第28話 バッタバタの夕方

「お兄さん、お兄さんっ」


 目を開けると、橙色の光で逆光になった百合香ちゃんの顔があった。

 何かを心配しているような瞳には、白い輝点が光る。


「こ……こ……は」


 もさもさした草が腕をくすぐる。


「お兄さんっ」


 いきなり抱きつかれた。風圧で、百合香ちゃんのオレンジの香りが鼻をくすぐる。


「もう夕方なんですよ、お兄さんっ」


「夕方? 昼メシもまだなのに?」


 百合香ちゃんがぐずっている。大きなコバルトブルーの瞳から、水晶のような涙がオレンジの陽射しを浴びて煌めく。


 カー、カー。カー、バババババ、カァー。…………。


 空中で二羽のカラスが喧嘩している。互いを蹴り合っている。


「ごめん、寝ちゃってたらしいな」


「違いますっ…………ううっ…………」

「ど、どうした」


 やけにぐずっている。そんな泣くようなことといえば、さいみょういんとかいう金髪くるくるヘアに鞭打たれたことか? もしかして俺が腕を引っ張ったことか?


「お兄さん……息してなかったんです…………ぐすっ…………死んでたんです…………ぐすっ」


 まさかの発言。本当に永眠するところだったようだ。三途の川を見ることはできなかったということは、もしかすると異国の天国ということか。


「何度も私、人工呼吸しようとしたんです…………でも、できなくて」


「そうか。無理しなくてもいいんだ。にしても、なんで俺は生きてるの?」


「そ、それは…………お兄さんの自力で……ううう…………」


 自力で蘇生できるものだろうか。まさか、俺は人間じゃない? なるほどそれで3年も留年したのか。納得。


「んん? なんか左の頬が痛いな」


 さすってみた。


「いだっ」

「お兄さんっ」


 ものすごい熱を持っている。きっと頬は腫れ上がっているに違いない。


「お兄さん大丈夫ですか? 川でハンカチ冷やして来ます」


「それはいい、雑菌とかいそうだから」


「でも痛そうです、放っておくなんてできません」


 スカートからハンカチを取り出す。うすピンクの綺麗なハンカチ。隅っこにお花の刺繍ししゅうが施され、縁にはもこもこした小さな半円が並んでいる。


「そんな綺麗なハンカチ汚すことないよ。自販機で水でも買って冷やすから」


「じゃあ買ってきます」


 言うや否や走り去ってしまった。でもスカートが邪魔して、ぼてっとつまづいてしまった。


「百合香ちゃん大丈夫か? 無理しないでも……」


「大丈夫ですっ。お兄さんのためなら、お水くらいっ」


 妙な意味合いに聞こえてしまった。俺の心はゴミであるらしい。



 昼は緑一面の原っぱだったが、今は橙色の夕日が照りつけて抹茶色みたいになっている。


 百合香ちゃんがいない間、ヒマだなぁ。ただ草の中で無為に時間を食いつぶしても仕方ない。勉強でもするか。

 と思ってカバンのチャックを開け、教科書を出す。2つの永久双極子の相互エネルギーがそれぞれの分極率の積の二乗に比例するのはなぜか、どっかに書いてあるかもしれないし。


 がぁ。がぁ。がぁ。ばさばさばさ……。


 カルガモだ。呑気な面構えしやがって。遺伝子レベルで呑気な顔だからな、鴨ってやつは。


「うっわ、勉強する気なくなったわ」


 教科書をカバンに入れ、チャックをジャっと閉める。


「草っぱらで勉強できるわけないじゃねーか…………」


 見上げれば、よどばし。そこを何台もの車が右に左に走っている。騒音をがーがー立てて、とどまることがない。


「てかほっぺた痛ぇ」


 なんで左の頬が痛いんだろう。まさか百合香ちゃんが引っぱたいたんだろうか。時に女はバカ力を出す、とでもいうことだろうか。あんなに可愛い子が。


 何もかも意味が分からず、眉を意味もなく蠢かせながら原っぱを緩慢に歩く。考えないあしのように、目の前に見えている葦原にでも行こう。


 背が高く、何本もびよびよと生い茂った葦をかき分ける。急に鳥がばさばさばさと羽ばたいて、ギェーギェーと鳴き散らす。


 葦原を出ると、ざーざーと流れる広世ひろせ川の岸に出た。濡れた砂の上に石がころころしており、所々に雑草が散見される。コミケの待機列で使うような椅子が置かれてあって、その上に紺色のセーラーを着た田舎っぽいJKが座っている。


「って、なんでだよっ」


「あ、おじさん」


 ぱっと目を開いた田舎娘。気づきましたってか? 遅いわ。


「なんか死んでたっぽいから、ウチが生き返らせたったんやで。感謝しいな」


 なんかもぐもぐ食べている。


「おい、何を食べてるんだ」


「見りゃ分かるがな。パックご飯や。コンビニのレンジでチンしてきた。あむっ」


「それだけでも不自然だが、そっちの椅子にあるそれは何だ」


 ビンに詰め詰めに入った茶色いもの。二、三センチの棒状で、ビンの上の方には何本か、足っぽいのがピンピンと突き出ている。


「バッタや。めっちゃ旨いで」


「……」


「イナゴの佃煮やねん。この前、秋保痲あきうま大滝行ってきたときにな、屋台で買うたんや。むぐむぐ。ウチのかーさんが、やけど。むぐむぐむぐ」


 川岸の砂地で、イナゴの佃煮とパックご飯を食べるJKが、ここにいる。


「なんじゃそりゃ!」


「ナイスツッコミ!」


「やかましい、今すぐ片付けろ。アホにもほどがあるぞお前」


 隣の一軒家の娘がこんなヤツだったなんて。関わっちゃいけないタイプにしか見えないんだが(そもそもJKと関わることって……)。


「アホ言うな。こっちはな、人間のアンモニアやらシィオートゥーがもんもん充満した学食で、やっすいうどん食ってんねん。昼飯に。大自然の中でイナゴ食うてリフレッシュするののどこが悪いねん。もぐもぐもぐ。うまっ」


 なんか怒られた。意味が分からないが、腹立つ。


「お茶飲まないのか? 窒息するぞ」


「そこかいっ」


 田舎娘がズッコケて、パックご飯が無残にも地面に落ちた。


「ああああ、最悪やんか……んしょっと」


 さほど動じることもなく、カバンから何か出す田舎娘。


「それは何だ」


「これか? ミックスサラダや。もしもの時のために買うてて良かったわぁ。しゃくしゃくしゃく。イナゴも食お」


 箸でイナゴの佃煮をつまむ。後ろ足がピーンとなった、特大のやつだ。


「……うげっ」


「なんか言うたか? おじさん」


「旨いのか、それ」


「旨い言うてるやんけ。むぐむぐ、しゃくしゃく」


 今、俺の眉には何本のしわが寄っているんだろう。こんな気持ち悪いものを、意味不明な場所で食している。その人間がJKであるという事実。さらには俺の家のすぐ近くにいるという事実。そのすべてを認めたくないのだが…………。


「おじさんも食うか? イナゴ」


 自分が口を付けた箸で、ちっちゃいイナゴをつまみ上げた。それをすーっとこっちによこして、俺を見つめ上げる田舎JK。

 ダークグレーの瞳は、どこまでも純粋だ。おすそ分け、その純粋な思いが、不必要すぎる。


「いらん」


「ハハハ、間接キスなんか気にせんでもええて」


「それを気にしていると思うのかよ……」


「まあ、食わんならウチが食うけど。あむっ」


 俺は何でこんなやつと話しているんだろう。さっさと帰ろう。


 と、その時。


「お兄さーん。お兄さあん。どこですか、どこ行っちゃったんですか?」


 大きな声で俺を呼ぶ声が。切なく懸命に叫ぶ声は、まるで親を呼ぶ可哀想なヒナみたいだ。すぐさま助けにいかねば。


 俺は葦をかき分ける。

 だが葦が異様な抵抗を見せ、運悪く太い茎が左の頬にべしっと当たる。


「いだっ」


「あ! お兄さんいた!」


 くっそ、こんな情けない姿を百合香ちゃんに見られた。


「お兄さあああん」


 親を見つけて嬉しそうなヒナ。でも、スカートが邪魔して、つまづいてしまった。


「百合香ちゃん大丈夫か? 百合香ちゃあああん!」


「だ、大丈夫ですっ。それよりお水、この私のお水で、お兄さんのほっぺたを冷やしてくださいっ」


 つまづいたまま言う。どうにも変な意味に聞こえてしまって、つくづく俺の心はゴミなんだと悟る。


「待ってろ、今行くからな。いだっ!」


 またも葦。かき分けた瞬間、葦が反作用で左の頬を鞭のように引っぱたく。


 地面に倒れていた百合香ちゃんは起き上がり、スカートの裾を手で持って走ってくる。必然的に露わとなる白い太もも。黒いハイソックスと一緒に、こっちへ向かってくる。


「お兄さん!」

「百合香ちゃん!」


 庇護欲にまみれた俺は、やっと俺のもとにたどり着いた百合香ちゃんを抱きしめずにはいられなかった。

 


「なにやってんねん……」


 

 背の高い葦たちに包まれながら抱擁する俺たちを、呆れた声が要約した。

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