2-13

 二階に戻ると春花は既に支度していた。玄関に入るとすぐに自分の部屋から小さな鞄を持って出てきた。制服からジーンズにロゴ入りのTシャツの私服に変わっている。

「ただいま」

「おかえりなさい。時間大丈夫ですか!?」

「すぐ出る」

 靴を履き替えてすぐに外に出る。春花も追ってすぐに出た。鍵を閉めて下に降り、表に出る。

 暗くなった通りを電灯が照らす。怪しげな雑貨屋や、エスニック料理屋、カフェなど今が売り時の店が開いている。昼とはまた違う景色に変わっていた。

 歩き出すと春花は俺の側に寄った。女の子特有のいい香りがして、少し固まる。落ち着け。相手は暗いのが怖いのだろう。本能と理性を切り離し、さりげなく春花を店側にして淡々と進む。

「家に一人きりも怖いと思って連れてきたが、やめた方が良かったか」

「まだ午後七時ですから大丈夫です」

 早口で言い切る。意地を張っているようだ。昨日今日だから怖がるのは当然で、できれば俺と共に家に居たいのが本音だろう。しかし、申し訳ないがこちらにも事情があってできるだけ早く情報を集めたい。それだけでなく腰の方も変な感覚がしてきた。手足は部品を変えれば治るかもしれないが、生身の腰はそうはいかない。明日突然動けなくなったら春花どころじゃない。こちらの事情も考えると、今日中に整体に行くのは仕方ないことだった。

 それはそれとしてこのまま怖がらせておくのも申し訳ない。そう思い、春花の恐怖を紛らわすために話しかけた。

「俺が変えるまで何してた?」

 突然の会話に驚いたのか、「えっと」と呟いてから数秒間沈黙。その後に落ち込んだ様子で話しだした。

「学校からの宿題を解いてました」

「あまり進まなかったのか?」

「……はい。先生の話は面白くて、質問にちゃんと答えてくれるいい先生なんですけど……出される宿題がすっっごく難しいです」

「どういう風に難しいんだ?」

「見たこともない問題出してきます。三次方程式の因数分解の授業の後に、五次方程式の因数分解を求める宿題が出たり、証明の宿題を出してきたりします」

「結構応用的だな」

「数学好きな友達は楽しんで解いてます。私は……そこまでの熱意がないので、ものすごく時間かかりますね」

「その口調だと、ちゃんと宿題やってるんだな」

「ちゃんと出してますよー。あかねと協力したり、数学好きな友達に手伝ってもらったり先生に聞いたりしてものすごく頑張ってます」

「真面目だな」

「通信なのでサボる人はサボります。私もそういう人見てますから一度止まったら、全部サボりそうで怖いんです」

「まだ一か月なのにもう学校来てないのか」

「プロゲーマーの人で二留の人もいますよ。今のところ顔見たことないんですよ」

「……プロはちゃんと学業やっていると思ってたんだけどな」

「テスト受けたらちゃんとできるので、多分今はやる気ないだけだと思います」

「通信に通う理由なくないか?」

「でも高校生っていう立場は得られますよ」

「そこか……」

 仕事に集中したいんだろうが、あったこともない奴のことを話せない。ただ、春花は真面目であることがよくわかった。

 以前の記憶はあるらしい。ふと気になり、聞いてみた。

「四月は通信に通ってたのか?」

「はい。家から優先つないで聞いてました。ARを使って聞いてました」

「……うちの貧弱なパソコンでも大丈夫か?」

「ノーパソで大丈夫ですよ。ARで受けたのはそこにいる気分が欲しかったんです。学校に行けなかったので気分だけでも味わえたらと思ってました。今は動画見られるだけで充分です」

「そうか」

 今度月城に聞いてみるか。配信のために高性能ゲーミングパソコンとか色々持っている。周辺機器は最新式に買い替えることもそれなりにあるから、何か借りられるかもしれない。

 春花はずっと同じ部屋に居ると辛いと言っていたから、そのあたりは本人の調子に合わせるしかないだろう。

「中学校までの友達とはどうしてたんだ?」

「友達……ああ、えっと」

 春花が足を止めた。それどころか、口を開いたまま止まる。

 どうしたんだ?俺は春花の前に立ち、軽く手を振る。反応はない。瞬きすらしない。異様な雰囲気に嫌な予感がした。熱帯魚専門店の怪しげなブルーライトに照らされ、春花はマネキンのようだ。

「春花」

 軽く肩を叩く。変化はない。

「春花!」

 肩をゆする。

 春花の頭がぶるぶると震えた。激しく震えるさまが人間のものに思えず手を離す。春花はそこにしりもちをついて、震えが止まった。

「……あれ?」

 きょろきょろと辺りを見回す。今まで自分が何をしていたか忘れたような表情。何事もなく春花は立ち上がり、服をはたいた。

「すみません、転んじゃいましたね」

 体を見回して汚れがないかと見回している。俺は何を聞くべきかわからず、呆然と聞いた。

「……けがはないか?」

「多分大丈夫です。細かいところは明るい場所で見ますね」

 買ったばっかだったのに。転んだ自分に怒っているようだ。頭痛のことなんて全然覚えていない。流石にここで春花がおかしいことに気づいた。トリガーは過去の友人の記憶か。前両親のことを聞いても普通に返していたことを考えると、一部の記憶を聞くとエラーが起きるのかもしれない。

 不確定要素が多すぎる。言葉を選ばなければならない。深呼吸して、落ち着かせる。そこで動画を取っておくべきだったと後悔した。春花はこちらに気づかず、服の一点を不満げに見つめている。

「ほんっと何にもないのに転ぶとかないですよ。恥ずかし」

「まあ、そういうこともある」

 普段通りの口調だろうか。渇いてないか。心配だったが気にしてないようだ。

 春花は体の点検を終え、此方を見た。歩き出さないとだめだ。そう思い

「行こうか」

「はい」

 何事もなかったように歩き出す。春花は申し訳なさそうに眉を下げていた。

「すみません心配させてしまって」

「いいんだ。来てばかりで疲れてたんだろう」

「仮眠が足りなかったのかもしれません……」

「寝てたのか?」

「三十分くらい机で寝てました。それからずっと宿題してたので、そんなに動いてないはずです」

「気づかない疲労もある。今日は俺が夕飯作るか」

「大丈夫ですよ。兄さんは気にしすぎです」

 ちょっと不満げに目をそらす。しかし先程の挙動は異常だった。一体何だったのか聞きたいが、またあんな風になったら頭に悪影響があるかもしれない。専門の医者に連れていくべきかもしれない。それと安心できる要素かもしれないが、春花は何も知らない可能性が出てきた。こんな不定要素の記憶を合意で持たせるなら、それだけの見返りが必要だ。

 春花は何故記憶の改竄が必要だったのか?……わからない。

 不明点ばかりだが、春花をあの状態に戻しても平気でいられる精神は持ってなかった。今の平穏のまま、問題解決を目指す。辛い目に遭うのは見たくなかった。

 春花はふと思い足したようにこちらを見た。

「そういえば何話してましたっけ?」

「……数学の宿題が難しい話だ」

「そうでした。家に帰ってからも宿題残ってるんですよー」

「もし聞きたいことがあれば見させてくれ」

「本当ですか?」

「一応高校は卒業した」

「……お願いします!」

「迫真だな」

「だって全然わかんないんです!」

 それから数学や他の教科について話を聞いたりして、気が付くと整体の前についていた。

 春花は整体と書かれた看板を見て安心したように息を吐いた。何事も起きなかったことに安心したのだろう。俺の方はそれどころじゃなかったが。

 ピンポンを押すと「入っていいよー」と呑気な声が返ってきた。すぐに鍵が開き、扉を開いて敷地に入る。春花は後ろについて来た。

「治療室に通されるからついてきてくれ」

「入っていいんですか?」

「ああ。別にみられて恥ずかしいものもないし、待合室で一人も寂しいだろう」

「恥ずかしくないですか?」

「どこが?」

「いえ……」

 少し頬を赤くして目をそらした。何を考えているのか。こちらがむしろ聞きたい。

 穏やかな照明の玄関を開け、ガラガラと懐かしい日本家屋に入った。




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