第9話 青少年健全育成について学ぶ 3
「百合香ちゃん、明日、中古ショップの中に
5ページには、ささやかな安寧が広がっていた。
「そうなんですか? じゃあお兄さんの近くで待ってますね」
楽しそうに笑っている。あぐらの上に乗っかって。
百合香ちゃんの存在は言うまでもなく特定がん具や同人誌、タペストリーよりも貴重だ。俺はどうせずっと孤独で、誰にも必要とされず、どうせ来年も進級がならず、進級できても卒業できず、どこまでも落ちこぼれて就職不可能な年齢に追い込まれ、最後に孤独死で人生の幕を閉じると想像していた。
「お兄さん?」
百合香ちゃんは、そんな暗くて絶望しかない想像を消し去ってくれた。
「さて、まだまだ学ぼう。学ばなきゃ」
「お兄さん、まだ泣いてますよ?」
「百合香ちゃんと学べることが嬉しいんだよ。ありがとう」
明るい希望の光をもたらしてくれた天使。俺には、天使をゴミ捨て場に座らせないように努める義務が生まれた。そして、天使をゴミにしない意思が芽生えた。
「で、この図の①にもあるように、18禁ののれんをくぐらなければいいんだ。俺も中古ショップ全体がいかがわしいと錯覚していた。でも冷静に考えれば一般向けのエリアに未成年が入っちゃいけないわけがない。百合香ちゃんはのれんの外で待っているんだぞ?」
「のれんの外からのれんの向こう側を見るのは?」
「もちろんアウトだな。明日は売り払った直後に帰宅しような百合香ちゃん」
「ええー、のれんの外なのにぃ。ぶー」
気のせいだろうか。猛烈に、売る気が失せているのだが。
「えーさて、図中の②から⑤についてだが、これは百合香ちゃんも見たことあるんじゃないか? 一般の本棚と18禁のものとの間隔が空いてるとか、18禁のところが仕切りで区切られてるとか、18禁が高いところにあるとか、袋とじになってるとかヒモでしばられてるとか。業者は努力しているということだな」
「でもついつい見ちゃいますね。のれんの中だって、しゃがめば覗けるんですよ? 仕切りとか高いところに置くとか、袋とじとか、ガン見しちゃいますよ。あははは」
俺は、つむじの上に左手を乗せた。次に、刀剣と化している右手を、左手めがけて振り下ろす。何度も何度も振り下ろす。痛いと言っても振り下ろす。
五分後。
「何発叩くんですか! 痛すぎますよ、すごく痛いですっ!」
頭を両手で覆う美少女。
「君は健全な青少年になる気があるのか?」
「まだ初心者じゃないですか! 初めての人にそんな厳罰与えるのはどうかと思います!」
あぐらの上の美少女は顔をほてらせて、こっちを見る。怒った目、怒った眉、滑らかな白磁の華奢な腕、そして、それなりにふくれた、おっぱい。
「……初心者相手にしては少々厳し過ぎたかもな」
「まだ痛いです、頭なでなでしてください! じゃないと学びませんからね!」
「わかったよ、なでなでするから一緒に学ぼう。な?」
刀剣と化していた右手を空中で二、三回振り回して、普通の手に戻す。
サラサラして気持ちいい細い髪の毛を、ゆっくり何回も撫でてあげる。
「……すごく気持ちいい……お兄さんのなでなで、気持ちいい……」
「学ぶ気になったか?」
「まだです。あと十分はなでなでしてくれなきゃ学びません。はぁ……気持ちいいですぅ……もっとぉ~」
十分後。
つべこべ文句を言う不健全JKを無視し、冷淡に命令することに決めた俺。
「百合香ちゃん、この19条を音読しろ。じゃなきゃゴミ捨て場にもっていく」
「むぅぅ、そんなことしないくせに。ええと? ナニナニ?」
「ここだ。ここを読むんだ」
「分かりましたよ、言われなくても読みます。お兄さんのへんたい。えっち」
怒っている。背中に伝わってくる熱がどんどん熱くなっている。冷静沈着からどんどん遠ざかり、意欲と好奇心に減退が見られる。まずい。
「『使用済みの下着である旨が表示され、またはこれと誤認させるもの。ブルセラ? 等』 お兄さん、私ブルセラって何なのかわかりません」
「俺も分からない。ちょっと調べるか」
マウスを持つために少しだけ前のめりになる。
「ひゃんっ」
「何」
「い、いえ特に。お兄さんの吐息が耳にかかったから驚いちゃって……」
そんなところに危険が⁉ 細心の注意を払わないと。というか、あぐらに座らせてる時点で……
「ブルセラブルセラ、と」
結果、ブルマ+セーラー服の略語だった。ローマ字で入力検索したせいか、いかがわしいエロサイトの検索結果も表示されてしまった。
すぐに百合香ちゃんの目を俺の左手で覆い隠し、タブを閉じた。百合香ちゃんは俺の手を自分の手で覆い隠して遊ぶ。触れた肌がじんわり温かい。
「百合香ちゃん、いいか? フリマに百合香ちゃんが
「しませんよ! どこの馬の骨とも知らない男に、そんな恥ずかしいものあげません。そんなことするくらいなら、お兄さんが朝食べる味噌汁の具にします!」
「な、なんて想像力だ……」
怒りを通り越して呆れるとは、このことだ。味噌汁の具って、下着をハサミで切り刻んで煮るのか? 後入れ? 先入れ? ふりかけにするのか?
「お兄さん、顔が赤いですよ? 何か考えてますね?」
「何も考えてない。さて、7ページへ移ろう」
そそくさと7ページへ。百合香ちゃんが疑いの目で見つめているが、気にしてもしょうがない。
「なるほど、ネカフェとかボーリング場とかに、深夜立ち入り禁止と。百合香ちゃんしたことある?」
「一度もありません」
怒っている。俺が疑いすぎたようだ。なでなでしてあげようか。いやしかし、許可なしになでなでするのはわいせつなのかも。
「キャバレー、パチンコ店、ソープ、ラブホ。行くわけないよな。大人が青少年にみだらなことをしてはいけない、教えたらいけない。見せてもいけない。これは明日売り払うからクリアだな」
「お兄さんと二人っきりの家の中って、ラブホみたいですね」
「何か言ったか百合香ちゃん。よく聞こえなかった」
「お兄さんと二人っきりの家の中って、子供部屋みたいですね。って言いました」
「まあそういう家庭もあるよな。俺は弟と別の部屋だったけど。えーさて、8ページはっと」
そそくさとスクロールする。この資料は8ページで終わりだ。
「入れ墨、喫煙、深夜外出ダメ。立ち入り調査を拒むのダメ。当然だな。よし、百合香ちゃんだいたい理解できたか? 俺も勉強になってよかった」
美少女JKが俺のあぐらの上に乗っかっている深夜1時。百合香ちゃんはきっとこの学習でさまざまな知識と理解があったことだろう。よかったよかった。
「質問です。33条の『有害行為の場所提供等の禁止』の項目に、『なんぴとも、以下のようなことが行われると知りながら、場所を貸してはいけない』ってあります。以下の項目を見ると、『みだらな性行為またはわいせつな行為』が載っています。お兄さんとみだらな行為が行われる可能性は完全完璧徹頭徹尾0とは言えないので、今の私たちって条例違反なんじゃないですか?」
素直で明るく純朴に、俺の親切をことごとく無視してくれたな百合香ちゃん。
「完全完璧徹頭徹尾0だ。だから問題ない」
「質問です。36条の『深夜外出の制限』の項目で、『青少年を午後11時から午前4時の間にとどめてはいけない』とあります。深夜1時にお兄さんのあぐらの上にとどまっている私と、それを許可したお兄さんは、言い逃れのしようもない条例違反なんじゃないですか?」
俺が不利になるようなことをサラサラと言ってのける能力をお持ちのようだな百合香ちゃん。
「不健全な一人暮らしJKを更生に導く手伝いをしていることは、迅速に行われるべきことだ。夜中にゴミ捨て場に座っているようなJKを保護した善行も見過ごされるべきではない。なぜなら、ゴミ捨て場に目をつけた
俺は百合香ちゃんのためを思って弁解・弁護しているんだ。分かってるくせに。
一方で、青少年健全育成に興味関心が湧いてきたとも言える。俺は今こそ、それに積極的な動きを見せる彼女に協力すべきである。
ふとあぐらの上の百合香ちゃんを見ると、PCの画面を見つめて硬直していた。
「この先も、夜から朝にかけて、お兄さんと同じ布団にくるまって寝たいです。それは…………条例違反ですか?」
声は、かすかに心配を帯びていて、どこか
「お兄さんと一緒に寝たいのに。すぐにゴミ捨て場に座りたくなる私を助けてくれるお兄さんなのに、条例はお兄さんを良しとしないんですか?」
ああ、なんて青少年健全育成に積極的な子なんだろう。俺にはもう、彼女をどうやって制御したらいいのか分からない。誰か教えてくれ。俺、条例違反してるっぽい。条例違反ではないと、誰か言ってくれ。
もちろん、誰もいない。
誰にもバレない。
二人とも幸せに眠れる。
「私は、お兄さんと一緒にいたいだけです」
百合香ちゃんはあぐらから降りて、俺の右に正座する。何をするんだろうと見ていると、腕に絡みついてきた。
百合香ちゃんの思いは純粋だけれど。
あぐらの上にJKを乗せる25歳男、これは明らかに異常だ。条例違反かも、という疑念が湧いても仕方ないし、俺も最初から湧いていた。それもあって、ゴミ捨て場に捨てられた百合香ちゃんを家に上げるのは憚られた。でもあまりにも放っておけない状況だったから、ちょっとの間だけ上げてちょっと話して、それで帰らせようと思った。でも百合香ちゃんは……
「お兄さんの隣にいたいです。昨日会ったばっかりのお兄さんと過ごしてて、楽しいです。歳の差も18歳のラインも関係なく、ただ私は、お兄さんがいいんです」
やっぱり、ダメだと思う。健全に生きて、成年になった時にもちゃんと健全であるためには、今、こんなことをしていてはいけないんだ。
「百合香ちゃん、もう1時半を回るころだ」
刹那、彼女は俺の顔を凝視して必死の表情を浮かべる。
「私は帰りません! お兄さんと寝ます。お兄さんが、お兄さんが拾ってくれたから! お兄さんが私をゴミじゃなくしてくれた、私は昨日と今日が楽しいって思えた。全部……全部お兄さんのおかげなんですっ」
ひな鳥みたいに口をぱーちく開けて、ありったけの思いを吐き出すことができたようだ。顔が近いうえに大きな声を出したもんだから、つばがいっぱい散った。汚いから、すぐにササッと左腕で拭いた。
それが百合香ちゃんの本心なのだということは、がっちりと固くしがみつかれた右腕がしびれているから、分かる。
「お兄さん、なんで黙ってるんですか? 今日も一緒に寝てくれますよね? 私、いっつも寂しいんです、いっつも孤独なんです、いっつも、いっつも……。全裸で寝ません、お漏らししません、お兄さんに迷惑かけません、だから」
何度も、諦めを経験してきた。
大学受験に失敗して、現役で入学するのを諦めた高校三年の冬。
教官に怒鳴られて、自動車学校を退校した冬。
キャンパスに行く気が失せて、行くのをやめた春。
休学という名の留年を決めて、ストレートでの進級を諦めた夏。
二度目の三年生で再起を図るも、ずるずるとダメになり、再び休学を決めた夏。
三度目の正直が訪れた春、どうせダメだと思って、本当にダメな結果が出た冬。
「お兄さん?」
他人がなかなか経験しない大きな諦めを、何度も繰り返したじゃないか。子供を追い返さなきゃならない程度の諦めなんて、簡単に耐えられる。
「帰ってくれないか」
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