第9話

崇子は圭介達に混じって食事を始めたB01を見詰めながら、ワインをグラスに注ごうとした。

「崇子姉~。何よー。手酌なんて寂しい事しないでよー。私が注ぐからー」

 響子がワインの入った瓶をひったくるように奪うと崇子のグラスに注いでくれる。崇子は笑顔になりながらすまんな、と言葉を返した。B01は崇子達に触れさせた触手よりも二倍くらい太い触手をやはり体の先端部分から伸ばすとそれで吸い込むようにして食物を食べていた。崇子はB01の体を検査したい、という衝動を感じたが、すぐにその衝動を打ち消した。頭の中に浮かんだ検査という言葉が、別の内容を脳裏に呼び起こした。このままB01を海に帰せば、実験対象は青と圭介の二人だけになってしまう。崇子はだが、と思う。B01は諸刃の剣だ。また暴れだしたら今度は圭介を巻き込んでしまうだろう。青も圭介も宿主の中にいる間は、B01ほどの脅威とはなり得ない。実験云々はできる範囲でやればいいのだし、諦めても別に構わない物なのだ。後は自分が……、二人を守っていけばいいだけの話だ。響子との仲も良好に復活した今ならそれも容易い。崇子は響子のどうぞー、という声に笑顔を返してグラスに口を付けた。

「崇子さん。山戸谷陸候補から電話が入ってます」

 閉じられたいたドアがノックされ、続いてそう告げる声が聞こえて来た。崇子はソファから立ち上がるとすぐに行く、と返事をしてドアに向かった。

「崇子姉、どこ行くのー?」

 響子の能天気な声が聞いて来る。崇子は圭介の方を見てから響子の方に顔を向けた。圭介も心配そうな顔をして自分を見ていた事に喜びを感じつつ、二人に答えるように言った。

「ただの電話だ。すぐに戻る」

 響子がぶー、ぶー、とブーイングの声を上げる。崇子は笑いながらなんだそれは、と言葉を残して、部屋から外に出た。ドアを後ろ手で閉めると呼びに来ていた女性職員が心配そうな顔を向けて来た。

「あの、B01は大丈夫ですか?」

 崇子は仕事用の笑顔を女性職員に向けた。

「状況の掌握はできている。すまないな。心配をかけて」

 女性職員が安堵の表情を見せる。崇子が軽く一息ついてからどの電話だ、と言うと女性職員が先に立って歩き出した。

「圭介のチェックは続けているな?」

 崇子は歩きながら女性職員に問う。

「はい。異常はないです。ずっと安定していますよ」

 崇子はそうか、とだけ答えた。乱雑に物の置かれたねずみ色の机の前に来ると女性職員が白色の電話機を指し示した。

「これです」

 崇子が受話器を取り上げると、女性職員が保留ボタンを押してくれた。崇子が笑顔を向けると女性職員が会釈を返してから歩き去る。崇子は女性職員の後姿を見詰めながら受話器に向かって声を発した。

「私だ。動きがあったか?」

 山戸谷の声が返って来る。

「悠長だな。どこに行ってた? 何度も携帯電話に連絡をしたんだ」

 崇子は携帯電話の電源を切っていた事を思い出した。

「すまん。少し休養をしていてな。電源を落としていた。緊急の用件なのか?」

 受話器越しに山戸谷の重苦しい雰囲気が伝わって来た。

「そうだ。君の予測は当たらずも遠からずだった。米国の大使館から正式に申し入れがあった。米国籍の民間人二人が我国の自衛隊関係者と思われる人間に拉致されたようだ、とね」

 崇子はにやりと笑みを浮かべてしまった。

「ほう。面白い事を言うな。証拠は握られているのか?」

 山戸谷が言う。

「もちろんだ。写真が送られて来たよ。君の家の駐車場。ここまででどんな写真かは分かるだろう」

 崇子は声を上げて笑った。

「やってくれるじゃないか。先方は二人と言ったのだな?」

 ああ、という山戸谷の答え。崇子は言葉を続けた。

「一人はもう解放している。それに、青は米国に籍を置いている訳じゃない。……、などと言っても意味はないのだな。先方はやる気なのだろう?」

 山戸谷が深い息をついた。息のつき方から紫煙をはいているであろう山戸谷の姿が頭の中に浮かんだ。

「時間の問題だ。安保条約の破棄からこのかた向こうさんはこういう機会をことごとく利用しようとしてるからな。上の方に掛け合っているが、いい方向には転ばないぞ」

 崇子は静かな声で言った。

「ブロワーの破棄。そこまで話は行きそうなのか?」

 自衛隊の連中には、ブロワーに研究価値、利用価値があると再三に渡ってアピールをしているが、それに対する答えは期待通りの物ではなかった。ともすれば、厄介者的な扱いさえ受ける時があった。山戸谷がまた息をつく。

「可能性は高いな。B01の暴走。B02の逃亡。犠牲者も出ている事だ。間違っても向こうさんに引き渡せ、などとは言わないだろうが、ね」

 崇子は深い息をついた。決断の時か、とぼんやりと考える。

「山戸谷。世話になった。私はあれらを連れてここを出ようと思う。ここに来て、昔のスポンサーとの仲が戻ってな」

 山戸谷が笑い声を上げた。皮肉のこもった物ではなく快活な笑い声だった。

「全く君は、決断が早いな。君には私も世話になっている。私にとってはブロワーには利用価値があったからな……。この辺が潮時かも知れない。時間は稼ごう。だが、それほどは稼げない。未確認だが、米軍の部隊が動き出しているとの情報もある。今、そこが襲われても、自衛隊はいい形で介入しない公算が高いぞ。我関せずはこの国の十八番だからな」

 崇子は笑い声を上げてから言葉を出した。

「後始末を遅らせる為の時間稼ぎか。全く、四面楚歌だな。どちらにしても急ぐさ。ありがとうな、山戸谷。また酒でも飲みたい物だよ」

 山戸谷がああ、と言ってから言葉を紡ぐ。

「折角親子が再会を果たしたんだ。君には、君の望んでいるような時間を過ごす権利がある。死ぬなよ」

 崇子はふっと短く息をついた。

「らしくない事を言う。ではな、山戸谷」

 崇子が別れを告げるとああ、と山戸谷が言い通話が切られた。崇子は足早に応接室に向かった。応接室のドアが見えて来たが、ドアの前には響子が立っている。ドアに寄り掛かるようにしていた響子が崇子の姿を認めると声を上げた。

「崇子姉。外の警備をしてる部下から連絡。黒ずくめのどっからどう見ても特殊部隊が一小隊だって。どうする?」

 響子の話す様子はこれからどこかに遊びに行く? とでも聞いているような軽いノリ。崇子はこの年端もいかない娘を見て、末恐ろしいな、と素直に思った。

「お前の部下だけで相手をできるか? できるなら、その間に脱出したい。世話を掛けるが、そっちの手配も頼みたい」

 響子が詰まらなそうな顔になった。

「あ~あ。折角の夜が台無し。崇子姉と楽しく過ごしてたのに。ねえ、崇子姉。崇子姉の言う事聞くから、その代わりに」

 響子が崇子の様子を伺うように一旦言葉を切る。

「その代わりになんだ? お前の協力がなければ何もできない状況で非常に心苦しいが、そろそろはっきり言っておこう。お前の気持には答えられないぞ」

 響子が綺麗な瞳をこれでもか、と見えるくらいに目を大きく開いた。

「た、崇子姉……?」

 崇子は右手で結って上げている髪の尻尾部分を触った。

「お前の気持にはずっと気付いていた。お前は圭介ではなく私の事が好きなのだろう?」

 響子が動揺を露にする。流石に面と向かってふられる状況は十三才にして大上財閥の当主となっている傑物でもショックを受けているらしかった。響子がすぐに表情を変える。先ほどまでは呆けたような顔だったのだが、引き締まって鋭ささえ感じる顔付きになった。

「崇子姉。やっぱり崇子姉は格好いいよ。私だったら、嘘付くって。この状況でそれはない。上手くごまかして私を利用すればいいのに。ねえ、崇子姉。私ずっと崇子姉がここに居る事知ってたんだ。今日、私が現れたのは偶然じゃないの。崇子姉に危機が迫ってるって分かったから来たんだよ。それも、崇子姉達が危機に陥ってからね。そんな私が崇子姉にふられたら、協力すると思う?」

 崇子は、心の底から愉快になった。危機という物は楽しむ物だ。真っ向から受け止め、そして、その危機を乗り越える為に戦う。危機に飲み込まれ、自暴自棄になったり、塞ぎこんでしまったらそこで全ては終わりなのだ。崇子は今までそうして生きて来たし、これからもそうするつもりだった。

「協力はしない、か。それならそれで構わんさ。響子。巻き込まれない内に家に帰れ。今ならお前が受ける被害は少ないだろう」

 響子がきゃあぁーー、とどう見ても、どう聞いても、怪しいタイプの悲鳴を上げた。思わぬ反応に崇子は怯んでしまう。

「ど、どうした?」

 響子がうっとりとした、十三才にしてやけに艶っぽい視線を投げて来た。

「崇子姉……。ごめんなさい。やっぱり諦めれない。だって、格好良過ぎるんだもん。ねえねえ、崇子姉。キス。キスだけならいいでしょ?」

 崇子はうっかり頷き掛けて慌てて首を左右に振った。

「だめだ。私達は女同士だ。それは、そういう人間もいるだろう。そういう人達を否定はしない。だが、私は別だ」

 崇子は滅多にない事に動揺していた。響子がにま~と、顔を覆いたくなるような恐ろしい笑みを顔に浮かべる。

「崇子姉。そそる。その素人っぽさがたまらん。じゃ、じゃあ、軽いキス。ちょっとだけ。ほんとにちょっと。唇にほんっとに少しだけ触れるだけの奴。だめ? ねえ、だめ?」

 響子の表情が途中から懇願を語り始める。崇子は思ってしまう。かつて、男としか付き合った事はないが……、ここまで自分を求めて来てくれた者があっただろうか? と。響子の懇願は全くテンションの高いままに続く。

「崇子姉。もう、ほんっとに少しだよ。少しちゅってさせてくれたら、なんでも言う事聞く。今商談中のプルトニウムを使って戦術核を作って使えって言われてもやっちゃう。凄いでしょ? 戦術核だよ? 東京とか、ニューヨークとか吹っ飛んじゃうんだよ? 崇子姉の唇にすこーしだけちゅってしただけでだよ? だめ? だめ?」

 崇子は心臓がどきどきと大きく脈を打ち始めているのに気付いた。ああ。このどきどきは……。崇子は最後にこんな風に心臓がどきどきした時の事を思い出した。それは、圭介の父親となった男との思い出だった。崇子は顔が火照るの感じた。

「す、少しだけ……か? ほんっとに少しだけだな……。す、す、少しだけなら……」

 崇子が響子の押しに負けて、というか、雰囲気に飲まれてどきどきしていたのだが、そんな言葉を言ってしまった瞬間。目の前の響子がぎらんっと獣化した目を向けて来た。崇子は本能的に体を横にずらしていた。風切り音さえ聞こえて来そうな勢いで響子が横を擦り抜けて行った。崇子は自分の斜め後ろに行ってしまった響子の方に顔を向けた。

「きょ、響子。お前、その勢いはおかしいだろ?」

 自分でも言っていてどうなのだ? という言葉が口をつく。振り向いた響子が狂眼と化した目を向けて来る。響子が某漫画のキャラクターのように両手を下にだらりと垂らしノーガードの体勢でゆっくりと迫って来る。

「崇子さん、大丈夫ですか? をしてるんです? 何やら変な会話が聞こえて来てるんですが」

 閉じられた応接室のドアの向こうから三鷹の声が聞こえて来た。崇子ははっとして我に返った。今は、こんな事をしている場合ではないのだ。

「響子。分かった。卑怯な物言いだが、事が終ったら、という事でどうだ? 今は一刻を争う事態だ」

 崇子の言葉に響子が反応する。姿勢も目付きもそのままに口だけが動く。

「平気。実はもう迎撃命令は出してあるの。家の方にも連絡済。すぐに船も来る。ここは港が近いでしょ。あっという間だから」

 確かに、この施設からは港が近い。五百メートルも目の前にある県道を行けば、大型のタンカーが係留されている港があった。崇子は声を上げた。

「三鷹。皆に伝えろ。私がいいと言ったら部屋から出るんだ。そのまま港まで行く。B01を海に返す。敵対勢力との接触が予想される。そのつもりで準備もだ」

 三鷹がすぐに応じて来る。

「はい。了解です。状況を教えて欲しいのですが?」

 崇子はちょっと待ってろ、と答えてから響子に向けて言葉を出した。

「響子。少しだぞ。私がこれ以上はだめだと思ったら無理やりにでもやめさせる」

 響子が交尾待ちの犬のような荒い息遣いをしながら答える。

「はふはふ。うん。はふはふ。分かった」

 響子が近付いて来る。その迫力に崇子は観念し切れずに言葉を作った。

「きょ、響子。いいか。これは私の意志ではないぞ。お前に強要されているから仕方なくするんだ。私の気持はお前に向いていない。いいな?」

 自分でも何を言っているんだ? となりながらも崇子は迸るように出る言葉の本流を止める事ができなかった。崇子の言葉を聞いて響子がうんうんうんと頷く。

「はふはふ。いい。はふ。それで。はふ。いいから」

 崇子はついに観念した。これも戦いだろうと。ならば、真っ向勝負。頭の隅で冷静な自分が、おい、それは違うぞ、と囁いている気がするが、そんな事は最早どうでもいい事と崇子は文字通り真っ向から響子のタコの漏斗のように伸びている唇を待った。響子の漏斗状になった唇が今正に崇子の唇を奪わんとした時、危急を知らせる女性の悲鳴が聞こえて来た。

「なんだ?」

 崇子は響子の事などすっかり忘れて、決して意図的ではなく、悲鳴が聞こえた方に向かって駆け出した。

「うにゃん? た、崇子姉! 何よ、なんなのよ~!!!」

 響子が喚きながら後ろからついて来る。

「すまん。何か起きたらしい。外の様子は分かるか? お前の部下を信用しているが、万が一にも浸入された、なんて事はないだろうな」

 崇子の言葉に響子が応じる。

「何言ってるのよ。ないわ、絶対にない。崇子姉がいた時と同じ訓練をさせてんだよ。あの地獄の牛頭馬頭も泣き笑いしちゃうような訓練なんだよ?」

 崇子はそれでも、と言ってから言葉を足した。

「連絡を取れ。大至急だ」

 響子が返事をする代わりに連絡を取り始める。

「響子よ。外、どうなってる?」

 そんな言葉に続いてうん、そう、ならいいわ、と相槌が続き、最後に引き続き警戒をという言葉が紡がれ会話が終った。

「こちらの損害は二人重症の一人軽症。向こうは全滅。ほら。大丈夫でしょ?」

 崇子は悲鳴が聞こえた地点が近いと知って足を止めた。そこは、応接室からぐるりと研究施設を回り切った裏側の部分、階段の出入り口付近だった。

「響子。お前はそこで待っていろ。外の状況の把握と船の進行状況を確認しておけ」

 響子が拗ねた声を出す。

「え~。私も」

 崇子は響子の口を右手で覆った。響子がこの場に似つかわしくない、あふん、という妖しい声色の声を出した。

「静かにしろ。そこのドアの後ろだ」

 崇子は階段とこの部屋を隔ているドアを注視した。視覚と聴覚を研ぎ澄まし集中するとかすかに声が聞こえて来た。

「抵抗するな。この部屋の中にブロワーが三体揃っているんだな?」

 男の声が言い、無言の後にまた声が続いた。

「抵抗すれば射殺する。そうだ。大人しくしていればお前達は殺さない」

 響子が崇子の右手に手を掛けて来る。崇子はそっと響子から右手を離した。

「崇子姉。誰かしら?」

 崇子は呟くように答えた。

「分からんが。あるとすれば、自衛隊員だ。山戸谷の掌握している部隊が来ていたはずだが、数人くらいなら毛色の違う奴らが混ざっていても不思議じゃない」

 響子が崇子の横に並んで来る。

「どうする? 私の部下を呼ぶ?」

 崇子は小さく首を振った。

「いや。外の方が問題だ。所詮は実戦を知らない小僧どもだからな。私一人で」

 崇子が言葉を続けようとした時、ドアの中から大声が聞こえて来た。

「やめろ。抵抗はするなと」

 ドアか壁か。人体が強烈な勢いでぶつかったと思しき鈍い音が鳴る。

「やめろと言ってるのが分からないのか」

 崇子は反射的に走り出していた。ドアノブに手を掛けたその時、銃声が二回轟いた。崇子は構わずにドアを開けた。階段から続く廊下の床の上に白衣の女性が倒れていた。うつ伏せに倒れている背中に赤黒い染みが二つ見える。崇子は視界の隅に入っていた自衛隊員を急襲した。初めて人を撃ったであろう自衛隊員は隙を突かれなんの抵抗もできずに崇子によって床の上に倒される。拳銃を取り上げ、左腕の関節を決めた。

「響子。早くしろ。その女の救護を」

 顔が見えないので名前が分からなかった。髪型や服装で見分けられるほどに崇子は研究所の職員に関心を持ってはいなかった。響子がすぐに連絡を取り始める。崇子は自衛隊員の頭を床に叩き付けて気絶させると女性の側に行き、そっと抱え起こした。顔を見てはっとする。先ほど、山戸谷からの連絡を取り次いでくれた女性だった。顔を見ると名前がすぐに浮かんで来た。

「しっかりしろ。傷は浅い」

 崇子が声を掛けると女性が閉じていた目をゆっくりと開けた。

「崇子、さん?」

 崇子は頷いた。

「そうだ。崇子だ。意識は大丈夫だな。何も話すな」

 崇子の言葉を無視して女性が口を動かす。

「敵は一人だけで行動していました。一階からずっと追って来たんですけど、すいません。やっぱり素人じゃだめみたいです」

 崇子は知らずに大きな声を出していた。

「どうして、そんな事を……」

 女性が微笑する。

「崇子さんの過去、皆知ってますよ。圭介君の事だって。崇子さん達が今どういう状況にあるのか、それだってだいたいですけど、知ってました。だから、少しでも力になれたらって」 

 女性が吐血した。崇子は、自分の迂闊さを後悔した。自分の過去を隠す、崇子はそんな事に気を使ってはいなかった。研究所の職員の前で三鷹や山戸谷と接している時、平然と昔の事や圭介、大上の事を話していた。研究所の職員は皆、山戸谷が手配してくれた者達。ブロワーという最大の秘密を開示している以上、それ以外に何も隠す必要はないと思っていたのだ。だが、まさかそれが、こんな事態を引き起こしてしまうとは……。

「自分の負った怪我の事くらい分かりますよ。これでも私は医師の免許持ってますから。崇子さん。他の自衛隊の隊員は大丈夫だと思います。うちの職員が一応見張ってます。何かあったら崇子さんに報告するようになってますから」

 また、そこで吐血した。傷口を見ると大量の血液が流れ出している。崇子は自分の着ていた服を脱いで傷口に当てた。

「大丈夫だ。お前は誤診している。死にはしない。しっかりしろ。私の顔を見るんだ!」

 女性は微笑をしていたが、その瞳が光を失い虚ろな物になって行く。女性の口が僅かに動いた。

「崇子さん。頑張って下さいね……」

 聞き取れるか聞き取れないかのか細い声で女性がそう言った。崇子は叫ぶようにして女性の名前を呼んだが、女性は虚ろになった瞳でどことも分からない世界を見詰めているだけだった。崇子は動かなくなった女性の首に指先をあてて脈を取ると深い溜息をついた。

「自分達の事しか考えていなかったよ。響子。すぐに出るぞ。ここにいると犠牲が増える」

 響子が応じる。

「了解。部下に連絡するわ」

 崇子が血染めの服を広げて女性の上半身を覆うように掛けてやっていると連絡を終えた響子が言った。

「崇子姉。そんなに落ち込まないで。この人は望んでやってくれたんだよ。相手が銃を持ってる事は分かってるんだから。死ぬ事だってあるって分かるよ。だから、ね、崇子姉」

 崇子は血染めになった服を見詰めていた視線を上げた。響子の顔を見据える。

「すまんな。分かるほどに顔に出ていたか。大丈夫だ。響子。お前に頼みたい事が増えた。やってくれるか?」

 響子が崇子の口から頼み事の内容が話される前に頷いた。

「いいよ。私にできる事ならなんだってするよ。ましてやそれが崇子姉にとって大事な人の命を助ける事ならね」

 崇子は階段の方に視線を向けた。

「警備の者達は一階にある警備室に詰めているはずだ。恐らくそこに行けば何人か、職員もいるだろう。まずは、警備室の掌握。敵対勢力とみなした者の排除と協力者の救出だ。それが済んだら私達の脱出と、ここにいる全職員の退避。彼らの身の安全の確保、頼めるか?」

 今更、と思いつつも崇子は響子に頼み事の内容を告げた。響子が口を開いた。

「りょーかい。私は警備室の方に行くわ。崇子姉は圭介達の方を」

 崇子は響子の方に顔を向けた。

「平気か? 自衛隊員の中に後何人いるか分からんぞ」

 響子が頷く。

「そうね。でも心配ないわ。ちゃんと部下を連れて行くから」

 崇子は響子の瞳を見詰めた。響子の瞳が微かに揺れる。

「崇子姉……」

 どこか湿り気を帯びて浮ついた、吐息を漏らすような声が響子の口から漏れた。崇子はその声色に苦笑してしまった。

「もっと緊張して事にあたれ。私も圭介達を連れてすぐに行く」

 崇子は響子の表情が残念無念という言葉を発しているのを横目で見ながら踵を返すと応接室に向かった。部屋の間仕切りが作っている角を曲がると、三鷹が駆けて来るのと行き合った。

「崇子さん。銃声が聞こえましたが、大丈夫ですか?」

 崇子は足を止めずに三鷹の横を通り抜ける。

「問題ない。一階の警備室に行くぞ。圭介達も連れて行く」

 三鷹が後に続きながら言葉を出す。

「自衛隊員ですか? 三人ほど、山戸谷さんの手じゃないのが混ざっていると考えてましたが」

 崇子が返事をする前に応接室の前についた。崇子はドアを開けながら言葉を返した。

「お前も三人と踏んでたか。その件について対策を講じておくべきだったよ。美輪紀子が死んだ」

 三鷹が息を飲んだのが背中越しに伝わって来る。

「相手はどうしたんです?」

 崇子は部屋の中にいる全員の姿を確認してから言った。

「武装を解除してから意識を奪った。三鷹。研究所の職員の退避と武器の調達だ。回り終わったら警備室前に来い」

 三鷹がはい、と返事をして応接室とは別の方向に駆け出して行く。崇子は圭介達に向かって声を出した。

「皆、これより、B01を海に帰す為の行動を開始する。私に続け」

 圭介が不安そうな顔をしながらすぐに立ち上がる。B01が触手で持っていた皿をテーブルの上に置いた。青が立ち上がったと思うと軽やかに三メートルくらいあった距離からひとっ飛びで崇子の側までやって来た。

「銃声が聞こえたぞ。何があった?」

 崇子は圭介を呼んで側に来させてから青の問いに答えた。

「私達の行動には支障を来たさない。大丈夫だ。急ぐぞ」

 崇子は言葉を切ると青とB01を見た。

「一階の警備室に行く。ついて来い」

 崇子達がエレベーターの前まで来るとエレベーターが上昇して来ていた。下向きの矢印が印字されているボタンを押すとエレベーターの到着を待つ。五階で階表示が止まり、ブーンという音がしてエレベーターの扉がゆっくりと開いた。中には響子が一人で乗っていて崇子の顔を見るなり口を動かした。

「崇子姉。あれの仲間は二人だったわ。警備員室を見張っててくれた職員は三人。そちらは保護済み。私の部下が車に移動させてる。それから、自衛隊員なんだけど」

 響子が言葉を切って崇子の瞳をじっと見詰めて来る。崇子はなんだ? とすぐに言った。

「負傷者が二人。私達が行ったら、もう、二人は拘束されてたのよ」

 崇子は山戸谷の顔を脳裏に浮かべながらエレベーターに乗り込んだ。

「皆乗れ」

 圭介達が乗り込むのを待って、地下一階のボタンを押す。エレベーターが動き出した所で崇子は携帯電話を取り出した。着信履歴を開き三鷹に電話を掛けた。

「三鷹か。警備室の状況は終了した。地下一階の駐車場だ」

 三鷹の返事を待って通話を終らせると崇子は響子に向かった。

「自衛隊員達はどうしてる?」

 響子が嬉しそうな笑みを顔に浮かべた。

「ここに残るって。誰か来たら崇子姉達がまだここにいる振りをして時間を稼ぐだってさ。ちょっとじーんってなっちゃった。怪我をしている人まで、大丈夫であります、とか言っちゃってて」

 崇子は目を細めて頷いた。心の内に熱い物が込み上げるのを感じた。自衛隊員には山戸谷からの指示が出ているのだろう。それと、自分達の部隊から裏切り者が出てしまった事もあるのかも知れない。実戦を経験した事のない者達が初めての殺し合いに遭遇したのだ。それでも、逃げ出さないでここに留まり、尚且つ、孤立無援になるのが分かっていてここに残ると言っている。崇子は高揚のあまり、自身の顔に笑みが浮かんでいるのに気付いた。その笑みは決して圭介には見せたくない類の残忍さを含んだ笑みだ。崇子は表情を引き締めると響子に向かって言った。

「そうか。彼らには感謝をしないといけないな。ここは彼らに任せて私達は急ごう」

 崇子の言葉に響子が了解、と応じた。崇子の右手を握っている圭介の手に力がこもる。崇子が圭介の顔に視線を向けると圭介が悲しそうな顔をぎこちない笑みの形に変えた。崇子はゆっくりと頷いた。圭介も分かるのだろう。彼ら自衛隊員が、誰の為に戦おうとしているのかが。エレベーターの下降が止まり、階表示のB1という刻印が明るく光ってから扉がゆっくりと開いた。崇子と圭介が先に外に出て、響子達三人が後に続く。ここから地下駐車場までは、今いる廊下を左に向かって行けばすぐだ。恐らくそこに三鷹もいるだろう。三鷹と合流して響子の部下の車に乗れば、次は港だ。崇子は気を更に引き締めて、これから続くであろう闘争の渦の中に身を投じる覚悟を新たにした。

駐車場に入るドアの前まで来ると三鷹が防弾装備に身を固めて待っていた。人数分の防弾装備を一人一人に手渡し終わると銃器を渡してくれる。

「崇子さん。チェイタックとアナコンダです。後、これ」

 最後に三鷹が渡して来たのは刃部分が六十センチほどあるククリだった。響子がそれを見て横から声を挟んで来た。

「崇子姉、それってまだ持ってたんだ」

 崇子はアナコンダが二丁挿されているフォルスターを装着し、背中に鞘に付いているストラップを使ってククリを装着した。

「ああ。と言ってもこの頃は抜いていないが」

 三鷹が青と圭介にも銃を渡す。崇子はその間に素早く武器の確認を行った。弾倉を開けてから装填をして、最後にククリを鞘から抜いた。刀身部分は電灯の光を反射して銀色に輝いていたが、使い込んでいる事を示すように数箇所に傷があった。崇子は刃部分を舐めるように見てからククリを鞘に戻した。

「おじいちゃんも喜んでるわよ、きっと」

 響子が言った。崇子は響子の祖父、大上一蔵の顔を思い浮かべた。豪快で我侭で理不尽な命令も一度ならずして来たとんでもない男だったがどこか憎めない所があった。このククリは一蔵がネパールに旅行した時に崇子の為にと買って来てくれた物だった。

「喜ぶ、か。そうだといいが。なんといっても私は一度大上を裏切っているからな」

 響子が何かを言おうと口を動かし掛けたが、駐車場に至るドアが不意に開かれたので響子の言葉は口には登らなかった。

「響子お嬢様。お待ちしておりました」

 黒スーツの屈強な男二人が響子の姿を見付けると、緊張を解く。手に持たれていたMP5の銃口が素早く下に向けられた。

「ご苦労。職員達の方はどうなったの?」

 響子が三鷹の方を見てから黒スーツの男達を見た。

「お連れ頂いた方達は全員収容を完了しました。崇子という名前の方はおられますか?」

 響子が小首を傾げてから崇子に視線を向けて来る。崇子は私が崇子だが、と返事をした。

「これを」

 と男が極小サイズのノートパソコンを差し出して来た。

「収容した中の一人が崇子さんに渡して欲しいと言っていました」

 崇子はそれを受け取るとすぐに合点がいった。圭介の監視用のノートパソコン、それのソフトを移しておいてくれたのだろうと。

「すまんな、ありがとう」

 崇子はそれを受け取ると、防弾着の胸ポケットにしまった。

「準備終りました。行きましょう」

 三鷹が声を上げた。崇子は圭介、響子、青、B01と順番に全員の姿を確認した。B01は青に抱かかえられるようにして持たれていた。崇子は思わず聞いてしまった。

「青、それはなんだ?」

 青が大げさに疲れた顔をして見せる。

「歩くのが遅いから途中から私が持って来たんだ」

よろよろと弱々しい動きで、B01から一本の触手が崇子に向かって伸びて来る。響子の部下二人が今更ながらに、B01の姿を見て動揺し、更にその奇怪な物体から伸びる触手を見て困惑する。響子が二人の部下を嗜めている間にも触手が崇子の手に触れて来た。

「ごめんなさい。私動きが遅いのね。それと、がくがくと揺られるから酔ってしまったみたい」

 崇子は大丈夫なのか? とB01に脳内で言葉を返した。

「頑張るわ。ありがとう」

 崇子は言葉を口から出した。。

「礼を言うのは無事に海に帰ってからにしろ。ここからが本当の勝負だ」

 返事をよこさないで触手が崇子の手から離れて行く。崇子は構わずに口を開いた。

「車は三鷹が運転しろ。一台でここの全員は乗れるな?」 

 響子が頷いた。

「平気よ。あっ。そうだ」

 響子が男達に声を掛ける。

「船はどうなってるの?」

 男の内の一人が返事をした。

「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦が一隻こちらに向かっています。到着は恐らく一時間後くらいかと」

 響子が落胆を顔に浮かべた。

「崇子姉。一時間だって」

 崇子は頷いてから口を動かした。

「それは、待った場合だろう。こちらから出向けばそこまでは掛かるまい。港で船を調達すればいい。いい船がなければ、一時間凌げばいいさ。大した苦労はあるまい」

 崇子の言葉に響子の顔が緩んだ。

「そっか。さっすが崇子姉」

 崇子は笑みを響子に向けてから口を開いた。

「行くぞ」

 崇子の言葉に従って皆が移動を開始した。

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