第7話

青はあてがわれた一室でシャワーを浴びていた。左腕は今はただの鉄屑となって洗面器の中に入っていた。この左腕は面倒をみないとどんどん錆びて行ってしまう。青は自分の体を流し終えると体を洗う為のスポンジで鉄片を一つずつ擦って行った。シャワーを浴びるという行為自体はこの研究所にいた時に教わった事で、青はお湯を浴びるというこの行為が好きだった。体を流れる液体の感触が心地いいのだ。だから逃亡中もできるだけ、この時間をとるようにしていた。シャワーを浴びるだけの為に人家に侵入したりした事もあった。左腕を洗い終わるとぼろぼろになってしまったスポンジをぽいっと風呂場の隅に投げ捨てた。

「失敗した。体を先に洗えばよかった」

 今更のようにそんな独り言をこぼしてから、石鹸を直接体に塗って洗う事にした。一通り体を洗い石鹸の泡をシャワーで洗い流すと青は風呂場から出た。脱衣所で体を拭いてから左腕になる鉄屑を丁寧に拭く。普段なら、ここでもう左腕を触手で付けてしまうのだが、今日はやめる事にした。少し干してからでも遅くはない。青はそんな考えが脳裏浮かんだので苦笑してしまった。

「悪くはない、か。こうやってなんにも警戒しなくていいというのは。いや……、ただの油断か」

 ショウといた時よりもどうも更に気が抜けているようなのだ。ここが昔いた場所だからなのだろうか。それともブロワーが全て揃っているからなのだろか。状況的には決して楽観できる物でない事は分かっているのだが、どうにも緊張感が欠けてしまっているようだった。青は洗面器に左腕を入れ右手で持つとバスタオルを巻いた姿で脱衣所を出る。簡易的な部屋なのでドアを開けるとすぐに居間に繋がっている。ショウが部屋の中に二脚あるうちの椅子の一つに座ってテレビを見ていた。

「すっきりしたか?」

 青はショウの言葉を無視して、テーブルの上に洗面器を置くと自分が先に座っていた椅子の上に置いてあった服に着替え始めた。

「シャワーに入ったのに服を変えないとはよくない。気持悪くないか? 汗とかかいてるだろうに」

 青は着替え終わると椅子に座った。

「帰ったんじゃなかったのか?」

 青が髪を拭きながら問うとショウがテレビ画面から顔を青の方に向けた。

「帰ろうと思ったが、君の事が心配でね。向こうは私がいなくても平気なんだよ」

 ショウの視線がテーブルの上に置かれていたビニール入りの服に注がれる。

「こっちのが清潔だぞ。それは洗ってもらえばいい」

 青は詰まらなそうにビニール入りの服を見詰めた。

「これは昔よく着せられてた奴だ。実験道具にされてた頃に戻ったみたいで嫌なんだよ」

 青のぶっきら棒な言葉にショウが苦笑した。

「君にもそういう感情があるのだね。それは私が悪かった。ちょうどいいな。服を買いに行って来るか。どうやらここでの君の生活は長くなりそうだからな」

 青はバスタオルをテーブルの上に置くと椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げた。

「さあな。このまま何もなく済むのならば、ここにいるのも悪くはない。だが、そうもいかないんじゃないのか?」

 ショウが笑顔を見せた。

「私の事か? 依頼の件があるが時間が掛かるのはしょうがない。君はここから出たいのか?」

 青は左腕となる鉄片を洗面器から取り出した。テーブルの上に並べながら口を動かした。

「何もなければ出て行く理由はない。あの女を殺すのが第一の目的だ」

 ショウが真剣な顔になった。

「殺せるのか?」

 青は目を細めてショウを見た。

「私は復讐する為に生き延びて……。いや……。どうだろうな。実際はただ生きていたかっただけなのかも知れない」

 ショウが鉄片を一つ手に取った。両手で持ち、まじまじと見詰める。

「失礼を承知でこういう言い方をするが。君の中身、違うかな。ブロワーは頭がいい。柔軟な思考を持っていると言った方がいいかな。復讐心に駆られた、復讐しか残っていない人間はもっと頑なだ。状況に左右されたりはしない。今の君のように悩んだりもしないな。悪くないと思うよ、私は。色々経験するのはいい事だ。君が言っていた、あのB03との違いもなくなるかも知れないしな」

 青はテーブルの上にある鉄片の一つに指の先で触れた。

「違い?」

 ショウが持っていた鉄片をテーブルの上に戻した。

「ああ。君が言っていただろう。境遇の違いだよ。自分とB03との」

 青はショウを睨み付けた。

「嫌な事をはっきり言うな。その言葉は嫌な言葉だ。凄く惨めな気持になる」

 ショウが頷いた。

「そういう物だよ。それでいい。人を羨んだり妬んだりするというのは、いい物じゃない。それを糧に前に進めれば立派だがそれは中々難しい」

 青は口を開こうとしたが、その前にショウが言葉を出した。

「B03だが。あれは自分の本当の姿を知らないようだな。自分がブロワーだと知った方がいいのか。それとも知らずにいた方がいいのか。君ならどっちがいいと思うかい?」

 青はショウの顔を不思議な物を見るような気持で見詰めてしまった。ショウの言葉の意図が分からなかった。ショウが破顔した。

「君は急激にしかもどんどん人間らしくなって行くな。君達の行っている事は、寄生というより人間の体を使った擬態なのかも知れない。ひょっとしたら、他にも君達のような不思議な者達がいるのかも知れないな」

 青はからかわれている気分がして腹が立った。左腕、残っている肘の部分から後ろを伸ばしてショウの方に向けた。

「からかうのも大概にしとけ」

 毒々しいほどに赤い色をした触手を生やしてみせる。うねうねと触手を動かしながらショウを睨む。

「これが私の一部だ。人間らしいなんぞと」

 ショウが怯むようすを全く見せずに触手に触れて来た。

「お、おい、何をしてる」

 思わず驚きの声を発してしまったのは青の方だった。ショウは触手を指で摘んだり引っ張ったりし始める。

「タコ、かな? いや、ナメクジか。なんともいえない触り心地だな」

 青は急に恥ずかしくなって触手を腕の中に戻した。

「気安く触るな!」

 怒鳴ってみたが、ショウにはなんの効果もないらしい。ショウは笑みを顔に浮かべていた。

「マナー違反だったか。すまんすまん。次からは気を付けるよ。さて。私は、出掛けるとするかな。君の服を買って、情報を集めて来る。私達がここに来た事でどう状況が変わってるか楽しみだ」

 ショウが椅子から立ち上がった。

「では、マイリトルレディ。私は行くよ。すぐに戻る。あんまり寂しがらないようにな」

 ショウが背中を向ける。

「おい。お前の目的はアメリカに私を渡す事じゃなかったのか?」

 ショウがドアノブに手を掛けた所で声を出した。

「うん? そうだったかな。私は傭兵だ。傭兵に道徳などないさ。金の為、自分の為に動くだけだ」

 ショウが左手を上に上げてひらひらと振った。青はショウの後姿に向かって言った。

「勝手に死んだりするなよ」

 ショウが振り返った。

「おーう。マイリトルレイディ。今の言葉はぐっと来た。もう一度言ってくれないか?」

 青は鉄片をショウに向かって投げ付けた。だが流石は一流の傭兵を名乗るだけはあった。軽々と鉄片を受け止めると数歩戻って来てテーブルの上にそっと置いた。

「悪かった。それじゃ、行って来る」

 ショウが再び背中を向ける。青は何も言わずにショウの背中を見送った。ショウがテレビを付けたまま出て行ったので部屋の中には音が溢れていたが、青はなんの関心も持てずにいた。

「我ながら全く……」

 ぼそりと呟く。ショウと出会う前、逃走の真っ只中にいる時は、生き延びる事だけを考えていた。シャワーを浴びている時だって常に周囲を警戒していた。だが、今はそうではない。

「いかんな。これじゃ」

 口ではそう言ってみたが、だからといって、すぐに何か行動を起こそうとは思わなかった。青はテーブルの上の大小ばらばらの鉄片を集めて腕のような形を作った。残っている肘から肩に掛けての部分を下に下ろして肘の部分が鉄片の端に触れるようにする。触手をと思った所で部屋のドアがノックされた。

「三鷹です。開けて平気ですか?」

 青は素早く触手を展開すると左腕を作った。鉄片の隙間に触手が入って行き、接着して鉄の破片の集まりだった物が奇怪だが、腕らしく見えて来る。青は鉄の左腕を上に上げると、数回指を動かした。

「何しに来た?」

 三鷹が即答する。

「どう過ごしいているか見に来ただけですよ。何か入用な物とかはありませんか?」

 青は中に入れ、と言ってみた。ドアがゆっくりと開き、スーツ姿の三鷹が入って来る。青は何時でも攻撃できるようにと身構えていたが、三鷹の方はなんの気構えもなしに行動しているようだった。

「そこに座れ。両手は上に上げていろ」

 三鷹が苦笑する。ドアを後ろ手に閉めるとすぐに両手を上げてショウの座っていた椅子に三鷹が座った。

「警戒するのは当たり前ですが、何時までこうしていればいいんですかね」

 三鷹が両手を振ってみせる。青は三鷹の瞳を睨みながら口を開いた。

「テーブルの上に載せておけ」

 三鷹がテーブルの上に両手を載せる。

「戻ったばかりでなんですが。どうです? 少しは慣れましたか?」

 三鷹の視線がテーブルの上にあった洗面器とバスタオルに向けられる。青は左腕をわざと大きな音をたててテーブルの上に置いた。

「こいつを掃除してたんだ。そういえば、何か欲しいかと聞いていたな。シャワーの所にあるスポンジがだめになった。あれをくれ」

 三鷹が青の左腕を見る。

「これを洗ったのですか?」

 全く意味がないが鋭い洞察だった。どうでもいい事かも知れなかったが、青は警戒しつつ頷いた。

「ああ。だったらなんだ?」

 三鷹が不意に右手を動かした。青は椅子から立ち上がり三鷹から距離をとる。

「なんのつもりだ?」

 三鷹が苦笑した。

「いえ。どんな物かとね。触ろうと思ったんだけど、警戒させてしまったみたいですね。何もしやしませんよ。あなたにはつい先ほどこっぴどくやられてますから。報復を考えるにしても、手ぶらじゃ来ません」

 青はゆっくりと三鷹の動きを伺いながら椅子に戻る。

「余計な動きをするな」

 青が大きな声で言うと三鷹が頷く。

「分かりました。で、スポンジですね。用意しますよ。でも、その腕を磨くんだったらワイヤブラシの方がいいですよ。用意しますから使ってみて下さい。後は、匂いが出ちゃうけど、油も塗った方がいいかも知れないな。錆も出ているみたいだし」

 青はふんっと鼻を鳴らした。

「お前は馬鹿か? こんな状況で人の腕の心配とは」

 三鷹が笑顔を顔に浮かべた。その顔は、ショウが青との会話中に見せるようななんの含みも感じられない笑顔だった。

「どうでしょうね。当然とは思わないまでも恨まれたり警戒されたりしても仕方ありません。そんなに警戒しなくても平気ですよ。今の所はあなたを攻撃する理由がありません。今後もあなたの行動次第ではそうなる事はないと思います」

 青は顔を歪ませて笑った。

「もったいぶった言い回しだな」

 三鷹が溜息をついた。

「職業病ですかね。警戒されているとついついこっちも構えてしまいます。私は敵ではないとそう言いたいだけです」

 青は三鷹の左手を見た。

「行動次第では分からないが、か」

 そうです、と三鷹が頷いた。青は顔をテレビに向けた。

「分からんな。ショウもだが、お前もおかしい。他の奴らもそうか。行動に一貫性がない。私を追っている奴らは違った。それに。昔ここで実験道具にされている時もな」

 三鷹が真剣な顔になった。

「我々人間は、目的の為に行動する事があります。その中途では、感情や自分の意志を抑える事が多い。だけど、それ以外の時は、いい加減な物です」

 青は横目で見ていた三鷹の顔を正面から見据えた。

「実験は終ったか? だから、目的は果たしたと?」

 三鷹が頷いた。

「ええ。圭介君が目覚め、B01は眠っている。私が言う事じゃないのかも知れませんが。本来は当事者である崇子さんが言うべき事なのかな。ですが、この会話の流れですから、ご勘弁を。青さんは、対外的には今でも実験対象ですが、我々の中では、もう実験対象じゃありません。共に歩んで言って欲しい、仲間とでも言えばいいのかな」

 青は左腕でテーブルを叩こうとして上に上げたが、その手を振り下ろす事はしなかった。

「勝手な話だな」

 青は吐き捨てるように言うと腕をゆっくりと下ろした。三鷹が言葉を出す。

「青さんにとっても悪い事じゃないはずです。ここを出てもまた追われる。私達も追いますし、他にも心当たりはあるでしょう。逃亡生活は辛い物です。見る物全てに疑いを持ってしまう」

 青は言葉を挟んだ。

「経験があるみたいだな」

 三鷹が頷いた。

「ありますよ。ブロワーをお嬢様の所から盗んで逃げましたからね。崇子さんと一緒でしたから一人じゃありませんでしたけど」

 青は自身の左腕を見詰めた。

「何を失ったんだ? そして何を得た?」

 三鷹が不思議な物でも見るような顔をした。

「なんだその顔は?」

 青が言うと三鷹がいえ、と表情を笑顔に変えてから口を動かした。

「やけに難しい事を言う物ですから」

 青は目を細めて三鷹の顔を見た。

「難しい事? 何を言ってる?」

 三鷹が言葉を続けた。

「いえ。なんというか。説明するのも難しいな。何を失ったとか、得たとか。そういう事なんてあまり考えないじゃないですか」

 青は束の間、自問してから答えた。

「私はここから出て、腕を失い、片目を失い、この体にもたくさんの傷を作った。だが、腕は今ではこの通り武器として使えている。目も色が変わってしまったが問題なく機能している。そういうつもりで言ったのだが」

 三鷹が小さく溜息をついた。

「そういう意味ですか。それなら、難しくはないですね。私は、もっと哲学っぽい意味かと思いましたよ。現実の出来事ではなく、人間が成長したとかそういう。そうではないなら、そうですね。大上という巨大な庇護者を失った変わりに自衛隊という新たな庇護者を得た。しかも昔より安全な仕事を得ましたね」

 青は少し首を傾げてから言葉を紡いだ。

「それは、いい事なのか?」

 三鷹が苦笑した。

「青さんの言葉は微妙だな。自分でも気付かないうちに難しい方の意味を考えてるみたいだ。青さんは、どうなんです? 今、逃亡中と比べて」

 青は苛立ちを感じた。

「今聞いているのは私の方だ」

 三鷹が悪びれずに微笑む。

「それは申し訳ない。いい事か悪い事か。私にも分かりませんね。前提を考えれば、私は崇子さんと一緒にいたかったんですよ。そっちの方が大上にいる事よりも大事でした。ああ。でも、昔も崇子さんとは一緒でしたね。いや。今の方が前よりは距離が近いかな」

 青は三鷹を睨んだ。

「意味が分からん」

 三鷹が苦笑した。

「すいませんね。私自身がよく分からないんですよ。そういう事をあまり深く考えたりはしないですから。しかし、面白い事を考えますね」

 青は力なく首を左右に振った。

「面白い? どこがだ。逃亡中はこんな事は考えなかった。ショウに会って、お前らと会ってからこんな事を考えるようになった。警戒心も薄れている。私としては、悪い事のように思える」

 三鷹が難しい顔になった。

「失礼な言い方をしますが。青さんの人としての事ではなく、その、ブロワーとしての事ですが。今、その人の体を支配しているのはブロワーの方なのでしょう?」

 青は小さく頷いてから小さな声を出した。

「分からん。私は私だ、としか言いようがない。人間の脳には記憶を貯めている場所がある。私はそこからこの人間の記憶を知る事ができる。この人間が何をしたか、どう行動したか。それは記憶だが、この人間の思考でもある。迷った時には参考にもしてる。私の思考がこの人間、強いて言えば、人間という生物の思考と似た物になっていても当然かも知れん。この人間と私、どちらが今の私なのかと言われるとなんとも言えん」

 三鷹の表情が驚きの色に染まった。

「凄いな。青さん、ぜひ崇子さんと話をしてみて下さい。圭介君の為にも」

 青は体を椅子の背もたれに預けて天井を見上げた。

「B03か。あいつは自分が人間だと思っているんだろ?」

 青の言葉を聞いた三鷹がやや間を空けてから頷いた。

「ええ。圭介君に真実を伝えたいですか?」

 青は深い息をついた。

「分からん。分からない事ばっかりだ。私はお前達を殺す事と仲間達に再会する事を目的にしていた。B03はお前達と一緒にいたいみたいだ。私がお前の言う真実を話したら、B03はどうなるんだ? その先の事を考えたら、私はあいつが憎くなった。殺してしまえと思った。だが、私自身で殺す事はできなかった」

 青が言葉を切っても三鷹は何も言わなかった。青は言葉を出した。

「今の所は黙っているつもりだ。あいつが人間だと思ってそのまま生きていけるならそれも悪くはない。それであいつが幸せなのならな」

 三鷹が言う。

「それで、青さんはいいんですか?」

 青はふんっと鼻で笑った。

「殺せない以上、もうできる事はない」       

 三鷹が言う。

「余計な気遣いは無用のようですね。さて。私は行きます。また、話をしたい物です」

 三鷹が椅子から立ち上がる気配を感じて青は三鷹の方に顔を向けた。

「私を……。いや、いい。さっさと行け」

 三鷹が苦笑して踵を返した。青は三鷹の背中を見詰めながら飲み込んだ言葉を頭の中で繰り返した。私を……、これからどうする気なんだ? 青は顔を歪めて苦笑した。自分は長くは生きられないかも知れないと思った。自分が弱くなっていると改めて感じた。三鷹がドアに近付いて行くとドアがノックされた。

「響子ですよー。三鷹、いる?」

 誰も返事をしていないのにドアが大きく開けれる。

「わお。三鷹。そんな近くにいなくてもいいわ」

 ドアを開くと同時に中に入って来た響子と三鷹が鉢合わせをしていた。

「驚きましたよ、お嬢様。だめじゃないですか。折角ノックをしたのに勝手に開けて入っては」

 響子が首を巡らせて部屋の中を一瞥した。

「三鷹。若い女と二人きりの状況だったのねぇ」

 三鷹が厭きれたという声を出す。

「何を考えてるんですか、全く」

 響子が三鷹の横を擦り抜けて、テーブルの前まで来た。

「青だっけ?」

 青は適当に頷いた。

「あなた、お酒は飲めるの?」

 青はまた頷いた。ショウと出会う前ならなんだそれは? と答えていたはずだろう。だが、ショウとの生活の中でそれは既に経験済みだった。響子がにやっと笑った。

「なら一緒に来なさい。ここで一人でそんな辛気臭い顔をしてたらだめ。また逃亡とかして崇子姉に迷惑を掛けるわ」

 青はふんと鼻で笑う。

「なんだお前? 馬鹿か?」

 響子がふんと鼻で笑い返してきた。

「馬鹿という人が馬鹿なのですよ。ほほほ。それくらい知っておきなさい。とにかく来なさい」 

 青はそっぽを向いたが、響子がずんずんと近付いて来るのが視界の端に見えた。青は椅子から飛び上がるようにして後ろにさがると響子を睨んだ。

「近付くな。殺すぞ」

 響子がにやーんと微笑む。

「できるのかしら。自分の手で圭介を殺せなかったあなたが。いい? 一度逃げたら、もう、負けなの」

 青は素早く響子の懐に飛び込んだ。左手を伸ばし響子の細い首を掴もうとした。だが。伸ばした左腕は響子に絡め取られ、そのまま後ろ手にされ、足払いを掛けられ、床の上に倒された。

「油断ね。私が何もできないお嬢様だと思っていたのでしょう?」

 上から声が降って来る。青は構わずに体を起こしに掛かった。肩の関節が外れそうになるがそんな事は気にしない。

「ちょ、ちょっと。腕折れるわよ」

 青は無視して体を起こして行く。

「お嬢様、青さん」

 三鷹の声がしたかと思うと響子の重みが消え、拘束されていた腕が開放された。起き上がり響子から距離をとった青は響子のいるであろう方向を見据えた。

「何よー、三鷹。いいのよ。こういう馬鹿は体に教えてやらないとだめなのー」

 青は腕の状況を確認すると、再度、響子を襲おうと身構えた。

「青さん、落ち着いて下さい」

 三鷹が声を掛けて来る。青は響子から響子を羽交い絞めにしている三鷹の顔に視線を移した。

「落ち着いている」

 青は声を上げると体の力を抜き椅子に座った。

「もういい。早く出て行け」

 青の言葉に三鷹が応じる。

「青さん、すいませんでした」

 三鷹が響子を離し頭を下げたが、青は無視した。響子が乱れた髪を弄りながら言う。

「だめよ。あなたも圭介のお目覚めお祝いパーティーに参加するんだから」

 三鷹が響子の方を見た。

「そうなんですか?」

 響子が頷く。

「当たり前じゃない。どうして呼ばないのよ。関係者じゃないの。それに唯一の仲間だわ」

 三鷹が難しい顔になった。響子を見詰めてから青の方に顔を向けて来た。

「青さん。そういう事なら私も一緒に来て欲しいと思うんですが」

 青は二人の顔を交互に睨んだ。

「行ってどうしろというんだ?」

 響子が真剣な顔を見せた。

「行って楽しめばいい。他に何があるのよ? あんた今までずっといい目にあってないんでしょ? だったらチャンスだわ。ここらで変えなさいよ。なんてたって、この私がいるのよ」

 青は首を傾げてしまった。

「何を言っている?」

 三鷹が苦笑する。響子がずいっと体を前に出して来た。青はもう過剰な反応はしなかった。正確に言えば体は反応し掛けたが意識して押し留めた。

「私を誰だと思っているのかしら? 大上財閥の当主なのよ。その私が一緒にいるの。敵としてではなく、ね。そういう事よ」

 青は目を細めた。やはり意味が分からない。

「青さん。お嬢様はあなたと仲良くしたいと言ってるんですよ」

 響子が大声を上げる。

「三鷹! それは極論過ぎよ。そうじゃないわ。私はパーティーに参加なさいと言ってるだけだわ」

 青は厭きれて溜息をついた。

「なんなんだ、お前らは」

 響子が睨み付けて来る。

「早くしないと崇子姉を待たせる事になる。力づくにでも連れて行くわよ」

 響子が腕輪を弄ろうとする。三鷹が慌ててそれを止めた。

「やめて下さい。取り返しのつかない事になったらどうするんですか。青さんは戸惑ってるんです。急にここに連れて来られて、初めての事ばかりなんです」

 青はふとショウの事を考えた。三鷹の言動がそうさせたのか、それは分からなかった。ショウならどうするか、と考えるとショウの顔が浮かんで来る。青は椅子から立ち上がった。

「行くよ。それでいいんだろ?」

 響子がぶすっとした顔をする。

「何よー、その言い方。もっと素直に言いなさいよ。行きたいですって」

 青は肩を竦めて見せた。ショウらしい仕草だ、と思いながら。

「なんでもいい。早くしないと崇子を待たせるんじゃないのか?」

 響子がはっとした顔になる。

「そうだった」

 言った直後に響子がにやりと含みのある笑みを見せた。

「今度は逃げなかったわね。大丈夫よ。負けてもまた勝てばいいの。諦めない限り勝つチャンスは必ずあるわ」

 三鷹がお嬢様、と強く諭す口調で言った。青は顔を歪めて微笑んだ。

「勝手な事ばかりだな」

 響子が三鷹うるさい、と言いながら体の向きをドアの方に向けた。

「それじゃ、行くわよー。崇子姉とお酒を飲めるなんて!! 楽しみだわ~」

 心の底から喜びが溢れ出ている響子の声が部屋の中に響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る