第26話 天罰by留年

「時間になりましたので、終わりたいと思います、何か質問がある人は?」


 教授が講義の終わりを告げ、次々と学生がノートやルーズリーフやらレジュメやらをカバンにしまい始める。

 そんな中、俺は分子間力について悩んでいた。2つの分子間にはたらく永久双極子どうしの相互エネルギーが、なぜそれぞれの分子の分極率の積の二乗に比例するのか分からなくて、頭を掻きまわしていた。


「君、一人で居残る気かね?」


 教授の野太い声が、大きな教室にこだまする。


「あ、すいません」


 教授の授業が全然面白くない&分からないので、諦めて勝手に勉強していた。それゆえ、なぜこうこうこうなのですか、なんて質問する勇気はない。そそくさと身支度を整えてカバンを背負う。


「別に居残ってもいいんだぞ? 教室は空いてるんだからな」


「あ、大丈夫です」


「何か悩んでいたようだが、私に質問しないかね?」


「すいません、もうちょっと自分で悩んでみたいので」


 そう言うと、教授は面白くなさそうに顔を回してスタスタ去ってしまった。

 

 教室には俺一人だけになる。3年も留年したのが俺だけであるのと同様に。


「あ、いけない。百合香ちゃんのお昼に間に合わない」


 時刻はジャスト12時。ここから右原女子まで25分かかる。その間に百合香ちゃんがまた鞭でぶたれないとも限らない。


「分極率とかどうでもいいや、百合香ちゃんの身の安全を守らねば」


 教室の重たい扉をバァンと開けて、気だるげに開く自動ドアの前で足踏みする。


「早く早く。早く」


 誰よりも進級速度が遅い人間がくには、美少女JKが必要なようだ。




 山の下り坂をダカダカ走って、自転車置き場に停めてあった俺の自転車にまたがり、さらに続く下り坂を滑るように走り抜ける。風が狂暴な音を耳に渦巻かせ、台風が俺を通過しているみたいだ。


 緑の木々が茂る歩道沿いを自転車で走り抜けると、広大な広世ひろせ川に出た。ここに架かる平たい橋を通れば、右原女子までの道は一気に上り坂になる。


(百合香ちゃんが鞭打たれていませんよう、にっ)


 右原女子に近づくにつれ、急速に鼓動が早まる。また一人で落ち込んでるんじゃないだろうか、乱暴な人にいじめられているんじゃないだろうか。


 ゴミ捨て場で、自分をゴミ以下だと思い込んでいるんじゃないだろうか。


(させるかッ)


 急ぐ。ムカつく上り坂を、ゼハゼハ言って憤慨しながら立ちこぎする。


(くっ……。くそっ)


 たかが数メートルの上り坂が永遠のように思えたが、なんとか学校が目の前に見えた。あとは信号の向こうのゴミ捨て場へ一直線だ。


「はぁ、はぁ、ぜぇ、はぁ」


「あ、おじさん」


「はぁ、ゼハゼハゼハ、げっほげほ」


「ちょ、無視かいな」


「はぁ? はぁ、はぁ」


 どっかで見たような顔だ。無駄に二つ結びにこだわったせいで、ちょんまげみたいなものが頭の下あたりから飛び出ているJK。田舎っぽい。


「今は君と話してる時間はない、じゃあな」


「あ、ちょ待ちや」


 自転車に乗っている俺を追いかける田舎娘。


「は⁉ 来るな!」


「負けるか! こう見えても足だけは速いんやで」


 獲物を狙う目をしている。もちろん獲物は俺。鷹のようなダークグレーの瞳がぐんぐん近寄って、そして!


「ちょ、やめろ! 信号待ちしてんだっての!」

「やかましいわ、ウチとうたら盗撮せぇ言うたやろ」

「黙れ! どっか行け!」

「お断りや!」


 赤信号で、車道を車が行きかう中、非常に危険な状態である。この無知な田舎娘をなんとかせねば。


 カシャッ


「もっとや、もっとウチを可愛く撮るんや!」

「お前は可愛くないだろ!」

「な、なんちゅうこと言うねん、それが男の言うセリフかいな!」


 逆上させてしまった。一度は引いた彼女だったが、またしても取っ組み合いになる。俺の歳はもう25なんだから、マジで勘弁してほしい。


「何かしらあれ」「嫌だわ」「うへ」「男、きも」「あの女の子かわいい」


 信号はまだ青にならない。昨日約束したから、ゴミ捨て場で待っているはずなんだ。早く行かないと!


 あ!


「あなた、今日もこんなところで座ってらっしゃるの? 毎日毎日いらいらしますわね」「最明院さいみょういんさま、こちら、追加の鞭でございます」「最明院さいみょういんさま、こちら、でございます」

「あら、あなた方なかなか気が利きますわね。さすがはわたくしの下婢かひたちですわ」


 ゴミネットの上にうずくまったあれは、百合香ちゃんだ!


 俺はとっさに自転車のペダルを踏み、もう車一台通っていない赤信号を突っ切る。


「ちょ、おじさん何やってんねん!」


 田舎娘が何か言ったようだが、どうでもいい。

 ぎこちなく自転車をこぎ、金髪くるくるヘアたちと百合香ちゃんがいるゴミ捨て場に急ぐ。


「うぉ、うぉい!」

 

 ゴミ捨て場で叫んだ瞬間、喉がこわばった。

 普段から孤独な人間は、見知らぬ人と話すことがない。こんな危険な状態でも、恥ずかしさや臆病さに勝てない。


「あら、誰ですのあなた」

「この子の、連れだ。お前、い、いじめてんじゃねーぞ」


 なんてザマだ。これじゃまるでガキだ。勇敢でチビな男の子が、強敵にがくがく震えながら女の子を助ける時みたいだ。現に脚が震えているし、それどころか全身が震えている。JKが相手なのに。


「なんですの? 横から突然出てきておいて。あなたいくつですの? いい歳して、しつけの一つも成っていないですわね」


 金髪くるくるヘアに睥睨されながらも、しゃがんで百合香ちゃんをガードする。


塔子とうこ、鞭を」「かしこまりました、最明院さま」


 鞭を手に取った金髪は、ピシッと自らの手のひらに軽く鞭打つ。


「面倒ですわ、二人まとめて叩きのめして差し上げる。さ、覚悟なさい」


 ビシッ。バシッ。ビシッ。


 痛い。俺だけが鞭打たれている。震えながらも百合香ちゃんをガードしてるから、どんな角度から打っても俺しか打てない。


「どきなさい、その女も叩くんですわ。どかないなら蹴飛ばしますわよ?」


 眉をひそめて睨まれる。金髪くるくるヘアというスタイルは紺色のセーラーには不釣り合いで、お嬢様ではなく不良の様相を呈している。


「最明院さま、タマゲリというのが効果てきめんでございます」

「タマゲリ? 何かしらそれは」

「男性器、主に陰嚢を思いっきり蹴り上げるのでございます」


 最悪だ。これは天罰だ。何度も留年を重ねた天罰だ。悪いことは容赦なく、第何波と数える隙も与えないほど、次から次へ押し寄せるものだ。



 俺は、覚悟を決める。




「いたっ」

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