第1話 籠の中の小鳥

窓に張り付いた水滴が次から次へと反復横跳びのように左右に揺らぎながら落ちていく。

手入れのされていない私ののっぺりとした黒髪は微かな湿気を帯びてうなじに張り付いていた。

講師が黒板にチョークを叩きつける音があるものの、まるで静寂のように場は冷えていて、時計の針が規則的に刻む音や隣の席の少女が立てる安らかな寝息すらも私の耳に届く。

私は隣の席の真木を見て呆れたように目を細める。

ふわりとした髪に寝癖が付いていて、人懐っこい性格も相まってまるで小動物だ。机に突っ伏して背中が伸びていて、心地良さそうな深い呼吸でゆったりと背中が上下する様はいっそ清々しい。

居眠りをしているのは彼女だけでなく、周りを見渡せば数人の生徒が居眠りに耽っていた。塾にお金を払ってまで来ていて、授業を真面目に受けないなんて何を考えているんだと正気を疑う。

「じゃあ、織部。お前、これ答えてみろ」

気がつけば講師がこちらを見ていて、講師に指名された私は慌てて立ち上がる。

「は、はい…えっと…」

「分かんないのか…ったく、よそ見してただろお前。まあいいや、じゃあ真木」

咄嗟の事で答えられず、私は座って顔を伏せる。

隣の居眠りしていた真木さんはのそりと身を起こして、目蓋を擦りながら口を開く。

「んー…200mL。あ、違った。180mL!」

「流石ですね、真木さん。この問題は一見200mLと間違えやすいのですがーーーー」

少女はふわあと欠伸をすると、私の視線に気がついて姿勢を正し、恥ずかしそうに微笑む。明らかに眠たいだろうという顔をしていて、案の定スロー再生のようにゆっくりと頭が下がっていき再び机に突っ伏して眠りにつく。

「なんで…適当にサボってる人間の方が頭が良いのかな…」

私の弱々しい呟きは、一際強くなった雨が窓を叩く音に掻き消された。


理科の授業が終わり、次の授業までの間は休憩時間となる。私にとって、この休憩時間はかえって心休まらぬ時間で憂鬱なものだった。

「マキちー! 髪めっちゃはねてるーwww」

「えー!? うそ、まじじゃーん!」

隣の席の真木はいわゆるイケてる男女グループの一人なのだ。ちょうど集まりやすい位置なのか、彼女の微妙な鈍臭さが他のメンバーを集めているのか。授業が終わると大抵学園カーストで上に方の連中が集まってくる。

「俺が直してやろうか?」

「ジュンくん、それセクハラだよー?」

「おまっ、それは酷いwww」

私が座っていると彼女らが集まりにくいだろうと、気まずくなって席を立つ。トイレにでも逃げよう。

すると真木が私をじっと見つめて、優しく微笑んだ。

「あ、ごめんね。気を使わなくてもいいよー。君ら邪魔なんだよー。飛鳥ちゃんが座ってるんだから考えなよ」

「あー、ごめんな。えっと…織部さん」

「織部ちゃん、ごめんねぇ」

「あ、いえ。お気になさらず…」

なんだか恥ずかしくなって早足で教室を出た。そんな自分が惨めで堪らなくて。

トイレの鏡に映る私は、地味で、可愛くなくて、おまけに要領も良くない。


羨ましい。


湧き出る感情を冷たい水で顔を洗って振り払って、教室に戻る。


塾が終わると生徒達は足早に席を立って出口に向かう。一瞬とはいえ、その忙しない混雑が少し苦手で、私は一泊おいてから席を立つのだけど。

「ねー、飛鳥ちゃん」

席を立った私を引き止めるように、真木が話しかけてくる。

「なに…?」

「夏季講習ってさ。微妙な時間に終わるよねー」

ゆったりと話す彼女に付き合っていると、流れに取り残されたような奇妙な孤独感を感じた。

「やっぱ夕飯まで暇になっちゃうじゃんかー」

この孤独感はあれだ。授業後に先生に呼び出されて、黒板の前で説教を受けている時のような。

「飛鳥ちゃんも遊び行かない? クラスメイトなんだし仲良くしよー」

息が詰まるような気がした。周りに自分の一挙一動が観察されているような錯覚。

「いや…私は、その…勉強しなきゃ。頭も悪いし…全然だから…その…」

「うーん…それなら仕方ないかー」

私はなんだか話しているのが苦しくて、彼女に背中を向けて早足で出口に向かった。

「またね。勉強がんばれ〜」

「う、うん。またね」

適当に生きているくせに、私より優れた彼女の存在は。私を生き辛くしていた。

「辛くなったら、いつでも相談してね…」

ポツリと溢されたその言葉は、私は聞こえないふりをした。


家に帰って机に向かっても心のもやもやが思考を濁らせて集中できなかった。気づけば時間が過ぎ去って、玄関が開く音が聞こえて母親が帰ってくる。

「お帰りなさい…」

「ちゃんと勉強はしてるでしょうね」

「うん…してるよ。ちゃんと」

「それなら良いけど…貴女、最近成績がーーーー」

毎日繰り返される母の言葉はいつしか頭に残らなくなっていた。

この地獄はいつ終わるのだろうか。受験が終わったとき? 大学に入ったら変わるのだろうか?

きっと変わらない。変わると信じて受験を耐え抜いて始まった高校生活は、結局何も変わらなかった。


母の小言が終わったとき、私の足は無意識に玄関に進んでいた。

感情のままに飛び出して、あの子達のように自由に遊べたら。雨の中を思うがままに夢中になって走ったら、この呪縛から救われるだろうか。

待ってるだけでは解放されないと、分かっているけど私はきっとここから逃げられない。

「ごはんよー。あら、飛鳥、そんなところで何してるの? 飛鳥が受験勉強頑張れるように、お母さん美味しいご飯作って最大限サポートするから…頑張るんだよ」

「うん…ありがとう、お母さん」

共働きで仕事が忙しい中でも、お母さんはこうして、私のためを思って。

「いただきます」

きっと私は、ここから逃げられない。私は一生、鳥籠の中の鳥なのだ。

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