第5話

 バタンとドアを閉めたら、タクシーはちょっとしてから走り去って行った。近くに海の気配。二人だけがこの世界に立っているようだ。俺はだいだいの顔を見る。透明な瞳。その中に燃える決意。二人で居るのはもう少しだけだと彼女は言ったけど、今日が終わっても繋がっていてもいいんじゃないか。

「こっちに行こう」

 橙が先を歩く。海と反対側の向きだ。

「橙はここに来たことがあるのか?」

「ないよ。ブルー、今日私達が行く場所は、初めてでなければ意味がないんだ」

 インスピレーションだけで道を決めているのか? でも彼女の言うことは納得出来る。

 道なのかそうでないのか分からないところを歩いてゆく。

 俺はもっと橙と人生を交わらせていたい。いや、今はまだ交わってはいないか。俺達は交差する直前のところで、影響と干渉を与えながら、並走している。それがきっと旅人同士の関わりの最大なのだ。それよりも踏み込むのなら、旅だから出せる素顔のもう一つ奥の、正体を曝け出す覚悟を決めなくてはならない。俺はもうそれでもいいと思っている。橙、君はどうなんだ。

 徐々に灯りは遠ざかり、足元に草原、ついに人工の光が一切届かない場所に至った。

「ここだよ、ブルー」

 優しく夏の風が通り抜ける。橙が両手を広げて回転する。

「私達は到達したんだ。ねえブルー、空を見よう」

 橙はごろんと仰向けに寝転がる。俺は横並びになろうと一瞬考えて、やめた。橙の頭の上の方に上下逆さまに寝る。頭と頭が今までで一番近い。俺は橙のことばかりを想って、目に入っているものが見えていなかった。

「ブルー、空を見て」

 空は明るかった。星がこれでもかと言う程に煌めいている。端っこの方で薄い月が忘れないでと主張しているが、明らかに空の主役は星だった。

「見た。すごい」

「すごいね。これが星の本当の姿なんだね」

 俺はまるで自分のことを言われているように感じて、返事が出来なかった。橙もそれから黙って、星と、草と、俺達だけの世界はゆっくりと回っていく。間違いない。橙は俺にとって必要な人だ。でも、この空を見て思う、並行から踏み込んだら、彼女の輝きが消えてしまうのではないか。太陽が星を隠すように。

 また風が吹いて来た。橙の匂いが風に乗って微かにする。もし、壊れてしまう可能性があるのだとしても、何もしないで終われない。そして今の機会を逃したら、永遠に失われるんだ。

「ねえ、ブルー」

「どうした?」

「忘れないで。今一緒に見てる空はもう二度とないんだ。二人だけで見た、この空を、ずっと、忘れないで」

 橙は今の二人で終わることが、俺が未来に進むために必要だと言っている。俺は空をもう一度しっかりと見る。小さな流れ星まである。橙には一番重要なものが見えている。彼女は今カメラを構えていない。俺のためだけに息をしている。俺がそれに応えなくてどうする。俺がそれを壊してどうする。俺が。俺が。俺が橙の想いを受け止めなくてどうする。

 星が滲む。

 一度出たら、止まらなくなった。

 橙は何も言わずに待っていてくれる。彼女に抱かれている。その中に居る。いつからだろう、この暖かさを忘れていたのは。

「橙」

「うん?」

「ありがとう」

「困ったときはお互い様よ」

 俺は声を上げて泣く。二十年で俺の中に溜まった澱を毒を全て流し出すように。泣いたって取り戻すことは出来ないし与えられることもない。それでも、その準備にこの涙は必然の過程なのだと分かる。橙は黙って俺が泣くのを受け止めてくれている。

 泣き切るまで泣いて、呼吸が整って。

 空を星を、そしてすぐ側の橙を見る。もう一度、空を見る。

「橙」

「うん」

「俺はこの空を、決して忘れない」

「私も、忘れない」

 俺は立ち上がる。橙もほぼ同時に。俺はきっとひどい顔をしている。

「行こう」

 橙に付いて歩く。街灯が出て来て、太い道にぶつかり、民宿を見付けた。

「橙、これは」

「本当の偶然だよ」

「そっか」

「じゃあ、ここで」

「そうだな。ここで別れよう」

「でも、最後にブルーの写真を撮らせてよ、いいでしょ?」

「ああ。むしろ望む」

 橙は数枚俺の写真を撮った後、すぐに画面で確認する。

「最初に会った日と全然違う顔をしてるよ。いい顔」

 そう言って俺に見せる。確かに、自分でも別人のようないい顔をしている。

「橙。ありがとう」

「ブルー。私も、ありがとう」

 握手をしたい。ハグをしたい。でもそれは違う。

「じゃあな」

「じゃあね」

 俺達は一人ずつチェックインをして、別々の部屋に入る。次の朝俺達は偶然に再会することもなく、俺はバンドの仲間のところに戻った。

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