女神と娘は夕暮れの大気に漂う――カーリーとラティの大空散歩
旅の途中、数日ぶりに街へ辿り着いたラティは、夕暮れの迫る目抜き通りを歩いていた。たまたま市の立つ日に重なって、通りを埋め尽くすように人が行き交っている。この街のある地域は昼は酷暑で夜になると涼しくなるため、夕刻から人が外へ出始めて、夜中へ向かって段々と賑わっていくのだ。
露天を眺めつつ、人の流れを読みながらすいすいと移動するさなかに、ラティはふと思い立って心のなかで呟いた。
(そういえば、カーリーってわたしに取り憑いているときってどんな感覚なの?)
(感覚?)
ラティが目に見えない存在に問いかけると、ラティの頭のなかで応える声がした。
最近は、この見えない共連れと声を出さずに会話することにも慣れてきた。最初のうちは、自分の内側から聞こえる声にいちいち声を発して返していたが、そうすると周囲の人にはラティが突然独り言を喋っているように見えてしまう。おかげで随分と恥ずかしい思いもした。
成熟した女性の色香を端々に匂わせる声は、破壊の女神カーリーだ。彼女と契約を交わしたことにより、ラティは自分の体に女神を宿すことになった。といっても、なにか特別な力を授かったわけではなく、尊大な態度で喋りかけてくる同居人がいるという感覚だ。
(なんていうか……いまのカーリーって、わたしのなかに閉じ籠もっているみたいなもんなんでしょう? 狭苦しいとか息苦しいとか感じないの?)
(そなたの体に宿る前は、ずーっと湖の底で眠っておったしの。閉じ籠もることにかけて、わらわはこの世界の誰にも負けはせぬ)
(それもそうね……でも、寝ているときならまだしも、目覚めたならやっぱり自由に外を歩き回りたいとか、遠くへ行きたいとか思わない?)
カーリーは「ふぅむ」と唸り、しばらく考え込むように沈黙した。
(……そなたら人や動物の感じ方では、そうなるな。しかし、わらわは創世の二神の片割れ。そもそも人のように、目で見て体で感じる、というのとは少し勝手が違う。……そう、例えるなら、精神はそなたのなかにありながら、意識だけが鳥のように空の高みからものを見ているようなものだな。俯瞰していて気になるものがあれば、そちらへ意識を近づけていくこともできる。目で見るだけでなく、実際に間近に迫ったように物事を感じることもできれば、逆にそれらの感覚を切り離して、必要な感覚だけを取り出すこともできる。いかようにも使えるぞ。寒すぎたり暑すぎたりする場所で体感気温の情報を消せば、不快にならずに済むしの。)
(つまり、カーリーの本体はここにいるけど、意識だけはいつでも好きなように飛んで行けるから問題ないってこと?)
(そうとも言える。どれ、言葉で言うてもピンと来ておらぬようだし、百聞は一見にしかずといこう)
カーリーが喜色を露わにしてそう言うと、突然、ラティの視界が暗転した。
「カーリー!」
ラティは思わず声に出して叫んでいた。
カーリーは時折、こうしてイタズラを仕掛けてくる。なんせ相手は神のなかでも最上位の創世神なのだ。いざとなればラティのような人間一人の体などいかようにもできてしまう。
暗転したときと同じく、周囲が急に明るくなった。そして、耳元では轟音を鳴らしながら風が高速で行き過ぎていく。先ほどまで地について歩いていたはずの足は、虚しく宙を掻いた。
そして、眼下にはどこまでも広がる大地。街があり、荒野があり、湖があり、密林がある。そのどれもがとても小さく見えた。
「なにこれ!?」
自分が落ちているのだと思い、ラティはがむしゃらに手を振った。勿論掴めるものなどなにもないのだが……その片方の手が、何者かの手に触れた。その手はラティの手を包み込むようにしっかりと握る。
振り返ると、すらりと長い手足を惜しげもなく晒す出で立ちで、カーリーがそこにいた。久しぶりに見る麗しい顔は、企みが成功して喜ぶ子供の顔だ。
「わらわからは世界は、このように見えておる」
カーリーが言った。目の前にいて、その口が喋っているのに、声は頭のなかに直接響いてくる。
カーリーに手を握られて、ラティはようやく自分が落ちているのではなく中空に漂っているのだと知った。水の中を泳いでいるようなものだと自分の胸に言い聞かせると、早鐘を打っていた鼓動も次第に落ち着いてきた。
「さすがは飲み込みが早い。もっと下まで降りよう」
カーリーは言うや否や、自分が先導してどんどん下降していく。ラティもそれに引っ張らて下へ下へと向かっていった。
二人は大きな街の上空にいた。巨大な宮殿と象徴的な塔が、街のかなりの割合を占めている。ラティの生まれ育った、ウェルト・ノッテの都だ。向かったのは、宮殿や豪邸の建ち並ぶエリアからは遠く離れた、下町の貧民窟だ。うっすらと黄色い砂の色に染まったそこは、上空から見ると、本来の街の城壁の外に拡張された場所だというのがわかる。皆が好きずきに家を建て道を通したために、迷路のように入り組んだ場所になっていた。
ラティはどうしようもなく懐かしさを覚えた。この場所から旅立ってから、それほど月日は経っていないはずなのに。
下降していくと、次第に細い路地を行き交う人々がはっきりと見えるようになる。ラティのかつて住んでいた区画へ方向転換して進むと、見覚えのある姿がちらほらと目についた。
「あの子たち」
ラティは、幼い子供たちが出入りする一軒の家に、視線が釘付けになった。石造りの小さな家だ。街の世話役が身寄りのない子供たちのために用意した家で、ラティはそこの年長者として、たくさんの幼い子供たちと暮らした。
街の方々から立ち昇る匂いに、時刻が夕餉時だと知る。
ちょうど、同じ貧民窟の大人たちや寺院から分けてもらった食材を持ち寄り、帰って来た頃合いだろうか。子供たちが一人、また一人と路地に姿を見せ、吸い込まれるように家の中へと消えていく。
次の瞬間、ラティは家のなかにいた。子供たちは台所で手分けをして料理をこしらえているところで、賑やかに喋りながらも協力し合っててきぱきと作業をこなしていく。誰もラティがそこにいることに気づいた様子はない。
ラティが見入っていると、視界の端からカーリーの青い手が伸びてきて、ぱちんと指を鳴らした。すると、ラティの聴覚から子供たちの声がことごとく消え失せた。
目の前にいるのに声は聞こえず、見向きもされない。まるで、動く絵画を見ているようだ。自分だけが、額縁の外からそれを鑑賞している。
「わたしの姿をこの子たちに見せることはできるの? 話をしたりはできる?」
ラティはカーリーに詰め寄りながら訊ねた。カーリーは満足そうに、どこか酷薄さのある笑みを浮かべる。
「なんでもできる。だが、今日はここまでじゃ」
カーリーがもう一度指を鳴らすために、手の平を上に向けた。
「待って! お願い!」
ラティは叫んだが、カーリーは躊躇うことなく指を鳴らした。
再び視界が暗転し、慌てて目を見開いたときにはもう、最初に歩いていた道に佇んでいた。往来で突然立ち止まったラティを迷惑そうに見ながら、周囲を人が流れていく。
(……カーリー、あれは幻?)
ふふふ、と含み笑う声がして、胸元からじんわりと熱が広がっていく。カーリーの気が昂ぶっていると、こうしてラティの体も熱くなるのだ。この困った女神は、ラティの戸惑う姿を見て喜んでいるに違いない。
(わらわはただ、そなたの質問に答えただけぞ?)
(悪趣味)
ラティは止まっていた足を動かして、行き交う人の流れに無理なく乗りながら、小さく舌打ちした。
カーリーはよりにもよって、ラティが胸のなかで一番大切にしているものを見せた。それは取りも直さずカーリーがラティが秘めておきたいと思う心の内側を読んだということだ。自分と異なる存在と体を共有するのだから致し方ないこととはいえ、無遠慮に探られるのは不愉快だ。
(そんなに自由にどこへでも行けるなら、わざわざ取り憑かなくたっていいじゃない)
おやおや、とカーリーは皮肉げに言った。
(そなたが力を貸せというから、こうして一緒におるのではないか)
(だからって、わたしのなかに入り込む必要はあるわけ?)
(必要はある。わらわはこの世のどこにでも遍在する神だが、依り代がなければ身が休まらぬし、力を存分に振るうためにも、一カ所に力を集められて都合が良い。それに、そなたには強い意志の力がある。強力な指向性を持つ感情というのは、わらわの破壊の力と相性が良いのでな。これを使わぬ手はない)
お互い様じゃ、と、いけしゃあしゃあと言い放って、カーリーの気配は体の奥の方へと去って行った。こうなると、ラティのほうからは呼びかけても応えてもらえない。本当に気まぐれな女神だ。
ラティの体に宿ることで自由を奪ってしまったのではないかと、少しでも心配した自分が馬鹿らしくて腹が立つ。次に浮上してきたら文句の一つでも言ってやろうと思いつつも、口達者な女神様のことだ、どうせ逆にからかわれて終わるだけだろうと思うと気が重い。
(いや、負けてなるもんか。契約のときだってわたしが勝ったんだし、必ずぎゃふんと言わせてやるんだから)
ラティは鼻息荒く拳を握り締め、暮れゆく空に向かって勢いよく突き出した。
胸の奥の方で、カーリーが笑った気がした。
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