第26話 帰省

 故郷に帰りついた。町を東西に分断する川は生臭く、不吉な穏やかさをもって流れている。碁盤目状になった通りでは、千鳥足の男女がもつれあっていた。バーの正面についた客寄せ灯がぽつぽつと消えてゆき、居酒屋の暖簾がしまわれる。残飯にむらがる野良猫たちに混ざって、シラミ頭の少年がしゃがみこんでいた。少年は、何かよくわからないものを手づかみで食っていた。


 町の風景は変わっていない。もうすぐ朝日が昇るだろう。


 命あるものが入り乱れ、今日の夜まで生きることを希求する。これこそが下方衛星コアの、あるべき朝のすがただ。崩れかけた足場にすがりつく人々は、それが完全に壊れてくれることを、心の片隅で願っている。貴賤に関係ない平等な破滅がおとずれることを、下方衛星コアでは誰もが渇望しているのだ。


 使い古した女房を殺すための、毒入りキャンディーを売る店があった。白いターバンをまいた店主が、夏の通りに打ち水をした。手をつないだ二人組の女の子が水しぶきをよけて、きゃっきゃとはしゃいだ。陰鬱であるはずの朝の通りに、黄色い声はふさわしくない。


 エンリケ食堂は健在だった。見慣れた戸口に立ったとき、俺はいわれのない不安を覚えた。顔があった途端ボスに殺されるかもしれないという恐怖もあるが、そんなのは些細な問題だ。不安の大半はつまり、見慣れたはずの日常が退路のない袋小路につながっているかもしれないという不都合な可能性のほうにある。引き返すなら今だ。新しい何かを求めないのなら、過去の置場を掘り返すべきではない。


 俺が立ち尽くしていると、ミーナがドアをノックした。幸か不幸か返事はない。イヤな女だと思った。自分の目的のために、他者の平穏を壊すことを躊躇ちゅうちょしないのだから。


「留守か。他に入口はないのか?」


 ミーナがいった。


「裏口があるけど、たぶん鍵がかかっている」


 俺の返答に、ミーナは呆れた顔をする。


「壊せばいいだろ、そんなもんは。わざわざこんな田舎まで来たんだ。ただで帰るなんてバカだぞ」


 賛同はできない。だが、大股でいくミーナの背を追った。発想はがさつだが、言うとおりかもしれない。ここまで来たのなら、やはり確かめておくべきだろう。たどってきた旅路に何もないなら、それでいい。振り返るべき過去がないという事実は、きっと俺を安心させてくれる。


 裏口にいくと、ミーナはいきなり扉を蹴飛ばした。ブーツの形にぽっかりと穴があいた。彼女はそこから手をねじこんで、内側のノブについた鍵をはずす。


「待ってくれれば、開けたのに」


 俺はぼやいて、拾ってきた針金をほうりすてた。


「このほうが早いだろ。おまえは本当にギャングだったのか?」


 ミーナはそういってドアを開けた。


 ブワッとほこりが舞った。それらが朝日に点滅した。ゴミ山の光景が自然に思いだされた。しまっていた過去が、足跡をたてて忍び寄ってくるようだった。


「ちくしょう、普通にはいってこれねえのかよ」


 廊下の奥から、眠たげな声が聞こえた。


「急ぎだったんだ」


 ミーナは悪びれる様子もない。


 ぎしぎしと床板のきしむ音が近づいてきた。幸の薄い人相をした小男が、這いずるようにしてやってきた。


「どいつもこいつも、すぐにぶっ壊しやがる。俺がそのドアをいつ直したか知ってるか? 一昨日の夜だよ。ちなみにその前は一昨日の朝だ。なあ、俺の仕事はなんだ? まさかドアの修理をするために、ここにいるとは思ってないよな?」

「すまない」


 ミーナは片手を上げていった。


「急いでいたんだ」

「全員がそう言うよ。だけど、本当に急用だったやつはいない」


 小男は愚痴った。


「あんたらは俺のドアを壊したいだけなんだ。考えてみたことあるか? 毎日のようにドアを修理する人間の気持ちを。普通の神経をしてたら、狂っちまうよ。たとえばだが……」

「そうですか」


 俺は口をはさんだ。


「そんなドアなら、俺は直しませんが」

「そういう訳にはいかねえだろ。俺にはプロとしての自負があって、そいつが穴のあいたドアがあることを許さねえ。まあだからこそ、簡単にぶっ壊れるようにしてるんだがな。賢いだろ? プロってのは、客に面倒をかけさせないからな」

「たいした心づかいですね。さすがはカトーさんだ」


 俺はいった。要領をえない、面倒なだけのやりとりが懐かしかった。


「ローリンズさんはどこですか? 返答しだいじゃ、ドアの修理を手伝いますよ」

「今は無理だね。客がきている」


 カトーは麻のズボンをヘソの上までずりあげた。


「それに、ドアの修理は俺ひとりでやる」

「客っていうのは、ボスのことですか?」

「なんでボスを知っているんだ? もしかして、ボスがいっていた客はあんたか?」


 カトーは頭をぼりぼりとかいた。薄くなった髪が、いかにも憐れっぽい。


「すまねえな。昔、頭を撃たれちまったらしくて、それ以前のことを覚えてないんだ。隣町のギャングと抗争があって、俺は最前線で戦ったんだとよ。だからこそ、ボスは俺を雇ってくれているんだぜ。あんたがボスの知り合いってんなら、俺も大歓迎だよ」

「ありがとう。カトーさん」


 俺はいった。カトーの反応に合点がいくとともに、のっぴきならぬ心苦しさを覚えた。


「俺はあんたとも知り合いだったよ」

「そうかい。全然覚えてねえよ」


 カトーの声が小さくなる。


「ところで、俺はどんなヤツだった? みんなは、『今と変わらない』としか言ってくれない。でもそれじゃあ、何も教えてくれないのと一緒だろ。自分のことなんて、誰も知ることはできないんだから」

「いい人だったよ」


 俺は反射的に答えた。


「俺の面倒を見てくれたし、地元のガキにも慕われていた。ボスだって、あんたのことを高く買っていた」

「そうか」


 カトーは気恥ずかしそうにうつむいた。


「まあ、ゆっくりしていけよ。ボスとローリンズさんしかいないから。……厳密にいうなら俺もいるけど、ドアの修理をしなくちゃいけないから、いないのと同じだね」


 俺は簡単に礼をいって、店内へ入った。殊勝になったカトーを欺いたようで、いくらかの罪悪感を抱いた。いっそ正直に伝えるべきだったのか。『あんたは、みんなにナメられていたよ』と。いや、今の彼にそんな通告を与える意味はない。俺は自分に言い聞かせて、埃っぽい廊下を進んでいく。

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