インドア派兄妹のとある一日――アンジェリカ

 テオドールは久々に浴びる日光に目を細めた。

 王城の中庭は妹姫アンジェリカの聖域で、色とりどりの花が咲きこぼれるなかを駆け回るアンジェリカは、さながら花の妖精のようだった。

 初夏の今頃は、バラがちょうど見頃を迎えていた。バラは二人の母である現女王の好む花でもあり、特にこの時期はたくさんの品種が競い合うように咲き誇る。

「お兄様! 早くこちらへいらして!」

 花のあいだから呼びかけるアンジェリカのほうへ、テオドールはゆっくりと歩を進めた。

 太陽の下で、こうして花に囲まれているアンジェリカは本当に幸せそうだ。王城のなかで皆に愛されて育った妹は、社交的で、周囲の人を惹きつける愛嬌を持っている。この中庭の花たちのように、大切に、純粋培養されて育った姫君だ。

 しかしそれだけに、一度でも王城の外へ出て、見も知らぬ人の視線や善意悪意取り混ぜた様々な言葉に晒されれば、彼女はもう純粋ではいられなくなるだろう。せっかく培った真っ直ぐな心根が、そのときにどうなってしまうのか……、かつての己のようになってしまうのではないか……、テオドールは愛する妹姫の姿を眺めながら思う。

「……お兄様?」

 気が付くと、アンジェリカがすぐそばからテオドールの顔を不安げに見上げていた。

「どこか痛いところでもありますか? 急に太陽の下へ出られたから、なにか、体に不調でも出ましたか?」

 気落ちした声で訊ねるアンジェリカに、テオドールは全力で首を横に振った。どうやら考えていたことが顔に出てしまっていたらしい。昨日から飲まず食わず、不眠不休で文献の解読に夢中になっていたら、どうも気が回らない。

「そんなことないよ。アンこそ、疲れたりしていないかい?」

「いいえ。このお庭にいるときが、一番心が安らぎます。ましてお兄様が一緒にいるんですもの。こんなに楽しいことはありませんわ」

 アンジェリカの顔から曇りが晴れて、眩い微笑みでテオドールを見返す。

 テオドールは不意に、つんと鼻の奥がつつかれたような刺激を感じた。

(ああ、駄目だ……)

 きっと自分は将来、この笑顔を何度でも思い出すのだろうな、と、そう思ったときには、既に目頭が熱くなって、視界が涙に滲んでいた。

「お兄様!?」

 この笑顔だけは守らなければいけないと、ずっとそう思っていたのに、こうやってアンジェリカを一番最初に悲しませてしまうのは、いつも自分なのだ。

「やっぱり今日はお疲れなのですわ。お部屋に戻りましょう」

「アン、ごめんね……」

「いいえ、わたくしこそ、お兄様がお疲れだろうと知りながら連れ出してしまったのですから」

 ふらつきながら立ち上がるテオドールの体を、アンジェリカは横に立って支える。従者を呼んだりせず、いつでも自らの手を差し伸べてくれるアンジェリカ。

「アンジェリカ。いつか、城の外を見てみたいと思うかい? この庭よりも美しいものも醜いものも、たくさんある。そんな場所へ行ってみたい?」

 アンジェリカは間髪を入れず、首を横に振った。

「わたくしには物知りのお兄様がいますもの。どんなものでも、お兄様が克明にわたくしに教えてくださいます。わたしはこの庭で、そんなお兄様のお話を聞くのがなにより楽しいのです。だから、わたしはどこへも行きたくありません。お母様や、お兄様のおられない所へなど……」

「アン……」

 テオドールはそれきり、なにも言えなくなってしまった。アンジェリカはきっと、兄の変化に敏感に気が付いているのだろう。だから、テオドールの利用中は誰の立ち入りも禁じている図書室へわざわざ連れ出しにやって来たり、そばにいようとするのだろう。

 ほどなくして二人の訪れる別離や、歩むことになる険しい道のり。それを思って胸の痛まないときはない。それでも、テオドールは、己のため、アンジェリカのため、よりたくさんの人々のために、その道を選び取ることを決めたのだ。

「アンジェリカ」

 テオドールは自分のなかの罪悪感を振り払うように首を振り、妹姫の名を呼んだ。

「どうか笑っていて。君のその笑顔は、多くの人の光になる。今はわからなくてもいい。でも、必ず忘れないで、覚えておいで」

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