西之森麻美、襲われる?

 西之森麻美は撮影スタジオの控室でビキニの上にパーカを着た格好で椅子に座り、スマホでネット記事は読みながら休憩時間を過ごしていた。


「へえ、あの子がウエスト詐称ねぇ」


 彼女が今読んでいる記事は、テレビドラマにも出演経験のあるグラビアアイドルが、プロフィールを詐称していた、という世間の話題にも上らない芸能ゴシップだ。

 それでも彼女にとっては、数少ない優越感に浸れる記事なのである。


「ふふっ、嘘つき発見」


 嫌いな人間の悪事を見つけたようなあくどい笑みで口元を歪ませた。

 しばしの間、誇るような気持ちを味わった後、他の記事を探す。

 ふと、アイドルという単語が西之森の目に留まった。

 その記事を開いてみると、西之森は眉をしかめる。


「人気アイドルグループWithの進藤こよりが水着写真集をリリース?」


 敵情調査、と自分に言い聞かせて進藤こよりなるアイドルの画像を検索する。

 西之森は唇を噛んだ。


「悔しいけど、凄い可愛いわね」


 容姿は申し分なく整い、身長は低すぎず高すぎずプロポーションも優れている。

 手ごわい敵が増えた。でも、くびれの美しさの負ける気はないけど。

 面識もない相手に西之森が敵対心を燃やしていると、控室のドアが外からノックされる。


「西之森さん、入りますよ」

「はーい」


 西之森が声を返すとドアが開き、二十代後半の男性撮影スタッフが入ってくる。

 男性撮影スタッフの手には、赤ん坊一人ぐらいの大きさはある紙袋が抱えられていた。

 紙袋の隙間から香ばしい小麦の匂いが漂う。


「お昼ですけど。西之森さん、何かいりますか?」

「飲み物だけ頂戴。もちろん糖分含んでないのね」

「あ、それとパン食べます?」


 パンですって!

 男性スタッフの台詞を聞き、西之森はあり得ないという仏頂面を振り向ける。


「飲み物でさえ糖分がないの頼んでるのに、がっつり糖分を含んでる炭水化物のパンを食べるわけないでしょ」

「あ、そうですよね。すみません」


 男性スタッフは即座に謝ると、静々とドアを閉めて去っていった。


「自由な食事をして、今のスタイルをキープできるわけないじゃない」


 グラビア撮影のスタッフに理解されていないことを嘆くように、西之森はスマホに視線を戻して呟いた。

 


 西之森はグラビア撮影を終えると、いつもスタジオからタクシーを使わずに歩いて帰途に就く。


 この日も徒歩で帰宅するため、更衣室で少しの汗は構わないスウェットとストレッチパンツに着換えてスタジオを後にしようとした。

 更衣室を出て廊下を少し進んだところで、不意に後ろから左手を掴まれる。


 びくりと振り返ると、昼時の休憩時にパンを食べるか訊いてきた男性スタッフがいた。

 そして何故か、男性スタッフは虚ろな瞳をして西之森を見つめ、右手にはフランスパンが握られている。


「な、何か?」

「パン、パン。パパンパ、パン」


 男性スタッフは意味不明な声を出すと、狂った愉快を感じたように口の端を吊り上げる。


「パンパン、パパンパ、パン」


 歌詞の一節であるかのように抑揚をつけて、男性スタッフは繰り返し意味不明な声を発する。


「な、なんなの。どうしたの?」


 西之森がおかしな言動をする男性スタッフへ不安げに問いかける。


「パンパン、パパンパ、パン……」 


 刹那、男性スタッフの虚ろな目が危ない狂気で昏く光る。


 これはヤバい――。


 本能的に寒気を覚えた西之森は、咄嗟に自分の左手を掴む男性スタッフの肘の内側へ手刀を繰り出した。

 こういった瞬時の判断と行動は、木田の訓練の賜物だ。


 腕にあまり力を入れていなかった男性スタッフは、肘を折り曲げられ身体の重心が外側へ傾く。

 相手の力が弱まった瞬間に、西之森は左手を全力で右手側へ引き寄せ、男性スタッフの手から逃れた。


「パ~ン」


 男性スタッフの狂気の瞳が見開かれ、ギロリと西之森の方に向く。

 背筋に走る悪寒を逃げろという司令として西之森は受け取り、男性スタッフから視線を外して前方の廊下を目を遣った。

 不運にも、奥へ伸びる廊下の先に広い所へ出る逃げ道がないことを知覚し、俄かな焦慮が思考を埋める。


「パーン、パーン」


 背後でフランスパンが掲げられるのを感じ取ると、西之森は駆け出していた。


「パーン!」


 勢いよく振り下ろされたフランスパンが、西之森を襲う。


 ひいっ!


 しかし間一髪でフランスパンは西之森の背中を掠るに終わり、フランスパンが床を殴る音が鈍く響いた。


 あれ、ほんとにフランスパン?


 西之森は正体を失った男性スタッフの持つフランスパンに疑念を抱きながら、状況を脱することが出来る策を練る。


 階段とエレベーターへ向かう道は男性スタッフに塞がれ、左右は廊下の壁で逃げ道などなく、廊下を進んだところでガラス窓に突き当たるだけ。


 どうすればいいの?


 必死に廊下を走りながら、西之森は頭を捻った。

 幸いにも男性スタッフは、歩く速度を変えずにゆっくりと距離を離していく西之森を追っている。


 どこかの部屋に逃げ込む? いや、逃げ込んだところでどこの部屋にも抜け道はなく、最後は追い詰められる。かといって正面から対峙したところで、体格差で組み臥されかねない。


「パーン、パーン。ヤレル、オカス、ウバウ」


 後方から聞こえてくる奇っ怪な声に混じる物騒な言葉に、西之森は駆ける足を止めずに男性の方を振り返る。


 ヤレルとか、オカスとか、もしかして捕まったらレイプされるの?


 物々しい単語に連想されて、西之森の目がフランスパンに向く。


 まさか、あのフランスパンで!


 自分の発想に震え上がる。


 あんな太いの入らないわよ。っていうか、そんなプレイ初めて見たわよ――って、そういうことじゃなくて、入るとか入らない以前に絶対捕まってたまるか!


 自分を叱咤して淫猥な想像を頭から追い払い、脳をフル回転させる。

 そして、閃く。


 逃げ道はない、正面では分が悪い、なら正面でなければいいんだ。

 背後さえ取れれば、逃げるにも奇襲をかけるにもこちらに分がある。


 でもどうやって、背後を取ればいい?


 このまま逃げてばかりいても、ガラス窓で行き止まりになり追いつかれる。

 そうなると、立ち位置を入れ替えることが出来るのは、角を曲がった先にある廊下の左右に並ぶ内部の似通った部屋ぐらいだ。


 立ち止まってとしても男性スタッフが追いつくまでには十秒の余裕がある。とにかく部屋に入ろう。


 西之森は決断し、廊下の角を曲がると左手にあるドアのノブに手をかけ押した。

 ドアは内側に開き、もんどりうつように西之森は踏み入る。

 部屋の中は右に広く、茶菓子の置かれたテーブルやロッカーなどが部屋の右側に集まっていて、正面の壁にはメイク用の化粧鏡が取り付けられていて、ドアから入ってきた西之森の息せく姿の上半身を映している。


「パーン、パーン。ヤレル、オカス、ウバウ」


 部屋の壁越しに狂った男性スタッフの轟く声が聞こえてくる。

 ここに突っ立ってるわけにもいかない。

 西之森は鏡の中の自分を見つめて、身を隠せる場所を検討する。

 テーブルの下はすぐに見つかる、ロッカーの中は隠れ場所としては想定しやすく当然探し当てられる……じゃあ、どこなら?

 周囲を見回す。

 左斜め後ろが視界に入った時、隠れ場所を一つ忘れていたことに思い至る。

 部屋の内側に開いたドアと壁の隙間である。


「ヤレル、オカス、ウバウ」


 ドアの外から男性スタッフの声が近づいてくるのがわかる。

 時間がない、正面の鏡に視線を遣る。

 正面からでは鏡にドアの隙間は映らない。

 西之森は運を天に任せる思いで、ドアと壁の隙間に身体を滑り込ませた。


 ここから先に探されたら、あたしは詰みね。



「パーン、パーン!」


 男性スタッフが部屋に入ってきたのを、耳に聞こえる奇怪な声で西之森は察知した。


 来た、さあロッカーの方へ行って。


 じっと息をひそめて、敵の動きをドア越しに伝わる気配で感じ取る。


「パーン、パーン」


 なおも奇怪な声を上げて、男性スタッフは首を左右に巡らせた。

 狂気に満ちたその目が部屋の右隅のロッカーを捉える。


「パーーーーーーーーン! パーーーーーーーーン!」


 雄たけびのように放たれた男性スタッフの大音声が、狭い部屋に反響する。


「きっ……」


 鼓膜を突き破る轟声に、西之森は咄嗟に耳を手で覆う。


「ヤレ、オカセ、ウバエ」


 男性スタッフの声音が割れ鐘のように響く。

 まるでこの世のものではないような。


「パーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!」


 大気を揺るがして咆哮し、ロッカー目掛けて驀進する。

 ドアを隔てていて姿は見えないが、怪物にとりつかれたような男性スタッフの行動に肝を冷やす。


 腕が届く範囲から外れ、彼が背中を向けているうちに、西之森は逃げなければならない

 だが、怯懦で足が凍り付いて動かなかった。


 今なら多分、私が逃げたことには相手は気付かないはず。

 それでも、もし捕まるようなことになれば……あのフランスパンで。


 悪い予感を払うように頭を振る。

 大丈夫。私は誰よ、グラドルレンジャーズのグリーンでしょ。普通のか弱い女性じゃない。これまでもっと猥褻な奴らと戦ってきた。


 自身が何者か。その自問に心の中で答えると、西之森は凍り付いていた足が解凍されていくような感覚を得た。


 それじゃ、全力で逃げるわよ。

 ドアの端に手をかけ、隙間から飛び出す。

 男性スタッフがロッカーを両手で掴んで激しく揺らすのを横目に、足に力を入れて部屋を抜け廊下を走った。

 そのまま速度を落とすことなく、階段に辿り着く。

 一瞬、後方へ意識を向けた。


 追って……こない。


 人間味を失った男性スタッフから逃れた事実に、少しペースを落として階段を降りながらホッとする。


 これで安心して家路に就けるわ。


 階段を降りきって、一階にあるスタジオのエントランスに到着する。

 入り口正面の受付の女性に、朝来た時と同じ笑顔を向ける。


「今日はスタジオを使わせていただいて、ありがとうございました」


 物腰低い礼を告げると、何事もなかった様子でスタジオを後にし、毎日の営みで忙しい夜の街の中、西之森は自宅への道を歩いていった。


 この時の西之森は気付いていなかった。

 敵から逃げ出した自分の代わりに、多くの女性がフランスパンの被害に遭うことに――。

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