楠手真希、強姦される?

 西之森がフランスパンを持った男性スタッフに追いかけた日から一日後の午後七時半ごろ。


 楠手は自宅であるマンションの一室を出て、深夜バイトのためカラオケ店に向かって淡い街灯が照らす河川を柵越しに望む舗道を歩いていた。

 午後八時から日を跨いで翌日の午前六時まで。もちろん休憩の時間も含まれているが、まぎれもない夜勤バイトだ。


「はあ。店長も人手がないからって私を働かせすぎよ」


 ため息とともに、店長への愚痴を夜の空気に吐き出す。

 幸いグラドルレンジャーとしての出動がここ三か月ほどなく、おかげでバイトに精を出せてはいるが。


 パ~ン、パ~ン。


 夜の静寂の中、不気味な叫び声が楠手の耳に聞こえてくる。


「なんの声だろう?」


 声の正体が気になった楠手は足を止め、手を耳の裏に添えた。


 パーン、パーン。パンパン。


「パン?」


 楠手の耳にも不気味な声は、パンと繰り返しているようにしか聞き取れない。


 なんだろう? 誰かが公園でリズムをとる練習でもしてるのかな?


 その時、左手の沿川公園の茂みから葉擦れの音がした。

 街灯の下にいる楠手は、音の方の茂みに視線を移す。


「パーン、パーン」


 不気味な声とともに茂みからトレーナーの上に紺のジャケットを羽織り、下はチノパンを履いた細身の男性が姿を現す。

 楠手は夜目に細身の男性を凝視した。


 どこかで会ったことあるような気がする。それもつい最近に……。


 首を傾げて記憶を辿る楠手に、細身の男性が歩み寄る。


「パーン、パーン」


 徐々に近づいてくる男性の姿を見ているうちに、楠手は正体に思い至る。


「もしかして、速水君?」

「パーン」


 速水と呼ばれた男性は、肯定するように不気味な声で応じた。

 期せずして遭遇した仕事仲間に、楠手はほっとした笑みを向ける。


「こんな時間にこんなところで会うなんて、奇遇だね速水君」

「パーン、パーン」


 楠手の笑みに何ら反応を示さず、速水は右手に持っていた物を掲げる。


「何それ? スティックパン?」

「ヤル、オカス、ウバウ」

「何を言ってるの?」


 不思議そうに質問する楠手。

 そんな彼女を速水は狂気で光る瞳で見据える。

 それなりに親しい知り合いが相手とはいえ、獰猛さを宿す速水の目に楠手は背筋が冷えるのを感じた。


「は、速水君? ど、どうしたの?」


 それでも、のっぴきならない要件を頼みに来たのだろうか、と楠手は僅かな親しさを持って困惑を抑えつつ尋ねる。


「パーン、パーン。ヤル、オカス、ウバウ

 だが楠手の言葉に速水は答えず、不気味な声を発し続ける。

 様子がおかしい、と楠手は直感した。


 いつもカラオケ店で会う速水君じゃない!


 無意識に柵の方へ後退る。


「パーン!」


 楠手が仕事仲間の異常さを感じ取ったと同時に、速水が奇声を上げてスティックパンを頭上に翳した。


「な、なに?」


 速水の行動の意味が理解できていない楠手に、スティックパンが振り下ろされる。

 楠手は反射的に、振り下ろされるスティックパンの軌道上に片腕を水平に突き出した。


 グニャリ。


 速水の打撃は楠手の片腕で留まり、スティックパンが中程でたわんだ。


「パーン、パーン、パーン」


 焦ったような声を出して、速水はスティックパンの振り下ろす力を加えていく。

 しかし、やっぱりパン生地。

 楠手の片腕に掠り傷さえつけられずに、スティックパンは撓んだ部分から裂けて、挙句に断ち切れた。


「パーーーーーーーーン!」


 この世の終わりみたいに叫んで、速水はスティックパンの断面を見つめる。


「え……さっぱり理由がわかんない」

「パーン、パーン、パーン!」


 速水は抗議する視線で楠手を睨み、右手に残った半分だけのスティックパンの断面を楠手に向ける。


「え、何?」

「パーン!」


 スティックパンの断面が、楠手に迫る。


「うっ」


 楠手の呻きは、しっとりとしたパン生地に堰き止められる。

 なにこのスティックパン。ほんのり甘くて美味しいんだけど、と楠手は状況にそぐわず食味を楽しんだ。

 速水の瞳が狂気で満ち、スティックパンが無くなって空いた両手を楠手の肩に伸ばしがっしりと掴む。

「な、何っ?」

 突然肩を掴まれて、楠手は動揺して口からスティックパンを落とした。

 彼女の反応には興味がない様子で、速水は両腕に力を籠め、左斜めへ薙ぐように楠手を押し倒す。

 楠手は重心が傾いで何の緩衝もなく地面へ横腹から倒れそうになるのを、咄嗟に左足を出して留まる。

 驚愕の目で速水の方を振り向いた。

「速水君、なんてことするの……」

「パーン、パーン」

 生気のない瞳が楠手を捉え、速水の右掌が迫る。

 楠手は咄嗟に目を瞑った。

 肩に掌が触れ、強い力で押された。

楠手は後ろに倒れて、地面にお尻を打ちつける。


「いったあ」


 ジンジンとする臀部の痛みを、地面に両手をついて声を漏らし堪える。

 痛みがすぐに引いていき、自分を押し倒した速水を叱るためにと立ち上がろうとした時、再び速水の右掌が突き出され、楠手の肩を押した。


 背中から倒れて地面に仰向けになってしまった楠手の目の前五十センチほどに、速水の顔が覆いかぶさった。

 自らの意図せず生じた事態に、楠手は目を見開いて動転する。

 速水は楠手に馬乗りになると、狙い定めたように楠手のオーバーの襟に右手を引っ掛けた。


「いやっ、やめて!」


 本能的に身の危険を感じた楠手は、速水の右手首を左手で掴んで抵抗する。

 だが彼女の抵抗を物ともしない膂力で、速水の右手はオーバーを掻き破った。

 襟口から右の肋まで肌着が露になる。


「きゃっ」


 いとも簡単にオーバーが破け肌着が丸見えになり、楠手は短く悲鳴を上げ、肌着を隠そうと右へ身をよじる。

 しかし速水の奇行は止まらず、鉤爪のように指を曲げた左手を肌着の襟に掛け、肌着を引き破る。

 楠手の艶やかな肩から肋までが、夜の空気に晒される。


「やめて!」


 仮借ない怒りを発露させた声で楠手は叫ぶと、


 バチン!


 渾身の力で速水の頬を張り手で殴った。


 強烈な一発を喰らった速水は意識がふっ飛び、ビンタの勢いを殺せないまま上半身が右に傾き、地面に頬をつけて倒れる。 

 楠手はゆっくりと上体を起こすと 昏倒した仕事仲間の地面についた顔を見つめる。


「はあああああ、なんなの、これ?」


 どっと疲れた溜息を吐いてぼやく。

 スティックパンを持って現れてたと思ったら、いきなりパンで殴ってきて、パンが折れたら次は肩を掴んで押し倒し服を破いてきた。


 私の知ってる速水君じゃない。


 獰猛な人に乗り移られたような又は怪物にでもとりつかれたような、速水の様々な異常行動から、楠手は即断する。

 肌着もろとも引き裂かれた右半身に、初冬の夜気は寒い。

 右腕を左手で温めるように擦りながら、楠手は独り言ちる。


「何か、羽織るものが欲しいな」


 こんな半身だけ服が溶かされたような格好でバイト先には顔を出せないし、かといってこの場で座り込んでいる訳にもいかない。


「うっ、ううっ」


 楠手が右半身を隠せそうなもの無いかな、と思案していると、彼女をこの有様にした当人の速水が無理に眠りから起こされた人のような呻きを漏らした。

 また襲われるのを危惧した楠手は速水に視線を戻して、緊張で身を強張らせる。

 速水は目を覚ます。


「こ、ここは?」


 知らない土地へ移送された人間のような問いかけを宙に投げ、速水は頬を地面から離して起き上がる。

 ぽかんとした顔で周囲を見回した後、あれ? というように楠手に目を留める。


「く、楠手さんですか?」

「そうだけど……」


 警戒するような瞳で速水を睨みながら、楠手は返事をする。


「楠手さん。ここはどこですか? 自分さっきまで眠ってたみたいで記憶が無いんですけど」

「いつもの速水君?」

「え、それ、どういうことです?」


 質問に質問で返してくる楠手を、速水は不思議なものを見る目で見つめた。


「どういうことって、スティックパンを口に押し込んできたり、服を破いたり、さっき私を襲ってきたでしょ」

「何を言ってるんですか。僕が楠手さんを襲った?」


 気を疑う速水の声に、楠手はしっかりと頷く。

 どうにも信じられない顔で速水は楠手の身体を眺めた。


「確かに楠手さんの服が破れてますけど……」

「……じろじろ見ないで」


 何も知らない様子で証拠を確かめるような目を向けてくる速水に、楠手は途端に頬を染めて、左肩を前に出し右半身を速水の目から隠す。

 速水は急に恥ずかしがる楠手から気まずく目線を逸らしながら、話題を変えるために尋ねる。


「とにかく、何があったんですか?」

「速水君が私を襲ったの。もしかして覚えてないの?」


 楠手は愕然として訊き返す。


「はい。生憎、なんで自分がここにいるのかすら覚えてません」

「え、じゃあ、いつもの速水君なの?」

「なんなんですか、その、いつもの速水君って? 数時間分の記憶は飛んでますけど僕は普段と何も変わってないですよ?」

「そ、そうみたい」


 今こうして会話しているのが、自分のよく知った速水本人の口調や表情と同じだと思い至り、楠手は少々腑に落ちない声で認めた。

 記憶の空白を埋めたい一心で速水は言う。


「楠手さんは記憶が無い間の僕を知ってるんですか?」

「全部、知ってるわけじゃないけど」

「僕は何をしたんですか?」

「さっきから言ってる通り、私の口にスティックパンを押し込んできたり、肩を掴んで押し倒したりしたの」

「えっ、じゃあ僕は知らないうちに楠手さんに危害を加えてたんですか」

「だからそうだって言って……」

「ごめんなさい」


 まるで信じる気のない速水に被害の口述を繰り返そうとした時、速水は沈痛な面持ちを俯けて謝った。

 楠手はきょとんとして言葉を喉に押しとどめ、速水の下げた頭部を見つめた。


「楠手さんに危害を加えたっていう実感は湧きませんけど、意識が無かったとはいえ襲った事実は受け入れます。謝って済む話じゃありませんが、本当にごめんなさい」

「は、速水君。頭上げていいよ」


 慚愧の念で深謝する速水に、楠手は良心が痛んでそう促した。


「はい」 


 そう返事をして沈んだ顔をもたげた速水を、和らいだ視線で真っ直ぐ見据える。


「速水君。申し訳なく思うなら、二つ頼みを聞いてくれる?」

「頼みってなんですか?」

「一つは今日の事は忘れること……」


 そこで言いにくそうに言葉を切って、左手で右腕を擦りながら告げる。


「寒いから羽織るもの貸してくれる? こんな恥ずかしい恰好のままじゃバイトに出れないよ」


 苦笑しながら要求する楠手に、速水は真摯に首肯する。


「わかりました。ちょっと待ってください」


 速水はそう言うと、着ているジャケットから腕を抜いた。

 楠手に下手で投げ渡す。

 胸と腕でジャケットを受け止めた楠手は、感謝の籠った眼差しで速水を見返した。


「ありがとう、速水君」

「これぐらい礼を言われるようなことじゃありませんよ」


 少し照れた苦笑を浮かべた

 渡されたジャケットを楠手は慎重な動作で羽織り、安心感を得たように口元を緩ませる。


「肌の上から直接着ただけなのに、あったかい」

「それ一枚で寒さは凌げそうですか。寒いならこのトレーナーも貸しますよ?」


 自身のトレーナーの裾を摘まんで速水は伺う。

 楠手は頬をほんのり赤くし、遠慮するように顔の前で両手を振った。


「だ、ダメだよ。トレーナーまで貸してもらったら、速水君の方が肌着一枚で身体冷えちゃうよ」

「僕は大丈夫ですよ。ヒートテックなんで。それに楠手さんが体調崩したら、仕事場で会えなくなって寂しくなりますからね」

「……と、とにかくちゃんと洗って返すから」


 お茶を濁すように楠手は言葉を返すと、立ち上がって速水に背中を向ける。


「それじゃ、またバイトでね」


 楠手は片手を小さく振って、すぐにも立ち去りたい思いで歩き出す。


「はい。よければ、今度お詫びさせてください」


 いつもの陽気な笑顔で速水は言った。

 何故だかムズムズするような気持ちになって、楠手は速水の申し出には返事をせずに足早にその場を去った。



 楠手に手を振っていた速水は、夜の闇に楠手の姿が見えなくなると一仕事終えたような息を吐いて手を降ろした。


「楠手さん。さすがに僕の気持に気づいちゃったかな」


 速水は密かに楠手へ想いを寄せている。

 意識がない間に想い人を襲った事実は速水自身にも衝撃的だったが、意識のなくなった理由がシキヨクマーの計略だとは知らぬ彼から苦笑いが零れる。


「想いが溢れちゃったのかな」


 カラオケ店のバイトで楠手に出会って以来の恋煩いは、一体いつになったら身を結ぶのだろうか。

 彼の楠手への想いは、悪の組織シキヨクマーでさえも知り得ていない。

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