二人の男

三色団子

第1話

「私が思うに」

 ジョンは持ち上げたグラスを左右に振り、カラカラと心地よい音を鳴らした。

「まったく、現実ほど残酷で救い難いものはない」

 グラスを傾ける。ウイスキーが喉を通り抜ける不気味な音が静かな店内に響き渡る。

「そうかい?」

 ビルはカウンターを挟んで目の前に座るジョンがうまそうに酒を飲むのを眺めながら言った。「僕はそうは思わないな。現実だって稀に甘美なときめきを見せることはある」

「どうだか」

 ジョンは眉をひそめたまま吐き出すように呟いた。

 ビルは呆れたように肩をすくめると、背後の棚にずらりと並べてある瓶の中から一番高いワインが入っているものを選び取り、栓を抜いた。それを店に置いてある中で一番高いワイングラスに注いで、ジョンの前に滑らせる。

「飲めよ」

「いや、いい」

 ジョンは目の前に流れてきたワイングラスを乱暴に突き返した。中に注がれたワインが左右に波を立てる。

「あまり高いワインは好きじゃないんだ。金をそのまま飲み込んでいるような味がする」

 ビルは目をむいた。

「安い酒を飲んで高い酒を飲まない人間なんて聞いたことがない」

 ジョンはぴくりとも笑わない。沈黙。店に客はジョンしかいないから、二人とも口を噤んだらそこに残るのはグラスの中にある二つの氷が琥珀色のウイスキーと同化していくパキパキという音だけになる。ビルはワインを下げて苦笑した。

「君の思想がゆでる時間を間違えたパスタみたいにひん曲がっていることは知っているつもりだが、今日のは格別だ。なんだ、サリーにでも振られたか」

 ジョンが顔を上げる。サリーというのは彼が昨年娶った美しい妻だ。

「なに、振られちゃいない。でも詰まるところ似たような話かもしれない。なあ、聞いてくれるかい」

 ビルは笑う。

「もとよりそのつもりで来たんだろう」

 ジョンは照れくさそうに目を逸らし、それからいかにも深刻そうな口ぶりで言った。

「これは自分ではまったくどうしようもないことなんだ。だからせめて誰かに聞いてもらわないことには何も始まらない」

 ビルは静かに頷く。

「生きていれば誰にだってそういうことはある。そしてそのような状況に陥ったときこそ頭を冷やした他の人間というものが必要になってくるんだ。で、何があった。僕で良ければ喜んで聞こう」

「そういうけどね」ジョンは安い酒を煽った。「出来ることならこんな話は自分でも信じたくない。くだらない夢だと片付けることができればどんなに楽か分からない。でも確かにこの目で見て体験したことなんだ。つまり現実だ。実際に起こったことならば、いかなることでも受け入れなければならない。そうだろう?」

「いかにも」

 ビルはまた頷く。「我々はいかなる事実も受け止めなくてはならない。それはとても困難なことだが、現実をどこかへ押しやって進むことはそれ以上に危ない。そうやって出来た道はいずれ破綻してしまうし、そうなれば取り返しのつかないことになってしまう。だから僕は君の話を信じるし、どれだけ馬鹿みたいな話でも真面目に終わりまで聞くつもりだ」

 ジョンは目の前に佇むアイスペールに映り込む自分の瞳を覗き込んだ。

「やれやれ、まるで文学の教師と面談をしているみたいだ」

 しばしの沈黙が降りた。ジョンが冗談を言うときは(たとえそれがどんなにつまらない冗談だとしても)そこそこ気分がほぐれてきたときに限ることをビルは知っていた。だからビルは何も言わず、ジョンが落ち着いて話を始めるのを待った。

 やがてジョンは心を決めたように口を開いた。

「分かった。私が見たありのままを話そう。でもその前に、何か音楽をかけてくれ。そうでもしないと最後までまともに話せる気がしない」

 わざわざ曲を選ぶのも面倒なのでビルはセットしてあったレコードにそのまま針を下ろした。カルメンが流れ始める。サリーが昨夜一晩中部屋で流していたそれは、聞かずともジョンの頭にこびりついていた。

「これでいい」


  *


「順序立てて話をしよう。まず私はゆうべ、二〇二〇年の夏に行ってきた。もっとも二〇二〇年なんてものは初めて目にしたから、それが本当に二〇二〇年だったのかは確かめようがない。とにかく目についた電光掲示板に二〇二〇年の八月だと記してあった」

 ビルはしばらくあっけにとられた様子でジョンの目を覗き込んでいた。背後ではカルメンが威勢よく鳴り響いている。妻の話を始めようとして、一体どうして二〇二〇年にタイム・スリップしなくちゃならないんだ? 

「君はまず『まず』の使い方を学んだ方がいいんじゃないのか?」

 ビルが茶化すと、ジョンはむっとしたように言った。

「私だってしたくてこんな話をしているんじゃない。ただ本当に起こったことだから仕方なくそのままを述べているだけだ」

 ジョンがあまりに真剣な面持ちでそう言うので、ビルはジョンの話がまるっきり嘘だとも思えなくなってきた。もともとジョンはくだらない作り話をするような男ではないし、終わりまで話を聞くと言ったのはビルだ。

「分かった、悪かったよ。話を続けてくれ」

 ジョンは一口酒を仰いでから咳払いをひとつすると、また口を開いた。

「ゆうべいつものように仕事が終わり、久しぶりにここへ寄ろうと思ったんだ。忙しい仕事がひとつ片付いたから、帰る前に一杯やろうと思ってね」

「久しぶり? ああ、そういやそんな気もするな。でもゆうべ君は店に来なかったぜ」

「そう、私は路地を抜けこの店に着き、いざ店の扉を開けた。しかしそこにあったのはこの閑静な店内じゃない。二〇二〇年の真夏の公園だ。訳が分からないという顔をしているな、私だって訳が分からない」

 ジョンは小さく肩をすくめた。まるで何か言ってみろ、とでも言いたげに。

「念を押すようだが、それは本当に夢じゃないんだな?」

「それは断言できる。夢にしてはあまりにも感覚が鮮明すぎる。一日経った今でもあのまとわりつくような不快な暑さをはっきりと思い浮かべることができる。それこそ手に取るようにね。これを夢と一蹴することはとてもできない。それに店の扉を開けた途端に眠り込むなんてことはあり得ない」

「うむ」

 ビルは腕を組み、考える。カルメンは組曲の第一番に入り、一人だけ場違いに盛り上がりを見せている。ここはとりあえずジョンの言うことを事実だと仮定して話を先に進めるべきだろう。

「それで、君はそこで何をしたんだ?」

「何もしていない。ただ交差点に面した公園のベンチでじっと座っていただけだ。電光掲示板もそこから見えた。最初からその状態だったから、要するに一歩も動いていない。何しろひどく暑かった。暑いという言葉に収まりきらないほど不愉快で、神経に直接貼りついてくるような暑さだ。そんな種類の暑さがあることも初めて知った。とにかくそんな暑さでぼんやりしながら、私は交差点を流れてゆく人々を眺めていたんだ。することもないからね。

しばらく眺めているうちに、あることに気がついた。街を歩く人々が皆どこも見ていないということだ。前を見ているように見えるその両眼はよく見ると空っぽの穴ぼこで、平べったい顔に二つの穴ぼこが空いている。たまにまともな眼で前を向いて歩いている人もいたが、そんなのはごく稀だ。そして人々はその穴ぼこで自分のことしか見ることができない。でも穴ぼこの人々は別の穴ぼこに自分を見てほしいと思っている。だからふらふらと他の人の前に行くんだ。そうして誰かが目の前に来ると、人は穴ぼこの顔で一瞬だけにっこり笑って—でも穴ぼこはやっぱり自分しか見ちゃいないんだが—その人の体をすうっと通り抜けていく。そういうことを皆やっている。

私はそれに気が付いたとき恐怖で身震いがした。何が怖いかって、そんなことを繰り返しながらも誰もが孤独だということだ。むしろそういうことを繰り返すほど、心の芯まで冷え切るような孤独を抱え込んでいくんだ。私はその恐怖に戦慄した。もうこんな光景を眺めるのはたくさんだと叫んだとき、私はまた夕暮れのこの店の前に突っ立っていた」

 ジョンはそこで一息ついてグラスに手を伸ばした。しかしグラスの中には溶けかけた氷の欠片しか残っていなかった。

 ビルはジョンの話した光景を頭に思い浮かべようとしたが、それは無理だった。ビルは二〇二〇年を知らないし、ジョンの話はいささか抽象的に過ぎた。ビルはしばらく考えを巡らせていたが、結局どんな結論をも導かなかった。ジョンは黙っている。

「それで」ビルはまた話を進めることにした。「今の話はサリーとどう関係するんだ?」

「私は結局そのまま家に帰り、何も考えずに横になっていた。夜も更けて帰ってきたサリーが、ベッドにいる私に高い声でねえあなた、子どもができたのよと叫んだ。そのときは物事を考えるのにはあまりに疲れすぎていたが、翌朝目を覚まして熱いコーヒーを飲んでから妻の発言をもう一度飲み込んだとき、私は全身の血の気が引くような気がした。だってそんなはずはないからさ。私は子どもをつくるのはもう少し身を固めてからにしようと考えていた。だから、どれだけ酔っていい気分になった夜でもそのことだけは気を付けていた。でもサリーは妊娠した」

 カルメンはとっくに終わっていた。ビルは徐に制服のポケットからアイスピックを取り出した。先端に刺さっている古いコルクを抜くと、冷たく鋭い針が顔を覗かせる。ビルは二人の間に佇むアイスペールにそれを突き立てた。中の氷を突き抜けて、スチール製のアイスペールが悲鳴を上げた。

「私にはどうも、この奇妙なタイム・スリップとサリーが妊娠したことが全くの無関係だとは思えないんだ。だから君の意見を聞きに来た。こんなことを話せるのは君だけだ。なあ、君はどう思う?」

 ビルはアイスピックが突き刺さったままの、ジョンと自分とを分かつ目の前のアイスペールを覗き込んだ。

 そこに映り込むひどく歪んだ自分の顔には二つの大きな穴ぼこが空いているように見えた。


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