第29話 居るべき所
洞窟内に建てられたテントの中。真っ白な空間はまるで私の頭の中を表しているみたいだ。もう、何がなんだか分からなくなってきちゃった。
墓に眠る母を置き去りにし、顔も覚えていない父に会いに行く理由とは? 父に会い、母の死を告げたところで何になるのだろうか? 考えれば考えるほど分からなくなってきた。
「乃蒼さん、ちょっと落ち着いた方がいいんじゃない? 寝起きで、まだ頭がうまく回らないのかも……あ、そうだ!」
よほど困って見えたのだろう、柳さんが心配そうに声を掛けてくれる。そういえば、柳さんとお喋りをしている途中だった。いきなり黙り込んで失礼だったかなぁ。
しかし、特に私の非礼は気に留めていないみたいだ。何か思いついた様子で柳さんはテントの外を見やる。
「作業続きでお風呂に入ってなかったよね。他のテントにいる隊員に頼めば、お風呂の絵を貸してもらえるはずだよ。けっこう大きなお風呂よ。絵師はメンタル管理も重要だから、リフレッシュしなきゃね。よかったら一緒に入らない?」
お風呂! なんて久しく聞いた言葉だろう! 貧しい村ではほとんど水浴びしかできなかった。最後に温かいお湯に入ったあの頃は、お母さんはまだ元気に生きていたっけ……。もう遥か昔のように感じるなぁ。
「お風呂なんて久しぶりです! 入りたいです! 入浴回、大好きです!」
「う、うん、良かった。(入浴回?)お風呂はね、物資担当が持ってるから、借りてきてもらえる? 昨日、私達の絵を預けた人だよ」
昨晩、私と柳さんである程度の量の絵が完成すると、絵を管理するという旗師会のメンバーに二人で預けに行っていた。このテントの向かい側に旗師会のメンバーが控えている別のテントがあり、新しく入った私の挨拶も兼ねて訪れたのだった。しかし、みんな私にも絵にも興味なさそうにし、ただただ頷いて私と絵を受け入れた。徹夜での作業で頭がボーッとしていたから、あの時は気にしなかったが、なんだか嫌な雰囲気だなぁ、と感じたのを今更思い出した。
……と、ここでまた暗くなると柳さんを心配させてしまう。胸の奥のモヤモヤを押しつぶしながら、声を張って応える。
「はい、了解です! すぐ借りてきますね!」
「うん、私はその間に部屋の片付けをしておくね。また若草隊長に怒られそうだし……」
そう言ってテントの中を見渡す。机の上には紙や鉛筆、柳さんが「失敗作」と言う絵の数々が散乱している。そして、それらが可愛らしく思えるほど辺りにとっ散らかっている私の絵の具や筆の数々。別にこのままでも良いと思うんだけどなぁ。
「乃蒼さんの画材も適当にまとめて良い?」
「あ、はい。大丈夫ですよ! じゃあ私は早速お風呂の絵を借りてきまーす!」
敬礼し、私はテントを出た。その時、後ろから柳さんが小さく「注意した方が良いのかな……。あぁ、なんで私って怒れないのかしら……」と言っているのが聞こえた。
なんだか色々苦労されている人なんだな。そういえば紫苑さんもよくブツブツ言っていたのを思い出した。
テントの外。脇谷さん達が隠れ住んでいる洞窟内は、昼過ぎだというのに真夜中のように真っ暗だ。今しがた私が出てきたテント以外にも幾つか白いテントがあり、洞窟内の微かな光を反射しているが、それでも暗い。
「そういえば、子供達は……?」
先日まで洞窟のあちこちにいた子供達の姿が見当たらない事に気が付いた。洞窟内のほとんどがテントに埋め尽くされているが、どこかのテントにいるのだろうか? 旗師会の人達と子供達、全員がテントに入り切らないように思えるけど……。
あ、そうか。思い出した。あれは昨日、旗師会が不遠慮に洞窟内に入り込んだ時のことだ。
洞窟の入口の反対側に細い坑道がある。この坑道の奥に更に空間があるということを脇谷さんと若草さんが話していた。精神的に人と会える状態じゃない子供達がいると聞いていたが、恐らくそこに子供達全員を移したのだろう。
昨日から会ってないし、ちょっと挨拶でもしようかな。なんだか人と話したい気分だし。……もしかしたら、紫苑さんについて何か話を聞いてるかもだし。
奥の坑道に向かって歩くと、その坑道から人影が現れた。びっくりして固まってしまった。その人物も驚いた様子だったが、すぐに声を掛けてくれた。
「あぁ、乃蒼さんでしたか」
「……脇谷さん!」
暗くて判断が遅れたが、確かに会おうと思っていた彼だ。坑道の入口からこちらまで歩み寄って来た。私は坑道の奥――真っ暗で全く先は見えないが――を見ながら、脇谷さんに聞いてみた。
「奥に子供達がいるんですか? 野営テントも用意してくれてるのに……窮屈だったりしてませんか?」
あぁ、と少し言い淀んだ後、脇谷さんは答えた。
「大丈夫です。子供達の精神状態も不安定ですので、知らない大人達との接触を避けたかったのです。班長さんも「我々は子供を
ちょっと困った様子で笑う脇谷さん。うーん、たしかにあの班長なら、言っている様子が想像に難くない。
「若草さん、ちょっと薄情じゃないですか?」
声を抑えて言うが、脇谷さんがそれを宥める。
「まぁまぁ。旗師会の幹部ですから。生易しいことは言ってられないんですよ。それより、乃蒼さんの方は大丈夫ですか? まさか、紫苑さんが二次元種――いや、二・五次元種だったなんて、驚いたでしょう」
不意に、急所を抉られたような気がした。
忘れていたが、昨夜あの衝撃の事実が発覚した時、脇谷さんもあの場に居たのだった。
「ショックだったでしょう? まさか彼が人間じゃないなんて。確かに警戒心が強すぎる人だな、とは思っていましたが。正体を知った私達を襲いに来ないか心配です……」
脇谷さんが自分の顎に手をやり、真剣にそう言うが、私は吹き出してしまった。
「大丈夫ですよ! 紫苑さんは根暗ですけど、そこまで性悪じゃ――」
「いや、手負い猪ほど恐ろしいものはありませんしね」
脇谷さんの独り言のような呟き。大げさだなと思いつつも、ワンテンポ遅れてその言葉に引っかかった。
「
いや、よくよく考えるとその可能性もあるんだ。紫苑さんが逃げ出してから、相当時間が経過している。捕まったのなら辺りが多少は騒いでいるはず。なのに、昨日から私は絵の作業にも集中でき、仮眠もばっちりとれた。
ということは、紫苑さんを捕まえるのに難航しているということ。ともすれば、捕まえるのにヤケになった旗師会の人達が紫苑さんを――。
血の気が引いていくのを感じ取れた。未だ鈍く、重い頭の中で嫌なイメージばかりが湧き上がり、押しつぶされそうだ。
一瞬ふらついた私を脇谷さんは手を取って支えてくれた。そして私の顔色を伺いながら答える。
「旗師会の方々から聞いたんです。「あと一歩のところでクリムゾン・ボースプリットのせいで仕留めそこねた」と。乃蒼さん、聞いてなかったんですか?」
……!
「そんな! だって、若草さんは、手荒なことはしないって!」
言いながら、私はその言葉に信憑性が無いことを知っていた。
「乃蒼さん、あの班長さんがそんな生易しい性格だと思いますか?」
トドメを刺すようそう言われ、私は脇谷さんの手を握りながらその場に座り込む。
若草さんの言葉を思い出す。まだ出会って数時間たらずだが、あの人が敵と見なした者を許すような性格ではないということは分かっていた。なのに、紫苑さんを傷つけないという言葉だけは信じてしまった。いや、無理矢理にでも信じたかったんだ。
私は――今更ながら、紫苑さんが命を狙われていることを理解した。なんだか、さっきから「今更」ばっかりだ。私は一体何をしているんだろう。
私は震える足で立ちあがり、脇谷さんに聞いた。
「脇谷さん、知ってたら教えてください。紫苑さんは、どこに逃げたのでしょう?」
「聞いた話ではこの山の麓で見失ったとか。傷を負ってるから、そう遠くへは逃げられないはずだ、と」
「そうですか……ありがとうございます」
私は踵を返す。「乃蒼さん、大丈夫ですか?」という脇谷さんの言葉を無視し、あるテントへと突き進む。中に入ると、旗師会の男性メンバー5人が休憩していた。
挨拶もせず、彼らに問う。
「あの……質問なんですが、紫苑さんを襲ったって本当ですか!?」
突然の来訪と質問にメンバーは戸惑うが、誰かが「あぁ」と答えた。
全身の血が沸騰しそうになりながらも、深呼吸して怒りを冷ます。
「……ところで、私の描いた絵。どうですか?」
問われ、戸惑う5人。
「どうって言われても……別に感想なんて、なぁ?」
1人がそう言うと他の4人が頷く。私はそれを見てペコリと頭を下げた。
「そうですか。分かりました。あ、これ私と柳さんのご飯ですよね? 頂きます」
机の隅にあったレーションを奪うように取り、私は足早にテントを出た。旗師会の人達のザワつく声が聞こえたが無視した。
テントの外にはもう脇谷さんはいなかった。子供たちのところに戻ったのだろう。もう一言二言会話したかったが……まぁ、仕方ない。
テントに戻ると、ちょうど柳さんが二人分の布団や散らかった画材を片付け終わったところだった。
「あぁ、絵垣さん。今準備できた所なの。具現化する場所を決めて、ご飯の後にでも――」
「ごめんなさい! 柳さん! 私、どうしてもやらなくちゃいけないことがあるので、ご飯もお風呂も要らないです! 柳さんのご飯だけは持ってきました!」
柳さんに深くお辞儀し、レーションを手渡す。柳さんは細い目を開いて驚くが、何も言わずに受け取った。
「では、ちょっと邪魔になるかもしれませんが、作業に移ります! お気になさらず食事と入浴をしていてください!」
言って、私は部屋の隅に寄せられていた机に座る。そして、整頓された画材道具を掴み取り、絵の制作に取り掛かった。
◇◆◇◆
何も食べず、風呂にも入らず、そして、休むことなく筆を動かす。我ながら、その筆の速さは昨夜から今朝までのものとは比べ物にならないほど速かった。しかし、質は一切下げているつもりはない。ただただ渾身の絵を描き続ける。
時間の感覚が完全になくなってしまったが――作業開始から数時間後。
「できたっ!」
私は大きくため息をこぼす。もしかしたら呼吸すらも忘れていたのではないかと思うほど、大きなため息だった。久々の充実感に包まれ、周囲を見渡す。
私の座る机の周りには、沢山の絵が床に敷き詰められている。机の上に収まりきらず、床に置いていったのだ。私は散らばった絵をかき集め、集めながら数を確認し、机の上に積み上げた。
「うん」と頷くと柳さんの方に振り返る。
「柳さん。「凍結」の抽象画を十枚、「反射」を十枚、そして「回復」を五十枚追加で描きました。若草さんが言っていた枚数より多く描いたつもりです」
「え、えぇ。多分、「回復」もこれだけあれば十分ね」
柳さんは積み上げられた絵を一枚一枚見て行く。見終わると、視線を私の顔へと移した。私は思わず視線を逸らし、少し、考える。
言わなきゃ。喉が詰まりそうになりながら、声を振り絞る。
「や、柳さん! ちょっと、ご相談したいことが……」
「うん。何でも言ってちょうだい」
と、柳さんが答える。落ち着いた大人の様子。やっぱりこの人、好きだなと改めて思う。この包み込んでくれる感じは――そう、お母さんと似ているのだ。
なんだかちょっと泣きそうになったが、私は姿勢を正し、気持ちを整え、言う。
「私は、絵を描くのが好きです。ここでなら、好きな絵を描いて褒められる、とても良い場所だと思います。……でも、旗師会の方々は絵が嫌いなんでしょうか?」
柳さんは頷く。
「えぇ。「絵」は私たちにとって大切な武器でもあるけど、憎むべき「敵」でもある」
やっぱりそうだ。いや、それが常識であることは、あの人からも聞いている。しかし、私の中では、それは常識ではない。
「でも、私は絵が好きなんです! だから、旗師会の皆さんとは考えが合わないんじゃないかと……」
「それと……」と、言葉が小さくなるのが自分でも分かった。情けないが、言葉が続かない。
しかし、柳さんは私の言葉を待った。待ってくれていた。私は詰まる言葉を腹の底から押し出すように、放つ。
「それと、実は内緒にしていたんですが……私には夢があります! 私は、描いた絵をたくさんの人に見てもらって、楽しんでもらいたいんです! いつか、平和な世界になったら、漫画も描きたいんです! だから、私は皆が楽しめる絵が描きたいんです! ……でも、旗師会の皆さんは私の絵を絵として見てくれません。一つの武器としか、見てくれません!」
「そうね。絵師にとって、絵を見てもらえないのは辛いことよね。でも、あなたには私たち以外に、絵を見てくれる人がいるのね? ――それが、紫苑君なの?」
紫苑さんの名が出てきたことにちょっと驚いた。けど、すぐに頷く。
「はい! あの人、「ヘタクソ!」とか言うので、正直凹むこともありますけど……。でも、それだけ紫苑さんは私の絵をちゃんと見てくれてる証拠です! 口は悪いですが、私が苦手な具象画の指導もしてくれます! 紫苑さんといると、絵がどんどん上達していけるって思うんです! それに私が得意な抽象画を描いても怒りません! 感想も言ってくれます! 紫苑さんは、私の絵を一つの作品として見てくれるんです!」
私の必死な回答に柳さんは吹き出した。私はハッと我に返り、顔が段々と熱くなるのを感じた。
「そっか。彼はあなたの大切な相棒であり……先生でもあり、ファンでもあるのね」
「はい!」
もう一度力強く頷くと柳さんは小さくため息をこぼした。
「乃蒼さんは凄いよ。私にはできない……」
「え? あ、抽象画のことですか?」
「えぇ。それも凄いけど。絵垣さん、あなたにはもう一つ凄い才能もあるの」
なんだろう。いまいちピンとこない。
「な、なんでしょう。元気な所ですか?」
その反応に柳さんは微笑む。
「昨日から乃蒼さんが絵を描いてるところ、隣で見させてもらったけど……あなたって下書きしないのね」
話の要領が掴めず、首を傾げる。
「そう……ですね。面倒なので」
「ふふっ。「面倒」か。普通はね、面倒でも下書きするの。というか、下書きしないと描けないのよ。普通は「この線でいいのかな」とか「もっと良く描けないかな」って悩みながら、戸惑いながら描くの。でもあなたは違う。あなたは一度描いたどんな線でも昇華させて、絵を完成させるの。だから、一筆一筆に無駄も躊躇いもなく、思い切り描ける」
絵を描く時の事を思い出していた。確かに筆を取ると、なんの迷いも生じない。しかしそれは昔から当たり前のようにやってきたことだった。柳さんの話を聞き、それが特異であり、得意なことだと初めて認識できた。
「あなたはきっと、これから先も迷うことなく絵を描き続けるんでしょうね。それは人生においても同じ。あなたは迷いなく進むことができる。そして、全てを昇華し、成功させる強さを持っている。だから、自分の選択を、その才能を疑わないで」
そう語る柳さんの瞳は、悲しそうな色をしていた。でも、どこか怒っているような。人の顔色をこんなに見るのは初めてかもしれない。だから、柳さんの感情汲み取ることはできなかった。
上手い返答が見つからない。私にできることは一つだけだ。自分の選択を、疑わないことだ。
「はい! ……私、旗師会を抜けます!」
柳さんが頷く。
「うん、分かった。若草班長には私の方から上手く言っておく。だから、あなたは彼の元へ――居るべき所に行って。そして、やるべきことをやりなさい」
そう言って、柳さんは手を差し伸べた。私は強くその手を握り返した。長時間の作業で手は疲れ切っていたが、その決別の握手には力が入った。
「ありがとうございました! ……もう、私、行きますね! 紫苑さんが死んじゃうかもなので!」
「うん。いってらっしゃい」
乃蒼は柳さんの手を離した。再三頭を下げ、机の横に置いた荷物を取る。
野営テントから出ようとした、その時――。
「そうだ。これ、持って行って」
振り返ると柳さんは紫苑さんのバインダーと、小袋を渡してくれた。
「雷神とその武器は流石に旗師会で引き取らせてもらうけど……元々あなた達が持ってた荷物は返すわ。その小袋は、いざという時にあなたが使って」
私はそれをリュックに詰め込むと、深々と頭を下げる。
「ありがとう、ございました……!」
そして、相棒の元へ走る。
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