【本編ネタバレ】祝祭――Side. アンジェリカ
「ふう……」
煌びやかな会食の席を終え、廊下へ出たアンジェリカはそっと溜め息をついた。それから、背中が曲がらないように、慌てて姿勢を整える。まだ、迎賓館へ戻るまでは気を抜いてはいけない。
女王になってからの日々は激流のようだ。アンジェリカがなにかを小さなことを一つ為し遂げるためにも多くの手順や儀式があり、それらに忙殺される日々。それでも、一度踏み出した限りはこの歩みを止めることはできない。
「喉が渇いたわ……」
思わず言葉が零れる。会食で出された料理は、ルジェ・マーヤ風に多少寄せられてはいたが、どれも香辛料がきつくて食べるのに難儀した。振る舞われた酒も、アンジェリカの好む果実酒とはかなり違う風味がして、一口飲むにだけに留めてしまった。
異国を理解するのは難しいと、食の面でも痛感する。
すると、アンジェリカの右側から視界のなかに手が伸びてきた。見覚えのある小瓶にストローが差し込んだものを持っている。
「こちらをどうぞ」
耳に柔らかい、男性の声が聞こえた。
「ああ、ありがとうございます」
アンジェリカは思わずそう言って、小瓶を受け取っていた。久しく身内のものには使っていない敬語を遣っていることに自分でも気が付かず、自然と小瓶を口元へ運ぶ。
子供の頃、王宮でよく飲んだ果汁入りの飲料水だった。勉強で疲れたり、礼儀作法の練習が上手くいかず落ち込んだときなど、よく兄のテオドールがどこからか持ってきて差し出してくれた――。
そこまで考えて、はっとストローから口を離した。小瓶をしげしげと眺め、それを差し出してくれた手、「こちらをどうぞ」と囁いた声音を思い返す。
アンジェリカは歩みを止めいまま、ちらりと振り返って背後を付き従うメイドを自分の隣に呼び寄せた。
「この小瓶は誰が?」
アンジェリカに付き従うメイドは全員女性だ。あの手もあの声も、間違いなく男性のものだった。だが、彼女たちは手練れの護衛でもあるのだ。不審な人物を主君であるアンジェリカの傍に寄せるとはとても思えない。
だが、メイドは「申し訳ございません」と口にした。
「わたくしどもの口からは申し上げかねます。どうぞこのことは、陛下のお心にお留めくださいませ」
「それでは、やはり……」
そう呟くアンジェリカの声が震えた。思わず振り返って駆け出したくなる気持ちを必死に抑えつけて、前へ向かってゆっくりとした歩みを続ける。異国に招かれて、女王が醜態を晒すわけにはいかない。小瓶を差し出した手の主も、ここでアンジェリカが自由な振る舞いをできないからこそ、この場を選んで接触してきたのかもしれなかった。
因縁の地、このウェルト・ノッテで。
王宮の敷地内を迎賓館まで移動する馬車のなか、アンジェリカは人知れず涙を零した。
「お兄様……生きていてくださった……」
静かに泣き濡れながら、アンジェリカは溢れそうになる感情を心のなかに懸命に仕舞い込もうとする。
数年前、まだ戴冠したばかりの頃ならば、容易に感情の波に浚われてしまったかもしれない。けれど、女王としての年月を経るなかで、アンジェリカという一人の人間であるより、多くの臣民を率いる大国の女王である自分の比重が増して、いまでは女王としてどうあるべきか、それがわかるようになってきていた。
「それに、お兄様がご覧になっている」
アンジェリカは握り締めた手巾で目元を拭い、顔を上げる。
アンジェリカが誰よりも慕い、そして尊敬した兄。本来なら王座を継ぐはずだった、けれどその優しさ故にあるべき道を違えた優しい人。彼の期待を裏切らない女王になると、アンジェリカは決めていた。
それでも、手巾を握る手は小刻みに震えてしまう。
ほどなく迎賓館に到着し、アンジェリカはようやく宛てがわれた客室に落ち着いた。
「しばらく一人にして」
ドレスの紐を解こうとするメイドたちに、アンジェリカは思わずそう口走っていた。体は慣れない気候に疲れていて、早く寝間着に着替えて寝てしまいたかったのに。
メイドたちは主君の心をよく汲み取ってくれる。なにも言わずに一礼すると、退出間際に「外に控えております」と静かに告げて扉を閉めた。
広い部屋に一人きりになって、アンジェリカは大きく溜め息をつく。行き場のない感情が、吐息に混ざる。涙が溢れそうだった。
こんなとき、君主としての孤独を痛感する。例え身近な者であろうと、否、その存在が身近故に、容易に弱音を吐き出すことができない。自分に仕えるすべての者は、アンジェリカに弱さではなく強さを求めている。その期待に応え続けるのが、女王の役割だ。
けれど、今宵のこの気持ちに、アンジェリカはなかなか心の整理をつけられないでいる。
そのとき、コンコン、と控えめな音が室内に響いた。
最初、入り口の扉がノックされているのかと思い振り返ったが、もう一度コンコン、と響いた音はそちらからではなかった。思わず身を固くする。
また、コンコン、と鳴る。音が少しだけ大きくなった。それで、その音が部屋の奥、ベランダに通じる扉から聞こえるのだと気がついた。
人を呼ぶべきか、逡巡する。けれど、ノックの音に続いた声に、アンジェリカは我知らず音の方へ駆け出していた。
「アンジェリカ? そこにいるの?」
「……ラティ!?」
アンジェリカは分厚いカーテンを押しのける。そこに、不安そうな顔をした懐かしい顔を見つけた。
「ああ、ラティ!」
震える手で扉の鍵を外し、アンジェリカは飛び出すように扉を押し開ける。懐かしい友人の、緑色の宝石のような瞳が目の前にあった。
「アンジェリカ!」
不安げだったラティの目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。それから、その顔に花が開くように笑顔が満ちていく。
アンジェリカは縋るように小柄なラティを抱きしめた。ラティの腕がアンジェリカの背中に回る気配がする。こうして他者と心からの抱擁を交わすのは、いったいいつ以来だろうか。
時間が経って、幼い王女だった自分はもう消えてしまったのだと思っていた。それでも、ラティと出会えて、あの頃の自分が胸の内側をどんどんと叩いている。女王としてではなく、アンジェリカという一人の人間と友人になってくれたラティを前に、アンジェリカの強がりな心が剥がれていく。
それが、こんなにも嬉しいなんて――。
抱擁を解いたアンジェリカは、ラティの目を見つめて早口に言った。
「ねえ、ラティ、話したいことがたくさんあるの。本当に、たくさん。聞いてくれるかしら?」
「もちろん。ただし、わたしの話も聞いてくれる?」
ラティはそう言って、いたずらっぽく笑った。
かけがえない友である二人の積もりに積もった思い出話は、夜半を過ぎても終わることはなく、そのあいだずっと、街のほうからは賑やかな喧噪が絶えることはなかった。
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