2-13
引き戸を開けて診療室に入る。真っ先に目に入ったのは壁際に三つベッドが並んでいて、その横に体の調子を整えると言う機械が置かれていることだ。ベッドの側にはカーテンが畳まれている。ベッドの反対側の壁にはツボなどが細かく書き込まれた人体図が貼られている。その横には古本の詰まった本棚が佇む。他に整体に行ったことはないが、どこか懐かしい雰囲気を持った独特な雰囲気を出していた。
沢渡さんは作務衣を着て窓際のベッドの横に立っていた。春花は沢渡さんを見て「わ」と小声で感嘆の息をもらす。
「どうした?」
「……い、いえ何でもないです」
「そうか」
聞いてみたかったが沢渡さんとの自己紹介の方が先だ。本人も少し頬が赤くなっている。後で聞いてみるか。
何事もなかったように再び歩き出し、沢渡さんの前で立ち止まった。
「今日はよろしくお願いします。こっちが妹の春花です」
「桜庭春花と申します。今日は兄がお世話になります」
礼儀正しく頭を下げた。沢渡さんは感心したように「ほう」と頷いた。
「ちゃんとした子だ。兄よりもずっと礼儀正しい人かもしれない」
「否定できません」
「ちょっと!兄さんの上司だったんでしょう?」
「元上司だから今は対等だよ。まあ、それなりのことをすれば診療の腕が落ちるかもしれない」
「これから治療を受ける患者に言うことですか?」
「治療じゃないよ、整体」
にへっと笑う。こわっ。正直本気でやられたら明日の街の見回りは延期になる。早急に事を進めたいこちらは絶対に忌避したい。
「……よろしくお願いします」
「はいはい。そこに横になって」
しなびた青菜のように頭を下げ、靴を脱いで診察台にうつ伏せになった。
春花は促されて窓際の椅子に座った。沢渡さんは俺の真横に立って、
「今日は腰かい」
「はい。昨日重いものを持ったせいか、腰に痛みがありました」
「今は痛い?」
「あまり……あ、押されると痛いです」
鈍い痛みが走り、小さく悲鳴を上げる。今日は普通に動けたし、痛みもなかったから困らなかったが、放っておいたら悪化していたかもしれない。怪我の功名かはわからないが、来てよかった。
沢渡さんはなるほどなるほどと体を調べた。春花は興味深そうにこっちを見ている。そんな春花を目だけで沢渡さんは観察している。
暫く体の調子を調べた後、
「軽く腰を痛めただけだ。ちょっとマッサージすれば良くなるよ」
「ありがとうございます、安心しました」
「君の場合は体も動かしているから、座りすぎで運動不足ってわけじゃない。急に重いものを持って痛めただけだね」
「慣れないことしました」
「妹さんが来て張り切ったのかい?」
「……そうです」
「兄さん」
かぶせるように続けた。
「兄らしいところを見せたかったんですね」
会ったことない妹のために頑張ったのもある。おそらく一番は兄が居たからだ。俺の兄への後ろめたさと後悔は置いておく。ただ、兄妹ができたならせめて後悔させないようにしたかった。おそらく春花に強硬な手を取れないのは苦い鉛のような感情からだ。
そこまで見越して妹を送り込んだのかもしれない。相手は俺のことを良く調べたようだ。内心で皮肉気に笑う。
春花と沢渡さんは感動したのか、春花は顔を真っ赤にして目をそらし、沢渡さんは変な顔をした。
「……おかしなこと言いました?」
「いいや。そうだ春花さんはお兄さんのことどう思う?」
「すごくいいひとです」
即答だった。熱のこもった声で語り始めた。
「来たばかりの私にやさしくしてくれました。まだ会ったばかりでお互いのことを知らないのにすごく気にかけてくださってます」
「それはよかった。今のうちは張り切るだろうけど、長く暮らしていけば悪いところも見える」
「それは私も努力しなければいけません」
「努力しなくていい」
冷たい声が出た。言ってからずいぶん驚いた。
「……努力じゃなくて、気になることは話し合おう。どうしても分かり合えないところもあるから、そこも分かり合った方がいい」
「わかりあえない、ですか」
「ああ」
「うーん」
わからないように頭を傾げる。これ以上はこっちが深入りされても困る。話題を買えようと、無理やり別の話題を投げた。
「どこから来たんだっけか?」
「……あ、山中の方です」
「あのあたりか。東京でも結構田舎の方だね」
「奥多摩位田舎ですね」
苦笑いした。確かにあそこは本人も否定できないほどの田舎だ。
「中学校までは地元に行けましたが、高校になると通信だったり遠くのところに行くかのどっちかですね」
「両親からはどっちがいいか勧められなかった?」
「あんまり言われませんでした。一番近い高校でも自転車で二時間くらいかかるので、通信か寮のある高校かのどっちかしかなくて、寮に入るか通信で遠隔授業なのであまり引っ越しには影響なかったんです」
「二時間も?」
「はい。しかも山道を」
「電車に乗ったり、車で送ってもらうってのは」
「最寄り駅に行くまでに一時間で、乗って二時間半位になります。お父さんの仕事場とは反対方向なので難しいですね」
まじか。少子高齢化が進んで高校の再統合が進んでいるにしても、それは辛い。ど田舎って辛いな。
「だから引っ越すならいっそのことこちらに本校のある通信の方がいいかなって思いました。私みたいな高校からの入学でもあまり差がないので、そのことも考えると一番いいかなと思って決めました」
「そんなに差があるのか?」
「進学校のほとんどは中高一貫校になってますよ。私みたいに途中から入るってなると、ものすごく偏差値の高いところか、ちょっと治安の悪いところか、地方の高校になります。だから東京の辺境にあるっていう立地は本当に通学に向いてないんです」
「じゃあ鳩島に引っ越せて嬉しい?」
「友達と離れるのはちょっと寂しいですが、いろんなものがあって楽しいです。学校の先生もいい人ばかりで、これからが楽しみです!両親は在宅勤務にシフトするみたいなので、そのあたりも気にしなくて大丈夫で、尚更よかったです」
最後は笑顔になっていた。彼女は本当に楽しみにしているらしい。勝手に邪推する俺たちの方が非難されている気すらした。
「それは良かった。人が多い分危ないところもあるけど、その分可能性を広げやすい。特に企業都市だから、最新の技術を見られる」
「監視カメラみたいにですか」
「もっと娯楽的なものもあるよ。あしたデパートの方に行けば沢山あるよ」
「そんなにあるんですか?」
「共同出資しているから物凄い凝ってるよ」
「凄い!楽しみです!」
春花は目を輝かせた。本当に期待しているらしい。
それから話しつつ体をマッサージしてもらった。時折様子を伺うと沢渡さんは子犬を見るような目で春花を見ていた。無害とみなしたのか。内心そうであることを祈りつつ、俺は黙っていた。
途中で道中の春花の妙な様子をメールで送った。沢渡さんは数秒無言に変わったが、いつも通りの様子は崩さずに仕事をしていただいた。
それから三十分ほど経つと、沢渡さんが体から手を離した。
「体の調子はどう?」
「すごくいいです」
来たばかりの頃と比べるとはるかに体が軽い。初めて整体に来たが、疲れたら来たくなるほどだ。
「そうか。じゃあ今日はこれでおしまい。支払いの方は玄関で頼むよ」
「ありがとうございます」
診察台から立ち上がる。
春花は玄関に向かう沢渡さんに頭をさげてから俺の側に寄った。
「どうですか?」
「眠い」
「まだご飯食べてないのに」
「本当に体が軽くて……ふわぁ、気分がいいんだ」
「家に着くまでに寝ないでくださいよ」
「気を付ける」
空腹だから多分寝ないだろうが、今日は夕食の後はさっさと寝よう。
寝ぼけた目で玄関に向かい、待っていた沢渡さんに領収書をもらい現金を支払う。キャッシュじゃないのは手数料と年齢層の関係らしい。
「ああ、あとこれ」
封筒を差し出された。
「これは?」
「今日の症状書いておいた」
春花のことか。
「ありがとうございます」
「今日はありがとうございました!」
二人でお礼をいい、軽く手を振る沢渡さんがふと思い出したように聞いてきた。
「そうだ。入室した時どうして驚いていたんだい?」
途端、春花の顔が真っ赤になった。
「そ、そんな大変なことじゃないです」
「気にしなくていいよ。今はただのかかりつけの整体師だから、そこまでかしこまらなくても大丈夫」
沢渡さんが助け舟を出した。
「すみません……作務衣を着ている人初めて見て驚きました」
「ああこっちの方が医療服よりもやりやすいんだ。結構着ている人もいるよ」
「そうなんですか。凄い似合ってます」
「ありがとう。今度は少しサービスするよ」
沢渡さんははははと笑った。春花はさらに顔を赤くした。
「では失礼します」
「失礼します!」
春花は大げさに頭を下げて、俺も続いて軽く頭を下げて帰り道に戻った。
貰った封筒を眺める。
道中のことも一応メールで伝えておいたが、どんなことが書いてあるだろう。
ポケットに封筒を入れて、春花から沢渡さんのカッコよさを聞きつつ行きとは逆に平穏に家に着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます