第30話 真意

 控え室を抜ける。ゆるやかなカーブを描く廊下が続いた。見るべきもののない、退屈な廊下だ。私は振り返って、「いけるな、ユーマ?」と声をかけた。


「どうだろうね。初めてだから勝手がわからないし、なんともいえない」


 ユーマは三歩も後ろを歩いていた。気の抜けた顔をしている。


「フーマはこういう時、なんて答えてた?」

「どうだったかな。……こっちだ」


 分岐路を左に折れた。ユーマは黙って着いてきた。表情のはしにも危機感は見当たらない。緊張で動けなくても困るが、こういうヤツはさらに問題だ。


「緊張感がないな。そんなことじゃあ死ぬぞ」


 私の忠告にも、ユーマは表情を変えないで、「ごめん、そういうの苦手なんだ」といった。


 それ以上は言葉をかけなかった。ユーマの強さは体感しているし、私に気にかけられても響かないのだろう。今は自分のことに集中しよう。最高のパフォーマンスを発揮できたとして、生き残れる確率は皆無なのだから。


 闘技場につながる格子扉に浮いた錆を見つめる。頑強な金属でできた、檻のような扉。今度こそ、生きて出られないかもしれない。鼻歌を口ずさみながら、係員の合図を待つ。


「きっとうまくいくよ」


 おもむろにユーマがいった。低く、優しい声音だ。その残響は長いこと、私の脳内でつづいた。


「そろそろです」


 係員が言った。気持ちを切り替える暇もなく、扉が開かれる。割れんばかりの歓声が、耳に流れこんだ。口汚い野次が声援に混じっていて、耳ざわりだった。


「おお、兄ちゃん、新顔かあ」


 最前列にいた観客が叫んだ。金色のネックレスをつけた男だ。下卑た笑いを浮かべている。


「てめえも物好きだな。その女と組むと死んじまうぞ! つっても、今さら逃げるなよ。俺たちはそれを楽しみにきてるんだから、帰ってもらっちゃあ困るんだわ」


 こちらを向いたユーマに、つくり笑顔で応えようとする。結んだ唇がわなないて上手くはいかない。


「きっとうまくいくよ」


 ユーマは対角にある門を見据えた。ホットドッグを作る店員の動きを眺める常連客のような、興味の薄そうな視線だ。命を賭けることへの恐怖はないのだろうか。だとしたら、フーマが『兄さんは戦いに向いていない』と言ったこともうなずける。恐怖を知らない奴は、必ずと言っていいほど早死にする。


「兄弟そろって、その女に食われるわよ」


 人の良さそうな貴婦人が、観客席でののめいた。周囲の観客が、これに呼応して下衆な文言を吐いた。蜂の巣にされたフーマの映像が脳裏に浮かんだ。頭の中がまっ白になる。


「ミーナ、大丈夫か?」


 息をするのがつらい。返す言葉が出てこなかった。


「そうか、だいたいわかった。……この街がそうなのか。こいつらがフーマを殺したのか」


 そういったユーマは、はじかれたように動いた。障害物を足蹴にして、闘技場をかこむ壁に一息で飛びのる。ありえない跳躍力だ。壁は安全を期して、十メートル以上の高さがあるのに。


 彼の正面には、金ネックレスをつけた男がいる。状況を理解できていないのか、珍獣でも見るような顔で大口をあけている。


 ユーマは、男の襟首をつかんで軽々と引き寄せた。男の体が浮いて、壁のこちら側へと落ちてくる。ぎゃふんという、変な悲鳴が起こった。たてつづけに人が降ってきて、客席が騒然となった。


「おお、イカレてんなよ」


 客席の最後尾から降りてきた男が、ユーマに向かっていった。ごつい手には銃が握られている。


 銃声が断続的に響いた。撃ったのはユーマだった。会場中に散らばっていた護衛どもが次々に倒れていく。相手に武器を抜く暇さえ与えない。正確かつ絶え間ない射撃だ。


 事態を察した観客は、押し合いながら逃げていった。もみくちゃにされて転んだ者も多い。パニックに気づいた外の警備員たちが部屋になだれこむ。無数の銃口が、ユーマに向いた。


 客席のあいだを飛びまわり、時には逃げまどう観客を盾にして、ユーマはことごとく弾をかわした。警備員がバタバタと倒れていく。積み重なっていく死体の数に比例して、その手にある銃が輝きを増した。


 圧倒的だった。彼に殺されかけた時の恐怖を、私は思いだしていた。


「もう十分だよ」


 血の海が広がる。立っている人間がほとんどいないので、私の声はよく響いた。


「頼むからやめてくれ」


 『兄さんは戦いに向いていない』と言ったフーマの真意がようやくわかった。度を超えた力を持てば畏怖され、忌み嫌われる。フーマは自分の兄を、孤独から守ろうとしたのだ。


「そいつらを殺しても、フーマはもどってこない」


 この舞台に彼を引きずりだしてはいけなかったのだ。しかし、もう遅すぎる。ユーマだけを残して、立っている人間は、客席からいなくなった。


「なんでわからないんだ? ……フーマは、あいつは、おまえを救いたかったんのに」


 ユーマはしばし天幕を見上げた後、虚脱したように膝をついた。解消しようのない諦念ていねんに支配されているようだった。その姿は私の父に似て、人のかたちをした抜け殻みたいだった。


「ミーナ、知ってるか」


 ユーマが舞台に降り立った。


「他者への憧憬どうけいは、同量の殺意をもってしか代替しえないんだよ」

「なんだ急に?」

「そしてもうひとつ、一度でも人を殺した人間の願いは、いびつなかたちでしか成就じょうじゅしない」

「ユーマ、何が言いたいんだ?」

「銃の声を聞いて。そうして答えがわかったら、引き金をひくんだ」


 ユーマは対角にあるゲートを指さした。いつのまにか山高帽の男が立っていた。

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