砂塵の楼閣――孤児の少女と老僧の話

 乾燥した空気が地上の砂塵を舞い上げて、大気をセピア色に汚している。それが、この首都に住む多くの者が胸に抱く原風景だろう。首都の上層からは、砂色に染まらない青く澄んだ大気のなかに住むことができるが、そこで砂に煙る風景を下に見る者たちはごく限られている。

 あの頃は、砂塵に霞み判然としない下層の姿を幾度となく夢想していた。そんな自分はやはり、あの上層にあっては異端だったのだろう。人々の上に立つ者のうち、いったい幾人が、自分が踏み台にしている一人ひとりを省みることができるだろうか。



 階段状に裾野を広げていく首都にあって、このハリ地区はもっとも下層に位置している。乾いた砂地の路地を裸足の人々やロバに引かせた荷車が行き交い、路地と路地のあいだには様々な素材のあり合わせで建てられたあばら屋が不規則に並ぶ。視界は常に淡い砂色に覆われ、時折、平原を渡る強風が脆い外壁を越えて吹き込めば、数時間は視界が利かないほどの砂煙が立ち籠める。ハリ地区は、首都でもっとも劣悪な環境の貧民街だ。

 上層にいた頃、周囲の者たちはこのハリ地区を「穢らわしい」と忌避した。だが、この混沌の国において、穢れのない場所などあり得ようはずもない。上層は僅かな上澄みであり、その下には様々な色相が混濁して存在している。その混濁を、美しいと思ったのだ。



「おじさん!」

 よく通る少女の声が、広い部屋の向こう側から耳に届いた。ダーナワットは窓の外へ向けていた身体を、部屋のなか、入り口のほうへと翻す。少女が後頭部で結んだ長い髪を尾のように揺らしながら駆けてくるところだった。細長い四肢は太陽によく焼けた小麦色をしており、足は裸足、着ている麻の服も薄汚れてみすぼらしい。だが、ダーナワットを見る大きな翠玉色の瞳は、きらきらと美しい輝きを放っていた。

「おお、ラティか。よく来た」

 ダーナワットは傍らに立てかけた杖を取り、部屋の真ん中に鎮座する執務机を回ってラティを迎えようとした。しかし、衰えた足は思うように動かず、素早い少女の動きには到底追いつかない。まごついているあいだにラティは執務机の前で立ち止まり、胸の前で両手の平を合わせて頭を下げた。目上の者に対する礼儀だと、ダーナワットが彼女へ教えたやり方だ。初めてそれを教えたときの、彼女の瞳を思い出す。今のように輝かしいものではなく、険のある目つきですべてのものを睨みつけていた。それがもう五年も前のこと。

「わたしの娘よ。また背が伸びたかね」

「おじさんこの前も同じこと言ってたよ。三日でそんなに背が伸びるわけがないじゃない」

 ラティは翠玉色の目を細めて笑う。「そうだったかな」とダーナワットも微笑んだ。

「大人から見て、子供の成長はめざましいものだ。毎日見ていても、次々と新しい発見がある」

 そう言ったダーナワットに、ラティは軽く肩を竦めて見せる。

「単に三日前のことを忘れてるだけじゃなくて?」

 ラティははっきりとした口調でやや早口に語り、笑声を上げる。彼女は機嫌の良いときと同じように、怒るときも烈火のように怒りを露わにした。それは、この五年のなかでいつしか彼女に身についた感情の発露方法だった。

 ラティは今年で十三歳になった。そして五年前、孤児で保護者もないラティはいつ死んでもおかしくない状態だった。同じ境遇の子供がするように物乞いや盗みを繰り返しても、身体の小さなラティは自分より大きな子供に負けて、充分に食いつなぐことができなかった。ラティだけではない。そんな子供がそこかしこの路地の端に倒れ込んでいた。死んでいるのか生きているのかは、蠅がたかっているかどうかの違いだけ。道を行く者たちは、まるで見えていないかのように彼らの傍を通り過ぎていく。全体の数があまりにも多すぎて、そのうちの誰かに手を差し伸べることもできないありさまだった。

 初めてこの貧しいハリ地区に立ち、路地を歩いた日のことを、ダーナワットは忘れない。今、目の前に立つラティがかつて彼を見上げたとき、印象的な緑の瞳に宿った虚無と絶望は、当時既に老いさらばえ天の迎えを待つばかりだったダーナワットに、最後に果たすべき仕事をはっきりと自覚させたのだ。

「南門近くの外壁の修繕は、うちとハンサの班でさっき終わらせたよ。ちゃんとした報告は、あとでおじさんの部下の人がしてくれると思うけど」

「助かったよ。なんせわたしの部下たちは人手不足の上に力仕事の苦手な者ばかりだから、君たちに街のことをまかせられるのはありがたい」

「ほんと、おじさんって偉い人の割にまったく権力ないよね」

 遠慮のないラティの口ぶりに笑いで返しながら、ダーナワットは手を叩いて侍者を呼び、茶を二人分持ってくるよう言いつけた。ラティがわざわざ仕事の終わりを伝えに来たのではないことはわかっている。少しばかり長い話をするのに、もてなしがないのではいけない。

「偉いと言ったって、所詮はこの寺を預かる僧正だ。経を唱え祈ることは得意だが、それ以外のことはからっきしさ」

 首都は多数の宗教組織の集合した機関よって統治されている。民族も信仰も異なる人々を一つの秩序に置くためにその本山を皆は「上層」の通称で呼ぶ。「上層」に属することができるものは、生まれ育ちの限られた一握りの者たちのみ。その僅かな人々が、首都のすべてを管理している。

 まったく鼻持ちならない奴らだと、ダーナワットはかつて自分が属していた上層で目にした者たちのことを思う。自らを神の使いとも称する傲岸不遜さ、自分たち以外の人々を同じ人間とも思わない冷血さ。そんな者たちが善や徳を人々に説くさまに虫唾が走り、なにかと彼らと反目し合ううちにダーナワットはいつしか上層での地位を失い、いよいよ老齢となって上層から下層へと蹴落とされた。ここハリ地区は首都の最下層、貧困と無秩序が支配する貧民街が面積の大半を占める。まさしく天国から地獄へ堕ちた様相だ。

 しかし、ダーナワットは万事に置いてひねくれた人間だった。上層で権力の座を競い合う人々の醸し出す空気は彼に馴染まず、彼らが忌避するハリ地区へと「堕とされた」とき、ダーナワットは砂と不浄さをたっぷりと含む空気を胸に吸い、初めて自由を感じたものだ。或いは、ここが己にとっての楽園になるかもしれないと思った。

 「上層」の威光は分厚い砂埃に阻まれてこの最下層までは届かない。権力から放置された無法地帯であるこのハリ地区で、ダーナワットはなんでもできる。

「どれ、わたしの娘よ、話を聞かせておくれ」

 ダーナワットは嬉々としてラティに言い、胸の前に上げた手を、手の平を下にして上下に軽く動かしてその場に座るよう促した。ラティがちょうど立っている場所には豪奢な絨毯が敷かれており、ダーナワットはそこで賓客をもてなすのを常としていた。といっても、今ではすっかり足の衰えたダーナワットは膝の曲げ伸ばしが思うようにできず、絨毯の上に座椅子を置いてそこへ座る。「よっこいしょ」と大層な声を上げて腰を下ろすダーナワットの手から杖を受け取り彼の横へ置き、ラティは正面に片膝を立てた姿勢で座った。

 そこへ、茶を満たした杯を二杯持って侍者が近づいてくる。茶葉をヤギのミルクと多種のスパイスで煮出し、大量の砂糖を入れ込んだ茶は、賓客のもてなしに欠かせない飲み物だ。

「ありがとう」

 スパイスの配合や砂糖の量は、人によって異なる。この寺では、ダーナワットの流儀でそれらが定められていた。砂糖は多めで、なにかと頭を使って考えることの多いダーナワットがリラックスし、同時に頭の回転速度を上げるするためには、この茶が欠かせない。

「あっまっ!!!」

 適温で供された茶を一気に口に流し込んだラティが、顔を顰めた。

「相変わらずべたべたに甘いね、このお茶」

 苦々しい顔で杯を受け皿に戻したラティは、杯の横の碗を掴み、中身を呷る。ラティがこの茶が甘いと言うのは毎度のことなので、水も一緒に用意させていた。

 ダーナワットは茶から漂う甘い香りを鼻に吸い込み、ゆっくりと口に含んだ。舌が痺れるような甘さが即効性の劇薬となって、脳の活動量を一気に上げてくれる。

「甘くなければチャイではないよ」

 恍惚とした気持ちで茶を堪能してから、ダーナワットは杯を持つ手を膝上に据え、ラティを見た。水を飲み干してすっきりしたらしいラティも、思慮深げな翠玉色の目で、ダーナワットを見ている。

 ラティが話を切り出した。

「ハンサと話をしたの。『最近、お寺にも顔を出さないけどどうしたの?』って聞いた。そしたら、隣のカルラニーヤ地区で実入りのいい仕事を見つけたらしくて、どうも素性のよくわからない男が来て、ハンサをその仕事に勧誘したらしいのね。それで忙しいんだって。『どんな仕事?』って聞いたら、初めは言いたがらなかった」

 ハンサはラティと同じ歳の少年で、生い立ちはラティと大体似たようなものだ。かつてはラティと同じように頻繁に寺院の元を訪れ、ダーナワットの話相手になってくれたが、ここのところ来訪が絶えていた。それで、ダーナワットがラティに、ハンサと話をするように頼んだのだった。今日のラティの来訪の理由はこれだ。

 ダーナワットは、一人でまっとうに生きるすべのない子らに、子供でもできる簡単な仕事と、その対価として数日分の食料や日用品を与えている。同時に、ラティぐらいの自立した年頃の子供たちから、まだ幼く働く力のない子供たちまで十人ほどで「班」を作り、目上の子供が年下の子供の面倒を看るような体制を執らせていた。子供たちを集団化し、同一の目的を与えなければ、数少ない仕事を巡って奪い合いをするのは目に見えている。子供たちが諍い合い少ない生存の椅子を奪い合うよりも、手を取り合うことで生きる可能性や生き甲斐を創出していくことが、ダーナワットのもっともなし遂げたいことだった。貧困そのものを容易に消し去ることはできず、すべての子供を平等に救うには、ダーナワットは力及ばない。それでも、社会から残酷に切り捨てられていく者たちに、少しでも生きる希望を持ってほしかった。

「わたし、ハンサの班の子たちを見ていて、小さい子の顔触れが変わってるなって思ったの。『スネーハやアーシャは家にいるの?』って聞いたら、『もっといい場所へ行ったよ』って。貧民街を出たってことらしいんだけど、あんまり言いたくなさそうだったからしばらくなにも言わないで隣で仕事をしていて、そしたら今度はハンサから喋り始めたの。ハンサを新しい仕事に誘った人から、『小さな子供を、子供のいない親に里子として紹介したい』と言われたそうよ。ハンサは半信半疑だったけど、男が提示した対価がこの貧民街では考えられないほど良いものだったから、それに抗えずに男の誘いに乗ったんだって。優しい両親ができるなら、子供たちにとっても幸せなことなんだって自分に言い聞かせてね。……スネーハもアーシャも、もう男に引き渡したって言ってた」

 ラティが翠玉色の瞳を伏せ、沈黙した。ハンサの欺瞞を、彼女は理解しているはずだ。この話をハンサから聞き出す過程で、彼女はどれほど胸を痛めただろうかと、ダーナワットは痛ましい気持ちになる。この五年のあいだに、子供たちのあいだでは互いに助け合う連帯感が育っていった。自分の班でないとはいえ、ラティは年長者として自責の念に駆られもするだろう。ラティは貧民街の子供たちのなかでも、人一倍広い視野を持ち、多くのことを考え、行動を起こすことができる有能さを持っている。ラティが頻繁にダーナワットの元へ通うのも、彼女一人ではできないことも、僧正であるダーナワットならば有効な解決策を執ることができるかもしれないと知っているからだ。

 ラティとダーナワットのあいだには、協力関係がはっきりと成り立っていた。ダーナワットはハリ地区の寺院を統率する僧正として機関から派遣されてきた。それは取りも直さず、彼がハリ地区の行政を担う長であるということだ。ダーナワットはハリ地区の頭脳で、ラティたち子供は、ダーナワットのために手足となって地区のあちらこちらで使い走りや設備の簡単な修繕などを行いながらあらゆる情報を仕入れては、ダーナワットに報告する。そうやって五年のうちに網の目のように張り巡らせた情報網が、ダーナワットのハリ地区統治に大いに役に立っていた。

「子供本人の意思確認もなく、しかも対価が発生しているとなればそれは人身売買に当たるね。明確な法律違反だ。里親を探すのなら、そのための手続きを踏まなければならない……恐らくは子供も……」

 言いかけて、ダーナワットは口を噤んだ。ラティのいる前でその先を発言するのは躊躇われた。

 子供を商品にした人身売買は、貧しい者の集うハリ地区では必ず発生する。身寄りのない孤児は売買の際に足が付きにくい。親のいる子でも、家庭が貧しければ親は子を売って糊口を凌ごうとする。しかし、違法な手段で売買された子供の未来が幸福なわけがない。そうした子供を減らすためにも、「班」を作って孤立する子供を減らしてきたというのに。

「ラティ、じれったいだろうがもう少しハンサの様子を見よう。すぐにでも男を捕らえたいのはやまやまだが、ハンサから情報が漏れたと知れれば、その男がハンサに害を加えるかもしれない。彼が寺院に寄りつかないのも、恐らく男に指示されてのことだ。パトゥにも協力してもらおう。二人交代ごうたいで、これからもそれとなくハンサの話を聞いてやってくれ。ハンサも不安がっているだろう。決して焦らずに。売買の現場を押さえるんだ」

 一件、人身売買を潰すことができれば、しばらくはハリ地区に暗躍する他の悪質な犯罪者たちも大人しくなる。そのあいだに、売られる境遇にある子供を一人でも救い出さなければ。

 やってくれるな、と、ダーナワットはラティの翠玉色の瞳へと訴えかける。ラティは俯きがちだった顔を上げ、頷いた。

「つらい仕事をよくこなしてくれたね。ラティ、悪いのはあくまでも犯罪者の男ただ一人だ。ハンサは悪くない。まして、それを見逃していたからといって自分を責めるのはまったくのお門違いだよ」

「別に、責任を感じてるわけじゃない」

 ラティは不機嫌な顔で反発し、目を逸らす。その反応は図星を突かれたときのものそのものだ。ダーナワットは、重い空気を振り払うように声を立てて笑った。

「今日はここまでにしよう。あまり遅くなると班の子供たちが心配する。帰路のついでに、パトゥに明日、わたしの元へ来るように伝えておいてくれ」

 パトゥの班とラティの班が住む家は近い。ラティは「わかった」と請け負った。しかし、話を終えたあとも、ラティは立ち上がる素振りを見せない。ダーナワットはじっと待った。下手にこちらから訊ねてはいけない。ただ、ダーナワットにラティの言葉を受け容れる用意があることを示すのだ。

 やがて、ラティは躊躇いがちに口を開いた。

「……おじさん、どうして人は罪を犯してしまうの?」

 人は、それが悪いことと知りながら、自己の利益のために他者を害する。ラティもかつては人からものを奪うことで生きながらえてきた。罪を犯さなければ生きることはできなかった。今、どれだけ善良な暮らしを心がけていても、ラティの胸にはいつも暗い影が差している。彼女がダーナワットに対して殊更に協力的なのも、その影があるのためだ。

「罪が悪いのではない。真に問われるべきなのは、罪を容認できない人間にこそある。人すべてが本質的な豊かさを持っていれば、犯罪は起こらないはずだ。正確には、犯罪となるべき要素がなくなり、人はすべてを許すことができるようになる。今日のパンが足りているなら、パンを盗む必要がないようにね。だが、人の世界はそこまで成熟していない。誰かがパンを奪えば、奪われた者は必ず飢えて苦しむ。パンを持たない人にパンを差し出しても誰も飢えることがない、そんな世界になれば良いのだが、人は貧しくて、パンはまだまだ足りない。罪とは、貧しいことだ」

 ダーナワットの言葉を、ラティは神妙な顔で受け取った。眉根を寄せ唇を引き結び、翠玉の瞳は少し上の虚空に、なにかを探すように差し向けられる。

「……わかんない」

 やがて現実に戻ったように普段の表情に戻ったラティは、ダーナワットにそう告白した。

「難しかろう。難しいことを難しく考え、聞き手が眠たくなるように語るのが僧正の仕事だからね」

「確かに、おじさんの説法はいつも眠くなるわ」

「集会でいつも目を閉じておると思えば。ラティよ、寝ておるな」

「朝は苦手なの」

 悪びれもなく言って、ラティはその場にさっと立ち上がる。

「そろそろ帰ろっかな。またね、おじさん」

 そう言って、来たときと同じように手を合わせてお辞儀するところまでを倍速で済ませると、素早く背を向けて駆けていく。五年前より成長し、子供から大人の体つきへと確かな変化を遂げようとしている背中を見送る。もう一、二年も経てば、ラティはダーナワットを必要としない場所へ羽ばたいていってしまうかもしれない。折れそうなほど細長い手足で、それでも力強く、風のように駆けて、どこへなりとも自由に飛び立っていく。

「親離れは寂しいが……巣立ちを見守りたいのも親心だな」

 ダーナワットは両手のあいだですっかり冷めきった茶を持ち上げ、一気に飲み干した。温かかったときよりも甘さはあっさりと口内を抜け、喉へと流れ落ちていく。ふぅ、と溜め息が漏れる。

「あの子たちが巣立つまで、しっかりと守ってやらねばな」

 既に先も短いこの命だ。次の世代のために残せるものがあるのなら、存分に残りの命を燃やしてやろう。ダーナワットは傍らに横たえられた杖を屈んで持ち上げ、「よっこらしょ」と口にしながらゆっくりと立ち上がった。

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