねえ。つい、掴んでしまったよ」、手が、離される。「はじめから、殺すつもりだったのに」


 吹き上げてくる風に、髪がたなびく。あたしの顔を包み込むようにはためいて、天へ伸びた自分の腕が、ひどくちっぽけに見えた。


「なんてことするんだあんた!」、ライアンが叫ぶ。

 それからは、もうなにも聞こえなかった。風の音だけがあたしを覆い、目の前には走馬灯が放映される。あたしの憎しみに満ちた人生を、ぎゅっと凝縮した小劇場。


『レーニス』、顔いっぱいに喜びを広げて笑う少女。あたしはこの人を、知っている。


 ああ……なんで、こんな大事なことを忘れていたんだろう。なんでこんなにもかけがえのないリーススの笑顔を、封じ込めてしまっていたんだろう。そうだった、リーススはよく笑い、よく泣いた。感情豊かな人だったんだ。あたしもそうだった。


 あたし達は父さんと一緒に出かけて、二人で駆け回り、あたしだけがはぐれてしまって、橋を渡っている途中で足を踏み外してしまって……そう、今と同じ。絶望的な死の浮遊の中で、やつに出会ったんだ。


 漆黒の翼を広げた巨大な怪物は、軽々とあたしの体を宙から掻っ攫い―――そして同時に、一瞬にして奪っていったの。



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