[09-09] ここで退けば

 手が砂を掴む。


 その感覚が芽生えると同時に凄まじい雄叫びが聞こえてきて、


「わぷっ」


 慌てて飛び起きる。


 今度はどこ!? 辺りを見渡すけれども、砂煙で遠くまではわからない。


 草木のひとつも生えていない土と岩の荒野だということはわかる。いや、この地面の感じ、わたしの記憶から再生しているなら心当たりがある。


「……〈ボーンアッシュ荒野〉?」


 ぼうっとしている場合ではない。砂煙の向こうでは異形の影が揺らめいている。それも、地平線を埋め尽くさんばかりの大群だ。


 まさか、これと戦うのが霊獣アマルガルムの試練!?


 砂煙が一気に晴れる。わたし目がけて突進してくるのは、この荒野に適応できる獣型や虫型の魔物たちだ。


 おや、と思ったのは初めて見る魔物がほとんどだということ。


 なんてぼんやりしていられない。逃げることもできず、わたしは〈クェルドス・スペシャル〉の銃口を先頭の魔物に向けた。


 魔王の力で一気に突破口をこじ開ける!

 そう思ってトリガーを引いたのに、ハンマーがシリンダーを叩けど弾薬に火がつかない。右手首のタトゥーも沈黙している。


「弾切れ!?」


 そんなバカな。ラカに倣って常に弾薬を装填しているのに。


 慌ててローディングゲートを開けてシリンダーを回してみたけど、弾薬はしっかり六発装填されていた。


 中の火薬がしけっているのか――一発ずつ薬莢を引き抜いては〈高速装填クイック・リロード〉を行うけれど、わたしの意識の影響で手が震えてしまう。もうすぐそこまで敵が迫っているのに!


 そのとき、頭上に大きな獣の影が覆い被さってきた。


 背後を取られた!?


 しかし、影はわたしを無視するように飛び越していった。


 その勢いのまま魔物の顔面に強烈なパンチ! 首根っこに鋭い牙でがぶり! そのまま血管と筋をぶちぶち!


 魔物の青い鮮血が噴き上がる。それを一身に浴びるのは、赤い体毛をなびかせる狼、アマルガルムであった。


 加勢しないと! 銃が撃てないならと、わたしはナイフを引き抜いて魔物に飛びかかる。しかし、その刃どころかわたしの体までが魔物をすかっとすり抜けてしまった。


 アマルガルムはわたしを一顧だにせず、次々と魔物を屠っていく。しかも、その肉を引き千切っては喰らって、己の糧としているではないか。


 それを見て気がついた。

 わたしは『ここ』にいない。


 オープニングムービーで〈人魔大戦ジ・インカージョン〉の様子を見ているときと同じだ。あれも人族と魔族が激突する場面を、同じ目線に立って見届けたのだ。


 つまり、これは過去の映像。

 もっと言えば、わたしの記憶ではなく――


 アマルガルムが魔物をがぶっと咥え、ぶんぶんと振り回す。その傷から噴き出した青い血が立ち尽くすわたしの顔にどばっとかかった。


「わっ」


 映像だとしても手で顔を庇ってしまう条件反射。

 と、視界が遮られた瞬間、空気の張り詰め方が一変したことに気づいた。


 恐る恐る手を下ろすと、〈ボーンアッシュ荒野〉から別の場所へと風景が変わっている。あの魔物軍団の影の形もなくなっていた。


 ここは岩肌の渓谷。静かな夜の、さらに深い暗闇の中、アマルガルムがこちらへのしのしと歩いてきた。


 その姿は痛ましい。体を染め上げる魔物の青い血に、自らの赤い血も混ざっていた。戦いの中で深手を受けたのだとわかる。


 アマルガルムはたったひとりで荒野を守った。

 なのに、わたしの背からは狼の唸り声が無数に発せられていた。


 挟まれる形となって、さっと崖際に身を寄せる。そこで目にしたのは、アマルガルムの帰還を威嚇で出迎える巨狼の仲間たちだった。


 狼たちはアマルガルムに吠える。その声はわたしの耳に人語として翻訳された。


《汚らわしい禁忌破りめ!》《どの面下げて戻ってきた!》《寄るな、匂いが移る!》


 ただでさえしかめっ面のアマルガルムが、仲間たちの心ない言葉に目を凄ませる。


《我らが領地なわばりを踏み荒らされてなお、このような洞穴に尾を丸めて隠れ潜むとは、霊狼の誇りは何処いずこへと消え失せたッ!》


 この一喝に、狼たちは体毛を逆立てる。

 けれど、ひと際大きくて美しい白狼が後方から進み出た途端、しんと静まり返るのだった。


 白狼は穏やかな女性の声でアマルガルムに語りかけた。


《魔物を屠り、その血を浴びれば、我々も魔獣に身をやつすことになります。誇りの問題ではないのですよ》


 アマルガルムは却って怒りを露わに牙を剥く。


《魔物どもの侵攻は速い。このままなら貴様らが逃げた先にもいずれ現れよう。ここで退けば、それを理由に地の果てまで逃げることになろうぞ! そうなっても戯言を弄するのか!》


《異なことを。その時は自ら死を選び、何物にも汚されぬ。それこそが霊狼の誇りではないのですか》


《解せぬ! 己が矜持も全うできぬ者が霊体になったところで、たかが知れるわ!》


 どうしようもない食い違いがここにあった。


 他の狼たちは霊獣となるまで己の神格を保とうとするだけで、現世に愛着の類は一切抱いていないのである。


 それはある意味、わたしたち人間、普通の獣とは違う、超越した存在の思考でもあるのかもしれない。


 でも、アマルガルムは違った。

 たとえ仮初の命であっても、絶対に譲れない一線を心に持っていたのだ。


《我は領地なわばりを守り抜く。さらばだ、恥知らずども》


 きびすを返すアマルガルムの後を追う者はひとりもいない。


 けれど、わたしはウィキペディアを読んで知っている。こうしてアマルガルムが『禁忌破りの』となったのは数百年も前の出来事。


 その後、荒野に追放された人族の一派がアマルガルムを神と崇め、従うように戦い、ついに生涯を全うして霊獣へと昇華したアマルガルムと契約を交わす。


 その肉体に変化が生じ、セリアノとなったのが――アマルガルム族の始祖だ。


 彼らはこの過酷な大地で魔物と戦い続けた。退くことなく。




 ……『ここで退けば、それを理由に地の果てまで逃げることになる』。

 どうしてだろう。その言葉がわたしの胸に深く深く突き刺さった。牙で抉られたみたいに。

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