第3話

「――までお願いします」

 悪路ではないが快適でもない乗り心地、右側に居るだいだい、彼女が大事そうに抱えているカメラ。俺はギターを置いて来てしまった。もしそれがあれば、橙に俺がバンドマンである証明を出来たのに。いや、彼女は疑ってはいない。俺自身がバンドマンである証明を置いて来たことに今更気付いて、情けなくなっているのだ。

「俺はギターヴォーカルなんだ」

「そうなんだ」

「曲も半分くらいは作ってる」

「うん」

「バンドのリーダーもしてるんだ」

「そっか。……ねえ、ブルー、さっき煙草で眩ませたことを話さなきゃって今思ってるでしょ?」

 心臓をナイフで突かれた。駄々る子供に戻って最愛の母に打たれたような。

「その通りです」

「話したくなったら話せばいいよ。話したくなかったら話さなくていい。話さなきゃってのは意志と別のものだから」

 頭を優しく撫でられたような気持ちになる。俺は俺であっていい、私はどうだろうと受け止めるから。そう言われている。

「橙、あのさ」

「何?」

「明日も一緒に付いてっていい? 邪魔はしないから。決して」

 橙は一旦窓の外に視線を移す。真似をするように俺も反対側の景色を見る。真っ暗闇の中にも質感の違うものが幾つもあって、闇のバリエーションとでも言おうか、橙はそこに何を見ているのか分からないけど、俺は何かが潜んでいそうに見えて、すぐに車内に目を戻した。橙はその姿のまま、話し始める。

「私さ、撮影旅行でしょ?」

「うん」

「ブルーを被写体に入れていいなら、いいよ」

「問題ない」

「プロのバンドマンだと肖像権とかあるかもよ?」

「問題ない。問題なくする。俺はそんなことよりも、明日君と居たいんだ。今夜しっかり考えて、明日こそ君に俺の話したいことを話す。橙には迷惑かも知れないけど、俺が未来に進むにはそれしか道がない」

 橙が俺の方を向く。透き通った眼。微笑む。

「じゃあ交渉成立。朝は八時に玄関に集合ね」

「分かった」

 宿に着いたら別々にチェックインをして、俺は俺の部屋に入る。

 思春期のようにベッドに仰向けになり天井を見詰める。俺が話したいことは形骸化したプロであることを辞めたいこと。成長している俺の成長した曲をりたい、それが認められたい。この限りなくシンプルな願いを、幾重にも張り巡らされたしがらみが、安定が、金が、妨げる。そのどれもが蔑ろに出来るものではない。……整理するまでもない。俺の抱えている問題はこれだ。

 思考はそこで止まって、疲労感が強烈に出て来た。そう言えば今日ライヴをやって酒も飲んだんだった。寝落ちする前に風呂に入って、ちゃんと寝ないと。明日八時を逃したら、きっともう二度と橙には会えない。だから、ちゃんと寝ないと。


 朝食は空腹のまま寝たこともあってか、驚く程美味しかった。食べて帰ろうとしたところで橙がやって来て「おはよう」と言われ、俺はあまりの安堵に涙が出そうになった。

 八時。五分前に玄関に立つ。服装は当然昨日のままだから少々臭いだろうけど、道中で店があったら買い換えればいい。ぴったりに橙が来る。

「さあ、行こうか。昨日はよく眠れた?」

「バッチリ」

「今日の私のプランは、徒歩であっちの方向に向かいます。以上」

「了解」

 二人して歩き出す。蝉の声から命懸けが溢れている。青々とした畑がずーっと続いている。昨日の夜タクシーの窓から見えていた闇の正体はこれだったのか。橙は早速カメラを起動している。そう考えると宿に泊まることは充電のために必須なのだろう。

「ブルーは好きに動いて。私は撮りたいときに撮るから。喋るのも自由だけど、私が撮るモードに入ったらどんなに重要な話でも無視するから、それはいい?」

「当然。撮影が主なのは分かってる」

「でもブルーは撮影がないから、私の話は聞かなくてはならない。不平等ね」

「別にいいよ。無理言って付いて来たんだから」

 あはは、と橙が笑う。太陽のようだ。

「では既得権益と言うことで。ブルーってどんな音楽やってたの?」

「ポップス寄りのロックだよ」

「そっか、あ」

 橙は野花にカメラを向ける。ギターもよくマシンガンに例えられるけど、カメラもよっぽど銃っぽいな。数枚撮って、ふと見上げたかのような拍子で橙は空と山の稜線、境界線辺りを写した後に、カメラごと俺の方を向く。好きに動くってのは、無反応でもいいってことだ。

「ブルー、意識しまくってるね。目が笑ってるよ?」

「そんなことないだろ」

「口も笑ってるよ?」

「いやいや、自然体だよ」

「鼻も笑ってるよ?」

「どんなだよ!?」

「いい顔ゲット」

 そして彼女は前を向く。まんまと乗せられた。空がスコンと青くて、高校球児の打ち上げたホームランが集まったような雲が幾つかあって、橙の横顔がここにある。

「ジャンルって、自分で決めたの?」

「うん。そこは変えれないよ、流石に」

「何か変えたの?」

「もっとずっとゴリゴリだったんだ。でもポップに寄せた」

「それって悔しくないの? あ」

 また彼女は写真の世界に入る。悔しくないか。そりゃ悔しいよ。何が一番悔しいって、変えたら売れたことだ。あの時にそうだよ、一回魂を売っているんだ。違うな、魂を売らないギリギリの線で寄せたんだ。それは俺自身を説得するための方便だったのかも知れない。俺のプロとしてのキャリアは敗北から始まっているのかも知れない。

 カシャッ。

 思案に耽っている顔を撮られた。

「悔しかったんだね」

「ずっと悔しくないと思い込んでいた」

「でも顔に悔しいって書いてある。写真家なめんなよ」

「認める。悔しかった。そして今も悔しい」

「だよね。私が写真の具合を変えたら売れるとしたら、断固拒否だもんね。写真は私を反映しているものだもの。どうあっても変えられない部分がある」

「それで売れなかったらどうするんだ?」

 橙は即答する。

「私を育てて、嫌でも素晴らしいと思ってしまう人を増やす」

「それでもダメだったら?」

「自分の写真が世界一だと信じられるところまで至ったなら、そう思いながら死ぬよ」

 この小さな体に宿っているのは何なんだ? どうしてそこまで覚悟を決められる? それともこう言う人は一定数いるものなのか? 俺はそうではなかったから、屈した、それだけのことなのか?

「あ、でも、多分、世界一になったとしても、その先があるから、私は追究を続けるよ」

 それとも、まだ何も知らないから大言壮語を吐いているだけなのか? いや、そうは思えない。彼女が映像に対しての感受性に絶対の自身を持っているように、俺も人の声の読み取りに関しては揺るがない自信がある。彼女の声には一切の欺瞞も自信過剰も嘘もない。混ざり物がないから、強く深く入って来る。だから彼女の弁はそのまま受け取るしかない。

「ねえ、橙」

「あ、ちょっと後でね」

 ぽつねんと取り残される。待ち時間に水気がある。それは彼女が大切なことをしているからでも、俺が大事なことを話そうとしているからでもない。彼女を待っているからだ。

「はいはい」

「俺も、君と同じように、自分の作品を信じることが出来るだろうか」

 うーん、と俺の顔を覗き込む。

「きっと出来るようになるけど、今はまだ解決してない問題が邪魔をしてるね」

「そこまで分かるの?」

「昨日からの話の総合であって、顔占いではないよ」

「あ、そっか。部分的には話してるんだった」

 橙がにっこりと笑う。俺はその残りの部分を話したいと思う。思うのだが、言葉に出来ない。だからそれからずっと黙って橙の後ろを付いて歩く。村のようなところに至って、奇異の視線を浴びながら撮り抜けて行く。橙はときに撮影の交渉をし、ときに隙を見てとしか言いようのないシャッターの切り方をし、しかしトラブルなく村を越える。彼女の美しさは一役買っているだろうけど、それよりも彼女の漏れ出る魅力、命と愛に溢れた感じだろうか、それと度胸が結果を生んでいるように思う。二つ目の村も同じように過ぎたところで日が暮れる。お構いなしに突き進む橙が行く先には昨日とは別の駅があった。

「すごいな。超能力みたいだ」

「そうだよ。超能力で駅を見付けてるんだ」

 今回は真偽が分かった。

「それは冗談だね」

「うん。昨日の夜に予習してた」

 結局言えないまま今日の終わりに差し掛かっている。昨日のデジャヴのような座り方で、でもまだタクシーは呼んでない。

「橙、今話してもいいかい?」

「いいよ。今日の撮影はおしまい。多分、撮影で中断されたくない内容なんだよ」

「そうかも知れない。俺は、今、バンドから逃げて来ている」

 橙が薄く頷く。それだけで何かが零れそうになる。

「うん。薄々気付いてた」

「昨日はツアーの最終日だったんだ。打ち上げの席で俺は昔にヒットした歌だけをやるライヴなんて人間DVDだと言ってスタッフと喧嘩をした」

 また橙が頷く。

「でもその戦いはうやむやになって、宴席は続いた。だから俺はそこから逃げたんだ」

「それであの駅に来たのね」

「俺は自分が成長していると思っている。曲だって。それをこそ世間に発表したい。なあ、橙。これっておかしなことなのかな?」

「全然。最新作こそが最高傑作。それを忘れたら作り手としてもう終わってるよ」

「じゃあ俺はずっと終わっている作り手のフリをして生きて来たんだ。十年は長い。新作だってあった。でも、それもヒット作の自己模倣だったのかも知れない。でも橙、俺は本当に終わった作り手じゃないんだ。擬態しているだけなんだ」

 ふふっ、と橙が笑う。

「そうじゃなきゃ、ここまで来ないよ。ブルー、君はきっと私と同じ魂の色をしているよ」

「魂の色?」

「価値観の素とでも言えばいいのかな。君は作品に絶対的価値を信じられる人だよ」

「どうしてそう言える?」

「直観が三分の一、ブルーの行動が三分の一、残りが、今日一日私が撮影をするのを、絶対に邪魔しなかったこと。他人の作品を限りなく尊重出来るのは、作品と言うものへの考え方がそうだとしか思えない」

 なるほど。彼女は俺の大切を知ったのだ、今日の一日で。そして彼女は俺の悲しいも知った。きっとそれは最初から。

「俺が逃げた意味はあった」

「それは次の作品が出来てから言おうよ」

「いや、橙に会えたことだけで十分に意味がある。今の人間DVDから俺は必ず抜け出す。しがらみは大量にある。だけどそれを捻じ伏せるくらいの曲があれば、突破は出来る筈だ」

「だからこそ、次の作品が出来てから、でしょ?」

 悪戯っぽく笑う橙。出口は確かにそこしかない。

「なあ橙、明日もう一日だけ、一緒に居させてくれないか?」

「今日と同じ条件でなら、いいよ」

「恩に着る」

「さて、タクシーを呼ぼう。次の街まで行くよ」

 昨日と同じように煙草を吸いながら待つ。そう言えば朝以来初めての煙草だ。

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