内気なお下げのパン屋さん

 のどかな日曜日のお昼時、駅前の広場に一台の移動販売車が停まっていた。


 販売車の前には『美味しい焼き立てパンの店』という店名といくつかの商品名が書かれた立て看板が置いてあり、黒ワンピースに黒髪お下げで黒縁の眼鏡をかけた女性が呼び込みをしてる。


「あのー、美味しい焼き立てのパンはいかがですかー」


 声を張り上げたつもりだったが、内気な性格ゆえか緊張で小声しか出せなかった。もちろん、車の前を通る人々は誰も気にも留めない。

 はあ。今日も売り上げが出ないと生活費が。

 黒髪お下げが溜息を吐いて足元に視線を落とした時、ラフなブルゾン姿の若い銀髪男性が立て看板の前で足を止めた。


「おや、パン屋ですか?」


 男性は立て看板を見つめたまま、誰にともなく尋ねた。

 ようやく気に留めてくれたお客に、お下げは男性の方に緊張した顔を上げて答える。

「あ、はい。パン屋です。や、焼き立てで美味しいです、よ」

「そうなんですか。お一つ戴けますか?」

 お下げが店の者だと気が付いたのだろう男性は、お下げに振り向いて右手の人差し指を立てて微笑みかけた。

 す、すごくハンサム!

 振り向いた男性の容姿が思いもよらず端正で、お下げは初恋の乙女のように胸をときめかせた。

 ただでさえ人前では緊張するというのに、ハンサムな男性に笑みを向けられている事実に緊張が増す。

 わ、わたし、ちゃんと応対できるかな?

 お下げの緊張など知らない様子で、男性はお下げに近付く。

「あの、お一つ。戴きたいんですけど?」

 ソプラノの柔らかな男性の声音に、お下げは照れてしまって上げていた顔を下に落とす。

「あ、ああ、その、お、お一つですね。な、な、何にしますか?」

 声が裏返ってしまい、恥ずかしさで顔を赤く染めた。

「おすすめはなんですか?」

 お下げが緊張と恥ずかしさでまともに対応できていないにも関わらず、男性は気にした風もなく訊き返した。

「え、ええと、その、フランスパン、とか」

「フランスパンですか。それじゃそれを一つ」

 爽やかな笑みを浮かべて、右手人差し指を立てる。

「わ、わかりました」

 男性の顔を直視できないままお下げは車内に戻り、ショーケースからトングで長いフランスパンを掴んで紙袋に入れて差し出す。

「ど、どうぞ」

「どうも」

 男性は受け取るとさっそく袋の口を開いた。

 片手で袋を扇ぐようにして、焼き立てのパンを香ばしさを鼻に届かせる。

「いい香りですね。小麦とライ麦の匂いが混ざっていて、あまり味わえない香りですね」

「わ、わかるんですか?」

「いいえ。勘です」

 驚いた声で尋ねたお下げに、茶目っ気のある微笑を返した。

 お下げはちらりと男性へ視線を上げる。

 ああ、そういう笑顔もカッコいい。

 またしても胸をときめかせて、いつになく心臓が早く打っている気がした。 

 男性は香りを味わった後、フランスパンに齧りつく。

「美味しいですね。パンの生地も程よく硬くて噛み応えもありますし」

「あ、ありがとうございます」

 ありきたりな言葉だが褒められ、お下げは顔を赤くして顔を下に逸らす。

「でも、不思議ですね」

「な、なにがですか?」

 急に何かを考え始めた男性に、お下げは問う目をして訊く。

「こんなに美味しいのに、なんでお客がいなかったんですかね?」

「あ、ああ、そ、それは……」

 緊張して大きな声で呼び込みができない、なんて言ったら陰気な女だと思われちゃうかも。

 お下げが男性に嫌われるのを恐れて理由を言い出せないでいると、男性の方から優しい響きの声で言った。

「客の呼び込み。僕がやってもいいですか?」

「え、ええと」

「迷惑、ですかね?」

 お下げの顔を覗き込むようにして下手に申し出てくる。

 この人、私が緊張で声を出せてないことに気付いてたんだ。

 その事に気付いたうえで呼び込みをしてくれると言う男性の優しさを感じて、お下げは恐縮しながらも頭を下げた。

「お、お願いします」

「僕はここのパンのファンになりましたから、ここのパンの美味しさが多くの人に伝わればいいのでお礼をいりませんよ」

 男性はそう言うと、手元のフランスパンを食べきる。

「それじゃ、呼び込みしてきます」

 お下げの感謝の言葉も聞かずに、販売車に背を向けて呼び込みを始めた。

「美味しいパンですよ。焼き立ての美味しいパンですよー!」

 ハンサムで、パンを褒めてくれて、私の苦手なことを理解してくれて、とても良い人。

 呼び込みをする男性の後姿を愛おしく眺め、お下げは自分が恋をしてしまったと気づいて一人密かに頬を染めた。

 

 その日お下げのパン屋は開店して以来、初めて二十人を超える客にパンを売ることが出来た。

 翌日の駅前では、眼鏡を外し長い黒髪を背中に下ろした元お下げが、胸元の開いた服を着て明るい笑顔を振り撒いていた。

 彼女の姿に惹かれた男性客の中には、彼女を目当てに毎日通って買いに来る者も出てくるほどだった。

 だがしかし――。

 彼女のパン屋から端を発して、シキヨクマーの魔の手が平和な世の中に伸びているとは、この時は誰の知るところでもなかった。


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