1-1

 優雅なパッヘルベルのカノンに意識が覚醒する。暗い部屋の中、ぼんやりする頭で悠長に音楽を流し続ける白い円筒の頭の出っ張りを押す。すると音楽は止まり、部屋の電気が点灯する。白い壁とキッチンへのドア、クローゼットの扉、ベッドの上の波打つ布団が現われる。

『おはようございます』

 ハスキーな女性の無機質な音声が響く。白い円筒の中心の一点が赤く点滅し、緑に変わる。

『体温、血圧、心拍数異常なし。体に異常は見られません』

「そうか」

 必要なことだけを聞き終え、俺はベッドから立ち上がる。

『本日五月七日、晴天、最高気温は二十四度……』

 離れる俺を無視して義務的に気象情報などを流す。半分聞き流しながら風呂場に向かう。

 キッチンのドアを開くと同時に軽く右手を振る。すると目の前に手紙のアイコンが現われ、『新着はありません』という文字に入れ替わる。あくびをしつつ右手を強く振ると消えた。いつもある筈のメールが無い。昨日も会話したから死んでいるわけではなさそうだが、放置できない。上の階に住んでいる家主は仕事の窓口の一つだ。もし依頼が来ていれば昼夜逆転のあいつが必要情報をまとめてメールを送ってくる。もし何もなければ適当なニュースを送ってくる。どちらも無いのは困る。

 仕方ない。まずは思い当たる節を確認する。

「gametube、オン」

 呟くと、目の前に動画サイトのホームのウィンドウが出てきた。キッチンの正面にある扉を開けて、更衣室の洗面台に向かいつつ登録されたチャンネルを開く。眼鏡の銀髪碧眼のゴスロリ少女の3Dアバターがアイコンの『しじみちゃんねる』は約八十万の登録者を誇る動画チャンネルであり、上の家主の収入源の一つだ。この海野しじみという自作キャラクターの3Dアバターを被ってFPSの技術、凄い動画を投稿したり生配信している。最新動画の投稿時間を見ると、今朝の三時だった。予約投稿じゃない。もう十万回再生されている動画を投稿して、今頃寝ているのだろう。

 確認終わり。右手を振ってウィンドウを消す。

「起こすか」

 うんざりするようにため息をついて、ハンドルを上げて水を出す。顔に冷水を付ていると、水音の遠くから長々しい演説を終えたスピーカーが、締めの言葉が聞こえた。

『では今日も、良い日を』

 部屋が静寂に変わる。水を止め、棚の上に重ねられたタオルを取り顔を拭く。そのまま洗濯機に放り込み、キッチンに戻る。誰もいない部屋は人には寂しくも見えるだろうが、やっと手に入れた平穏であり安心できる場所だった。

 キッチンへ戻ると穏やかな真っ白な朝日が差し込んでいた。白く、ヴェールのような光は爽やかさと神聖さを感じさせた。

 先程までのちょっとした苛立ちが消え、穏やかな心地に変わる。まあ何度か電話かければ起きるだろう。夜間を任せたのはこちらだ、メールが来ないのは風邪を引いた時と今回だけだ。今のところは注意してそれで終えればいい。

「さて、やるか」

 頭を入れ替えて、冷蔵庫から食材を取り出し適当な朝食を作り始める。

 こうして一日が始まった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る