第8話

目覚めると、崇子の顔がすぐ横にあった。圭介は崇子の顔を見詰めながら静かに息をついた。お母さんと一緒に寝たのは初めてだ、と嬉しくなりながらもう一度寝ようと目を閉じようとする。ドアがノックされる音が聞こえて来た。圭介はドアの方を見てから、崇子の方を見た。ぐっすりと寝ているであろう崇子を起こしてしまうのは気が引ける。だけれど、ノックして来た相手を無視するのもだめだ。圭介は崇子を起こさないようにとそっとベッドから下りる事にした。体を掛け布団から出そうと僅かに動かした所で、崇子の声がした。

「圭介、誰か来たの?」

 圭介は頷いた。

「お母さんごめん。起こしちゃった」

 崇子が優しい笑みを浮かべた。

「いいよ。平気。よく寝れたから。圭介はそこにいて私が出るわ」

 圭介は少し迷ってから頷いた。

「うん」

 崇子がベッドから下りて行く。圭介は崇子の背中からドアの方に視線を向けた。崇子が無言のままドアを開けるとそこに立っていたのは、なんとあの時、圭介を襲った、確か青と呼ばれていた女性だった。圭介はその姿を見た瞬間に体が硬直してしまった。

「どうした? 何かあったか?」

 崇子が全く動ぜずに言った。青がそっけなく言う。

「どうもしない。響子にお前らを呼んで来いと言われただけだ」

 女性はそれだけを言うとくるりと体の向きを変えた。崇子が言う。

「おい。どういう事なんだ?」

 女性が振り向くと如何にも面倒だ、というように言葉を出した。

「圭介のお祝いするんだろ? だからだよ。早く来い」

 崇子が圭介の方を見た。青がいる事がなんでもない事のように微笑を顔に浮かべる。

「圭介。準備ができたみたい。行きましょ」

 圭介は歩き去って行く青の後姿を見詰めた。

「う、うん」

 崇子がいるお陰ですぐに落ち着けたが、視界の中に青がまだいるので、おっかなびっくりベッドから下りた。

「まあ、待て。どうせなら一緒に行こう」

 崇子が青に声を掛ける。圭介は、うっと思ったが、崇子に言われた言葉を思い出して頑張った。崇子の側に行くと、崇子が歩き始める。青は崇子の声を聞いて歩く速度を少し落としていた。

「圭介。彼女の名前、知ってる?」

 圭介は小さく頷いた。

「青、さん?」 

 崇子が頷く。

「そう。青よ。知ってるならいいわ」

 全てが大きな部屋の中に間仕切りによって作られている部屋なのであっという間に圭介の身長ほどのケーキが置かれている場所についた。応接室、と書かれているプレートの掛かっているドアの横を通って部屋に入ると響子という女の子と三鷹がクラッカーを鳴らした。

「圭介君、おめでとう」

「圭介おめでとう」

 クラッカーの音に続いて二人が同時に言う。クラッカーの音で頭を抱えてしまった圭介は二人の声で顔を上げた。崇子が笑顔を見せて口を開いた。

「響子、凄いケーキだな。ありがとう。三鷹、この演出はお前の案か?」

 響子がにへへへ、と変な笑い声を上げて、蕩けるような笑顔を見せる。三鷹がはい、と返事をした。

「青さんをお二人の迎えに、というのはお嬢様の考えです。大丈夫でしたか?」

 崇子が頷く。

「大丈夫だよ。ちゃんとやってくれたさ」

 圭介は慌てて青の姿を探した。何時の間にか視界から消えていた青は、テーブルを挟むようにして置かれている一対のソファの圭介のいる場所、ドアを背にして見て、右側に座っていた。圭介は青の姿を見付けて安堵を感じた。崇子の言葉で頑張ろうと思ってはいるが、やっぱり警戒してしまう。近くにいる時は、常に相手の場所を把握していないと安心できそうになかった。

「圭介。ほんとによく目覚めてくれたわね。お母さんはとても嬉しい。これからは、ずっと一緒よ」

 圭介は崇子の言葉に笑顔で頷く。

「うん。一緒。えっと、響子さん、三鷹さん、ありがとうございます」

 崇子が圭介の言葉に嬉しそうな笑顔を見せる。響子がちょっと驚いた顔をしてから言う。

「いいのよ。私だってあなたに会えて嬉しいんだから。頼まれなくたって、何かしらはやったわ。ねえ、圭介。響子さんはやめて欲しいわね。響ちゃん、でいいのよ。あなたは覚えていないかも知れないけど、昔そうやって呼んでたんだから」

 圭介は束の間、響子の顔を見詰めてからえっと、慣れるまでは響子さん、でいいですか? と聞いてみた。響ちゃん、といきなり呼ぶのは恥ずかしかった。響子が少し困ったような顔をしてから、よろしい、と言って、にこっと笑った。三鷹が口を開く。

「圭介君。日常に慣れるまで大変だと思うけど、何かあったら何時でも言ってくれ。君の力になるよ」

 三鷹がにかりっと笑う。圭介は笑顔でありがとうございます、と答えた。三鷹がうんうんと三回頷いた。崇子がケーキの側に近付いた。

「おお。酒といい肴もあるじゃないか。響子、気が利くな」

 圭介が崇子の言葉に反応して視線を動かすとケーキの後、テーブルの上に何やら皿やらグラスやらが置かれているのが見えた。

「当たり前よ~。崇子姉の事は全部分かってるんだから」

 崇子姉~、と大きな声を上げなら響子が崇子目掛けて諸手を上げて走り寄って来る。崇子が笑顔で響子を受け止めた。

「褒めて褒めて」

 と響子が崇子に抱き付いて言う。崇子が苦笑しながら響子の頭を撫でる。

「くふう。崇子姉~」

 満足そうな声。三鷹が圭介に声を掛けて来る。

「圭介君。ささ、座って」

 圭介がはい、と言いながら青の方を見ると青は詰まらなそうな顔をしながら天井を見上げていた。

「圭介君、青さんの隣がいいのかい?」

 圭介の視線に気付いたのか三鷹がそんな事を言った。圭介は慌てて首を振りそうになったが、押し留めた。

「えっと」

 三鷹がにこりと笑う。

「気持は分かる。だめかな?」

 圭介はしばし考えてから返事をした。

「頑張ります」

 三鷹が真面目な顔になった。

「流石は崇子さんの息子だ」

 三鷹が圭介の肩に手を回して来る。三鷹と二人してくっ付いたまま青の横まで行った。側に行くと青が目を細めて見詰めて来る。

「なんだ?」

 三鷹が言う。

「横、いいかい?」

 青が自分の横を見る。

「座るのか?」

 三鷹が頷いた。

「圭介君」

 圭介は青の顔を見詰め返しながら言葉を出そうとした。青がふんっと鼻を鳴らした。

「好きにするがいい」

 圭介は言葉を出す切欠を奪われ、何も言わずに青の横に腰を下ろした。ソファは三人掛けの物だったので三鷹が真ん中に座っていた青の左隣に座った。

「あっ。そうだ。青。あなた、何も言ってないわよね」

 崇子を向かい側のソファまで連れて来た響子が唐突に言った。青が顔を響子の方に向けると響子が言葉を続けた。

「圭介によ。お祝いの言葉とか、再会の挨拶とかあるでしょ」

 青の表情が不機嫌だ、と主張するように歪む。響子が更に言葉を続けた。

「あら、逃げるのかしら」

 青が強烈に鋭い視線を響子に向けた。崇子が静かに言う。

「響子。あまり我侭を言うな」

 青が崇子の方を睨む。崇子が口調を変えずに言葉を出す。

「すまん。余計な事だったか」

 青が口を開いた。鋭い視線が圭介に向けられる。

「圭介。美味いもんがたくさんある。好きなだけ食え」

 圭介はありがとうございます、と返事をしようとしたが、ぶぶーっと響子が噴出したのでまた言葉を出す切欠を失ってしまった。響子がけたけたと笑いながら言う。

「ちょっと、何よそれ」

 三鷹が失笑していた。崇子は真面目な顔をしていた。

「青。ありがとな。よし、始めよう」

 崇子の声に笑っていた響子がはいさーと返事をした。

「三鷹、皆のグラスに飲み物を」

崇子が口を挟んだ。

「アルコールの入っている飲み物は私と三鷹だけだぞ」

 響子がにやーんと微笑む。

「平気なの。今日持って来た飲み物は全部うちのオリジナル商品。ラベルには一切アルコール含有表示はありませんの」

 崇子が響子を睨んだ。

「響子。悪戯が過ぎる」

 響子がしょんぼりとしてしまう。

「崇子姉の意地悪」

 と言いつつ、グラスに飲み物を注ぎ始めた三鷹に何かを囁き始めている。崇子がそれを見て苦笑していたが、何も言わなかった。五人分のグラスに色とりどりの液体が満たされると響子がグラスの一つを持って立ち上がる。

「それでは皆、グラスを」

 それぞれが自分の前に置かれているグラスを手に取った。

「では、乾杯」

 響子が崇子のグラスにグラスを合わせるときーんと高い澄んだ音が鳴って、宴会が始まった。圭介は自分のグラスに口を付けた。入っているのは炭酸が泡を立てている黒色の液体。一口飲むと炭酸の刺激となんの香りかは分からないが、決して嫌ではない、むしろまた飲みたくなるような香りが口の中に広がる。甘さがあって、少しだけ苦味もある。圭介は一口飲んでから続けてこくこくと喉を鳴らして一気に飲んだ。グラスが空になると、圭介は無性にもっと飲みたい、という衝動に駆られた。グラスから注意を外し、おかわりをと周囲に目を向けると青以外は、崇子と響子と三鷹しかいないのだが、は、大声で何かを話、笑いあっていてとてもじゃないが、声を掛けられそうにはない感じだった。圭介はちらりと青の方を見た。青はグラスを片手に骨付きチキンを齧っていた。圭介は誰にも聞けない、と諦観すると自分のグラスに注がれた飲み物の入っている瓶を探す事にした。三鷹が座っていた付近を見ると数本の瓶が置かれているのを見付けた。圭介はグラスを持ったまま立ち上がった。テーブルとソファの隙間を歩いて、と足を出そうとして、すぐに足を引っ込めた。テーブルとソファの間は人が一人ぎりぎり通れるという微妙な隙間しかない。圭介の横には青がいる。三鷹は青の奥に座っていたのだ。圭介は青の前を通らなければ、しかも、声を掛けて足をずらしてもらわなければ通れない。後ろから回るというルートが存在するのだが、この時の圭介にはそこまで考える余裕はなかった。圭介はソファに座り直した。空になったグラスを見詰めたり、飲み物が入った遠くにある瓶を見詰めたりを繰り返しつつ、どうしようと考えた。

「飲み物か?」

 不意に声が掛かった。圭介は声のした方に顔を向けた。青の目と目が合う。圭介は青の目を見詰めたまま止まっていた。

「大丈夫か?」

 圭介は青の二の句ではっとした。慌てて頷くと慌てて言葉を出した。

「ありがとうございます。大丈夫です」

 青がそうか、と言って顔の向きを変える。圭介は青の横顔に言った。

「の、飲み物を、と、取りたいです」

 青が圭介の方に向き直る。

「どれだ?」

 圭介はやっぱり慌てて立ち上り歩こうとしてよろけてしまった。

「あわっ」

 どうやら足が縺れたらしい。目を瞑ったので視界が真っ暗になる。ぼふっと軽い衝撃があってから圭介は目を開けた。

「おい、大丈夫なのか?」

 青の声が間近から聞こえて来る。圭介がどうなったのかと視線を巡らせると自分が青に支えられている事が分かった。

「ごめんなさい」  

 言って圭介は慌てて青から離れようとした。後ろにさがろうとしたのだが、今度はふらついてしまう。

「おい。酔っ払ったのか?」

 青の声がして、また体を支えてもらう。

「あ~! 圭介と青がいちゃいちゃしてますぅー」

 響子の声が飛んで来る。

「本当だ。全く、親の見てる前で……。圭介、お母さんはそんな風に圭介を育てた覚えはないぞ。すぐに離れろ」

 崇子の声だ。真剣に怒ってるっぽかった。

「崇子さん。いいじゃないですか。あれぐらいのスキンシップは。若いんですよ二人は」

 三鷹の声。圭介は恥ずかしくなって、訳が分からなくなった。どうしていいか分からずにそのままの姿勢でいると青が言った。

「座っていろ。酒に慣れないんだろ。私が取ってやる。どれがいいんだ?」

 青によってソファに戻されると圭介は青の言葉に返事をした。

「えっと、これに入ってたジュース。黒い色のです」

 青が立ち上がって瓶の所に行く。一本の瓶を持ち上げる。

「これか?」

 圭介は頷いた。

「それだと思います」

 青が戻って来て瓶を渡してくれる。グラスに注いで飲むとさっきとは違う味だった。圭介は青が折角取ってくれたのだからと何も言わなかった。

「圭介。飲んでばかりいないで食べなさい」

 崇子が言う。圭介は頷いてから目の前にあったなんだか分からない白い物を取った。齧ってみると柔らかくて少ししょっぱくてでも美味しかった。そのしょっぱさがグラスに更に飲み物を注がせる。圭介は気が付けば青が取ってくれた瓶を空にしていた。

「青さん。何か飲み物をくらさい」

 口の動きが悪くなっている気がしたが圭介は気にせずに言った。

「お前、舌が回ってないぞ。飲み過ぎじゃないか?」

 圭介はそうれすか~と返事をした。

「おい、響子。アルコールの入ってない奴、どれだ?」

 響子の言葉が返って来る。

「どれも入ってないわよー。でも、それがいいわね」

 青が黙って響子の指差した瓶を取る。

「ほら」

 圭介は受け取るとそれを飲む。

「ありがとー、ございます」

 なんだか視界がぼんやりとして来る。

「なんなんだお前ら。圭介の面倒ちゃんとみろよ」

 青の声がした。続いて響子の声がする。

「あら。圭介の心配? 青ちゃーん、偉いー。でもでも、そう言うなら青ちゃんがみればいいんじゃないの?」

 崇子が言う。

「それはいい事だ。本当は私がべったりしたいのだが今は譲ってやろう。青、頼んだぞ」

 青が大きな声を出す。

「お前ら舐めてるだろ?」

 響子がやり返した。

「あーあ。もう降参ですか。青ちゃんは弱虫なのね。虫だけにほんとに弱虫とはこれ如何に。なんちって」 

 つまらん、と崇子が響子に突っ込みを入れる。

「青さん。私はこの二人で手一杯なので申し訳ないですが、圭介君をお願いします」

 三鷹が言ったらしい。青が不満そうな声色で言った。

「なんだそれは」

 圭介は青の方に顔を向けた。青の姿が右に左に揺れていた。

「あ、青さん。ごめんさい。覚えてないし、面倒までみせせて。僕は記憶がらくて。思い出せればいいのらけど」

 青が深く息をついた。

「圭介。お前の事は私の勘違いだったみたいだ。気にしなくていい」

 圭介は揺れている青を見詰めた。

「そうなんれすか? れも、あの時、触った時の事ろか」

 青が目を細めた。その視線は圭介ではなく向かいのソファにいる崇子達を見ているようだった。

「気の所為だったのだろう」

 青が顔を歪ませた。笑っているのか、怒っているのか、困っているのか分からない顔だった。

「お前はお前の好きに生きろ」

 青が中途半端な感じで言葉を納めてしまった。圭介は思わず言ってしまった。

「なんら変です。なんら隠してるみらい」

 青がつまらなそうな顔をした。

「酔って絡むのは最悪だ。覚えておけ。こいつらを見てみろ。酒はこうやって楽しく飲むのが礼儀だそうだ」

 圭介は動いた青の視線につられて崇子達の方を見た。

「崇子姉―! 結婚してぇ!!」

 響子が崇子を押し倒していた。

「ちょっと、響子~」

 酔いが回っているのか崇子が何時もの崇子らしくない。

「よいではないか、よいではないか。きひひひひ。もうこのまま私の物になるのですよー。積年の思い今こそ届け!!!」

 響子が崇子の顔に顔をぐぐっと近付けた。

「はいはい。お嬢様。やめやめ。圭介君が見てますよ。息子の前でお母さんが女の子に襲われるという複雑な状況は全く持って害毒でしかありません。とっと離れて下さい」

 言葉は丁寧だったが、三鷹が響子の頭をがっしと掴むと強引に引っぺがした。

「み~た~か~!!」

 響子が転がり落ちたソファの下から立ち上がると三鷹に襲い掛からんとばかりに身構えて言う。

「お嬢様。落ち着いて下さい。ほら、圭介君が」

 圭介は女性の声が聞こえた気がしてソファから立ち上がっていた。

「おい。どうした?」

 圭介の突然の行動に青が声を掛けて来た。

「今、何か聞こえら」

 圭介は反射的に神経を集中していた。耳を澄ませるようにして、自分でも分からない、器官のどこかを澄ましていた。

「圭介君。昼間の私です。あなたと話がしたいのです。地下まで来てくれませんか?」

 圭介ははっきりとその声を聞き、崇子の方に顔を向けた。圭介の動きとほぼ同時に部屋のドアがノックされた。

「崇子さん。B01です。脳波が検出されてます」

 ドアの開いた音がしてそんな言葉が聞こえて来た。すぐに崇子の声が出る。

「来たか。青」

 崇子の言葉に青が応える。

「なんだ?」

 崇子が言う。

「お前は何も聞こえないか?」

 青が即答する。

「何も聞こえない」

 圭介は、また聞こえて来た同じ言葉を声に出した。

「お母さん。女の人がこう言ってる。圭介君。昼間の私です。あなたと話がしたいのです。地下まで来てくれませんか? って」

 崇子が叫んだ。

「青。この会話に入れないか?」

 青が言う。

「何が起こってる?」

 崇子が青の側に行った。何かを耳元で囁くと青が顔を歪めた。

「圭介」

 青が大きな声を出して呼ぶ。圭介は青の顔を見た。

「手を握らせてくれ」

 圭介はなんだか分からなかったが慌てて手を差し出した。青が掌を掌の上に重ねて来る。柔らかくてひんやりしてる、などと圭介が思っていると青の声が先の女性の声のようにおかしな響きを伴って聞こえて来た。

「私はB02だ。B01聞こえるか?」

 崇子の声がする。

「戻ってB01の状態を再チェックしろ。全ての装置だ」 

 はい、と脳波の事を伝えに来た施設の職員が返事をする。

「B02……」

 また女性の声が聞こえた。青がすっと手を離した。

「崇子。繋がった。これで私とB01が話せる」

 青が目を瞑って微動だにしなくなった。

「青。何を話してる?」

 崇子の声。青の顔が醜く歪んだ。

「さあな。教える必要があるのか?」

 響子の声がした。

「青。今すぐにあなたを消却しても構わないのよ」

 青が目を開けて、歪んだ顔のまま言う。

「なるほど。いいぞ。そう来ると思ったよ」

 部屋の外から叫び声が聞こえて来た。

「崇子さん。地下の保管庫の庫内温度が上がっています」

 圭介は青の顔から崇子の顔に視線を移した。崇子が信じられない、といった表情をしていた。

「な、なんだと……」

 崇子が呟くと表情が引き締まった物に変わった。

「青。何をする気だ?」

 青が崇子を睨んだ。

「帰す。私達がいた場所へ。あれは、覚えているそうだ。自分達がどこから来たのかを」

 崇子が青の言葉を繰り返した。

「帰すだと?」

 青が頷く。

「ああ。あれは待ってたそうだ。自分の言葉を聞ける者が現れるのを。崇子にも何度も声を掛けたと言っている。だが、通じなかったそうだ」

 崇子が苦痛を受けたように顔をしかめた。

「響子。お前の力ならあれを輸送できるだろう?」 

 青が響子の方に視線を向けながら言った。響子が目を細めて青の顔を見返した。

「もちろん、なんだってできるわよ。けど、どういう事か説明して欲しいわね」

 青がふんっと鼻で笑った。

「説明か。ならば、あれから直接してもらおう」

 崇子が驚愕に慄く声を上げた。

「ここに来るのか?」

 青が崇子を睨んだ。

「ああ。来る。今すぐに」

 完全に混乱を来たしている声が部屋の外から聞こえて来た。

「エレベーターが動いてます。地下保管庫直通のエレベーターが動いてます」

 崇子と三鷹の声が上がる。

「何?」

「どうやって?」

 崇子がドアまで行くと叫んだ。

「戦闘準備」

 そこまで言った時、青が叫んだ。

「待て。戦う必要はない。あれは、戦いに来る訳じゃない。何もするな。大丈夫だ」

 崇子が振り向いた。

「何を言ってる?」

 青が言葉を返した。

「先も言っただろ。帰すんだ。あれにはもう戦う意志はない。元々、お前らがあれを戦わせたんだ。戦いを望んでる訳じゃない。大人しく待て」

 崇子が青を睨んだ。鋭過ぎる目付きは、圭介の知っている崇子の目付きではなかった。

「信じていいのか?」

 青が頷いた。

「ああ。私は仲間の望むようにしてやりたいだけだ。それを阻むというのなら話は変わるが」

 崇子がソファまで戻って来た。

「分かった。戦ってもいたずらに犠牲を出すだけか。私も話をしていいか?」

 青がソファに座った。

「ああ。構わない。圭介も話すか?」

 青が言葉を作った後に圭介の顔を見詰めて来た。

「え? どうして僕なの?」

 すっかり酔いの醒めた圭介は当然の疑問を口にした。崇子が口を動かし掛けてやめた。青がにやりと笑った。

「何が僕なの、だよ。そんな事はどうでもいいんだ。いい経験になる」

 圭介は青の言葉の意味が分かったような分からないような、変な気分になった。崇子が重い口調で言葉を出した。

「青、お前」

 青が崇子の顔を見詰めた。

「悪くない」

 崇子が不思議そうな顔になる。

「何がだ?」

 青が顔を歪めて笑った。

「圭介だよ。これでいいのかも知れない、と思った」

 崇子が驚いた顔になる。

「青……」

 エレベーターが到着しました、という声が聞こえて来る。三鷹がドアの側に行く。

「行きますか?」

 青が首を左右に振った。

「いいから待て」

 三鷹が不安そうな顔をした。

「でも」 

 凄まじい悲鳴が上がった。青が大音声で言った。

「何もするな。じっとしてればいい」

 もとよりこの部屋は大きな一つの部屋なので、地下三階直通エレベーターから応接室までは大した時間は掛からない。静まり返った部屋の中に、奇妙な音が聞こえて来た。それは例えるなら何か重い濡れた物を引きずるような音。ずっ、ずっ、という音がゆっくりと、だが、確実に近付いて来ていた。誰も何も言わずにドアの所を見詰めている。不意に、ドアの横から毒々しいほどに赤い色をした人間の胴体くらいの太さのある長い物が姿を出した。長い物は蛇のように鎌首をもたげて部屋の中にその先端を向けて来た。

「な、なんだこれは?」 

 崇子が声を上げた。

「これがB01?」

 三鷹が驚愕の声を出した。長い物が部屋の中に入って来る。長さは圭介達が座っていた三人掛けのソファよりも僅かに長いくらい。ドアから部屋の中に入ってすぐの所で歩みを止めると長い物の先端部分から細い触手が三本伸びた。一本一本が空中を泳ぐように動きそれぞれ、崇子、三鷹、響子の方に向かって行く。

「何? 何なの?」

 響子が取り乱した声を出す。崇子が青の方を見る。

「青。何をする気だ?」

 ドアの近くにいた三鷹に触手が触れそうになった。三鷹が素早く後ろにさがって触手から離れる。

「青さん。これは?」

 青が何でもない、というような口調で言った。

「受け入れろ。話をする為だ。触手に触れられれば繋がる」

 触手が崇子の手に触れる。崇子が小さな呻き声を漏らした。響子も触手に触れられる。

「うわっ。何この感触……。ちょっと……。気持いいかも」

 三鷹にも触手が触れた。うっ、と三鷹が声を漏らす。触手が三人それぞれに触れたと思うと女性の声が聞こえて来た。それは、先ほどのように頭の中に直接聞こえて来る物だった。

「何もしないでいてくれてありがとう。殻は必要ないので脱ぎました。姿が変わったのはその為です。あれから私はずっとあなた達の行動を観察していましたのです。崇子にはずっと声を掛けて来たのですが、崇子は私達と話す方法を忘れてしまったみたいですのね。圭介君が目覚めて、それだけでなくB02、いえ、青が来て、状況が整ったと判断したのであそこから出ました」

 崇子が言った。

「姿が変わったのは分かった。あれから、というのはお前が暴れた時からの事か? お前はずっと起きていたというのか?」 

 女性の声が答える。

「はい。あそこから出る事もできたのです。ですが、私が動けばまた殺し合いになる。ですから私は閉じ込められていたのです。崇子。あなたの願いは叶った。違いますか?」

 崇子が答える。冷静さを取り戻したようだった。

「ああ。そうだな。お前の望みは帰る事だと聞いたが、本当にそれだけか?」

 女性の声が言う。

「はい。仲間達は宿主を得ています。ここで私が殺し合いを始める理由はありません。過程はどうであれ、皆、自立しました。崇子。あなたはあの子を不幸にする気はないですのよね?」

 崇子が静かな口調で言った。

「ある訳がない」

 女性が応じる。

「ありがとう。あの子に施している処置は、いいものではありません。ですが、今はそれは我慢しますのです。」

 崇子が少し強い口調になった。

「なぜだ? 私は自分の所業を悔いる気はない。だが、なぜ、お前らはそれ程に寛容なのだ?」

 女性がかすかに笑い声を出した。

「さあ。それは分かりませんのです。言えるとすれば、我々は人ではないからではないのですか」

 崇子が言葉を継ごうとする前に青が言った。

「帰ると行っているが、お前は私達がどこから来たのか知ってるのか?」

 女性が言った。

「もちろん。青は知らないのですか?」

 青が頷く。女性が言葉を紡ぐ。

「記憶がないのですね。私は覚えていますのですよ。私達は海の底にいたのです。真っ暗で静かな場所です。たまに魚や蟹などが遊びに来るくらいで何もない所でした」

 青が言葉を出す。

「海……」

 女性が青の言葉に続く。

「そうです。海です。網で捕らえられて私達は地上に来たのです。珍しいという事で、大上に買われたのです。そして、崇子に出会った。当時の崇子は私と、話す事ができましたね」

 崇子がそうだな、と言う。

「崇子が私と話せなくなったのは、多分、崇子が変わったからです。あなたは目的に為に生きるようになった。それはあなたの内面を変えたのです。いいようにも悪いようにも」

 崇子が溜息と共にこぼすように言った。

「お前は何者なんだ?」

 女性がくすくすと笑う声を出した。

「分かりませんのです。崇子は自分が生物学的に人間だ、という以外に自分が何者だ、という事が分かりますか?」

 崇子が静かに言う。

「突き詰めればそうなるが……。お前は、ただ帰りたい、ずっとそう思っていただけなのか?」

 女性が即答する。

「それと、仲間の事を思っていました。それだけです」

 青が少し大きな声で言った。

「復讐は考えなかったのか? 私達をこんな風にした人間に」

 女性が青に問い掛けるように言う。

「こんな風に?」

 青が続ける。

「お前はそんな姿になった。私は何度も殺され掛けた。この宿主だって、私が望んで入った物じゃない」

 女性が言う。

「青はそんな風に考えるのですね。私は、違いますのですよ。全ては、流れなのです。海流のように大きな流れです。一度流されれば流れが緩やかになるまで流され続けるだけ。流れが強い時は何をしても無駄ですが、緩やかな時は多少なら自分の意志で動く事ができる」

 崇子が口を挟んだ。

「今がその時なのか?」

 女性が確固たる意志を露にする。

「私はその時だと思っています」

 青が笑い声を上げた。

「私達は余程お気楽にできてるらしいな。なるほど。私が悩んだのも頷ける、か。一番の被害者であろうお前がそうなんだからな」 

 青が言葉を切って崇子、三鷹、響子と順番に三人の顔を見た。

「文句はないな? これは、海に帰す」

 崇子が二回頷いた。

「構わん。ここまで言われては、どうする事もできん。青、お前はどうするんだ?」

 青が長い物を見詰めた。

「……。その場に行ってから考える」

 崇子がそうか、と言う。女性が言葉を作った。

「圭介君。あなたのお陰で皆と話す事ができましたのです。ありがとう。あなたはこれからどうしますか?」

 突然の言葉に圭介は戸惑う。崇子の顔を見ると崇子は心配そうな顔をしていた。

「僕はここでお母さんと一緒にいたいです」

 崇子の顔を見ていたらそんな言葉が口をついた。

「そうですか。それは素敵です。親子は一緒が一番です。あなたは少し変わっていますのですが、人間の子ですよ。しっかりと人間らしく生きなさい」

 崇子が呟くように言った。

「B01……」

 青が溜息混じりに言葉を作った。

「今すぐに動いた方がいいのだろう?」

 女性の声が答える。

「ええ。できるだけ早くがいいのです。また、何か問題が起こるとも限りませんから。でも、ちょっとその前に」

 なぜか女性が言い淀む。崇子が言う。

「どうした?」

 女性が恥ずかしそうな声音で言った。

「えっと、その、美味しそうな匂いがするのです」

 青がへ? とらしくない声を漏らした。

「なんだ、それは?」

 女性の声が悲しそうになった。

「その、食べ物の匂いがするので、できれば……」

 響子が素っ頓狂な声を上げた。

「ああ~。これね? いいじゃない。ねえ、皆いいわよね? 圭介のお祝いの続き。しましょうよ」

 崇子が青を見た。青が顔を歪めて笑った。

「全く、お前らは」

 崇子がどっちの事だ? と言ったが、青は笑ったままで何も言葉を返さなかった。圭介はテーブルの方に近付いて来る巨大なミミズのような姿のB01をじっと見詰めていた。最初見た時は恐怖を感じていたが、今は、なぜか、親しみさえ感じているようだった。それは、ただ、姿形に似合わない知性を感じさせる話し振りだったからとか、自分の事を気に掛けてくれてるようだったからとか、それだけでは納得ができそうにない不思議な感覚だった。

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