第7話 空家

 メモに記された住所に行くと、二階建ての古びた木造家屋があった。生垣の木々は枯れ、乾いた枝をむきだしにしている。鉄線でできたアーチにかかる傾いた看板には、『ナルミ工房』とくすんだ字で書かれている。


 裏手に流れる川のせいか、湿気った空気がなまぐさい。


「すいません。誰かいませんか」


 ユーマは敷地の外で大声をあげた。


 しばらく待っても返事はない。気のふれた野良猫がべぇべぇと奇声をあげて、生垣のなかから飛びだしてきた。


「無駄だよ。誰もいない」


 ふいに女の声が落ちてきた。兄弟はそろって顔を上げた。


 となりにあるアパートの二階に女性がいた。窓枠に腰かけて、浅黒い足をぶらぶらと揺らしている。


「そこにいたじいさんは去年死んじまった。肺炎さ」


 女は片ひざを抱えた。足の裏だけがやけに黄色い。


「いい迷惑さ。身内がいないもんだから、発見が遅れてね。じいさん腐っちまって、ここいらにニオイを巻き散らかすんだもん。私は布を売ってるんだけどさ、ニオイが売り物に染みついちゃって、ほんと迷惑だったよ」


 ユーマは女に背をむけた。


「あ、待ってよ」


 女の声にユーマはふりかえる。


「あんたら、あのじいさんの身内か? だったらさ、去年の布を買ってくれよ」


 女は窓の外に身を乗りだした。よれたタンクトップの首元から、ハリを失くしはじめた乳房がのぞいている。


「身内じゃないです」


 ユーマが返した。


「俺たちの親がここにいたじいさんに金を貸していて、返してもらうために来たんですよ」


「そうだったんだ、あてが外れたね」


 女は愉快そうに大口を開けて手を叩いた。


「まったくさあ、迷惑なじいさんだよ。こんな子どもにまで面倒かけて、恥知らずもいいとこさ」


 満足そうに何度もうなずくと、女は部屋にひっこんでいった。


 二人はその場をはなれて、近くの路地にはいった。


「どうすんだよ、兄さん。町に知り合いなんていないよ」

「心配するな。俺たちには技術がある。どこかの工房で雇ってもらえるよ」

「そんなにうまくいくかなあ」


 フーマは、物足りなそうに口を尖らせた。


 通りに立てられた案内板にある地図を手がかりにして、町にある工房を順々にめぐった。門戸をたたけば、どの工房主たちも愛想よく出迎えてくれるので、期待はふくらんだ。だが、事の次第を伝えると、皆一様に表情をこわばらせた。結局のところ、雇ってくれる店は見つからなかった。他人の、それも身許のはっきりしない子どもを雇うような数寄者は少ないのだ。


「どうするの。テントにもどる?」


 フーマが小さく漏らした。疲れきった様子だ。


「今日はあの小屋に泊まろう。空き家だって話だし、道で寝るよりはマシだ」

「ええ、本気なの? イヤだよ。あそこで人が死んでいるんだろ。オバケがでたら、どうするのさ」

「大丈夫だよ。死んだ人間は何もできない。じいちゃんがそう言っていた。それに、俺はすげえ眠いんだ」

「んー、わかったよ。もしもオバケがでたら、兄ちゃんがなんとかしてくれよ。泥棒ぐらいならボコボコにしちゃうんだけど、幽霊に鉄パイプはきかなそうだし」

「オッケー。決まりな」


 ユーマは、しぶる弟の手をひいた。


 夜の通りには、飲み屋の外灯が点々と並んでいた。通りぞいにあるテラスでは、厚化粧をした女が赤茶けた鉄柵にもたれて煙管キセルをふかしていた。背中の部分が大きく開いたドレスを着ている者が多い。彼女たちの素肌には、蝶や蜘蛛などの入れ墨が彫りこまれている。照度の安定しない外灯の下で、それらは蠢いて見えた。


 男たちは顔が真っ赤になるまで酒を飲んでおり、肩をいからせて歩いていた。道のまんなかで胸倉を掴みあう者もいて、ひどくやかましい。路肩には、乞食や吐しゃ物、血反吐にまみれた人間が散乱していた。


 それらの喧騒から目をそむけ、二人はくだんの小屋に逃げこんだ。


「さっさと寝ようよ。俺、なんか疲れちゃった」


 フーマは矢継ぎ早に言って、床に寝そべった。すぐに寝息が聞こえてくる。慣れない町の熱気を浴びて疲れたのだろう。


 ユーマもリュックを枕にして寝ころんだ。しかし、なかなか寝つけない。目をつむっていても気が休まらないので、天井の木目を眺めて時間を潰すことにした。


 木の内側から腐ったと思える黒い点が、こげ茶色の木肌に散在している。ユーマには、その意志を持たないはずの模様が、町という総体のもつ悪意に思えた。『おまえたちは異物だ』と、黒い点のひとつひとつが、強い拒絶をもって睨んでいるようだ。


 長いあいだ眠れずにいると、ひたひたと足音が近づいてきた。まだ遠くにあるが、確実に距離をつめている。


 ユーマは身をかたくして、ポケットに忍ばせておいたスパナを握りしめた。窓の脇に身を隠して、相手が動くのを待つ。相手は気配をそのままに近寄ってくる。


 ユーマは息を殺して、スパナを高くに構えた。


「あんたたち、こんなところで何やってるんだい?」


 女の声がした。ランタンの明かりに目がくらんで顔は見えない。


 ユーマはポケットに手をもどした。もちろんいつでも取りだせるように、スパナに指をかけたままだ。


「昼間の、布を売っている人ですか?」

「そうだよ。よく覚えていたね」


 隣家に住んでいる女だった。物音を聞きつけてやってきたのだろう。はだけた寝巻きがあだっぽい。


「まさか、じいさんの亡霊から金を返してもらうわけじゃないよね」


 ユーマは返事をしない。その背後には小さな寝息がある。


 女はうろたえたように立ちつくしていたのだが、状況に思いいたり目をむいた。下方から照らす明かりが、その顔を醜悪な妖怪のように見せている。


「そういう事情か。ちょっと待ってな」


 生垣の向こう側をランタンが走っていった。むかいのアパートに照明が灯る。


 ユーマは片目を閉じて、その場に佇んだ。相手が武器をもってくれば、ランタンを叩き落として頭をかち割るつもりだった。片目を閉じておけば、暗闇のなかで先手を取りやすい。老人からの忠告がなければ、とっくに撃ち殺していただろう。ゴミ山での生活は、彼の生き方を支配していた。


 女がもどってきた。手には、くすんだ青色の布がある。


「使いな」


 女は布を窓枠にかけた。化粧をしていないと案外、人の好さそうな顔をしていた。


「やるよ。じいさんのニオイがしみついちまって、売り物にならないんだ」


 返事も待たずにアパートへと帰っていく。


 ユーマはスパナをポケットの底に落として、手汗をズボンでぬぐった。緊張していた筋肉がようやくゆるんだ。


 もらった織り布を窓の外にだして、気が済むまではたいた。叩けば叩くほど埃が出て、効果があるとは、とうてい思えない。むかいにあるアパートの窓を透かしていた明かりが、やがて暗がりに沈んだ。空間がしいんと音を発していた。


 弟の隣に寝転ぶと、ユーマは布で体をくるんだ。たった一枚の布だが、二人の体をおおうには充分な大きさだった。布は、温かくも煙草くさい。しばらくは、くしゃみが止まらなかった。ユーマは寝つくまでのあいだ、明日からどうやって生きていくのかと考えつづけた。

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