第6話

崇子はベッドの上で寝ている我子の頭を優しく撫でた。

「うぅ。お、お母さん?」

 圭介がゆっくりと目を開け、同時にそんな言葉を言った。崇子は自然と顔が綻ぶの感じながら返事をした。

「そうよ」

 圭介が儚げな笑みを見せた。

「僕は平気だよ」

 崇子はこくりと頷いた。

「お母さんは、あなたを守る為だったらあんな事もできてしまう。ねえ、圭介、お母さんの事、怖い?」 

 圭介が掛けられている薄手の布団の中から右手を伸ばして来た。彷徨うようにしていた右手はやがて頭を撫でている崇子の掌に触れて来た。

「怖くないよ。僕の為だもん。僕はお母さんが大好きだから」

 崇子は目頭を押さえた。自分の感情が脆いのは知っていたが、ここまでとは、と思いながら溢れ出る涙を拭った。

「圭介。ありがとう。お母さんはあなたを守るわ。これからもずっと。何があっても」

 うん、と頷く圭介に微笑を向け、その頭を優しく何度も撫でた。先ほどまで、硝煙の香る駐車場にいたのが嘘のようだった。響子の力で、あのマンションでの出来事はなんの問題もなく隠蔽されるだろう。自衛隊内部にも触手が伸びている大上財閥なのだ。現当主である響子が直接行ったという事であれば尚更この国のいかなる者であっても文句は言えない。崇子はそこまで考えて、圭介をこんな体にしてしまう前、事故に会わせてしまう前に、響子との婚約をさせてしまえばよかったのかも知れないと後悔の念を感じた。響子が圭介に好意を持っていると伝えて来た時。崇子は笑って話の腰を折った。まだ、色恋沙汰は早すぎる、と。本音は、自分の息子を取られるのが嫌だったのだ。自分の愛は異常なのかも知れない……。任務で、人を殺し過ぎたからなのか……? だから、自分の平穏の象徴である圭介がこんなにも愛しいのか? 崇子の思考は、ドアがノックされる音にかき消された。

「なんだ?」

 崇子が声を出すと響子の声が返って来た。

「B02とショウザスペシャルの方なんだけど、どうする?」

 崇子はそうだったな、と呟いた。

「三鷹をここへ」

 すぐに三鷹の声がした。

「そう言うと思ってもう来てますよ」

 崇子はドアを開けていない事に気付いた。軽く息をつくとドアを開けた。スーツ姿の三鷹と髪をツインテールに結い、キャミソールにミニスカートというラフな格好になっている響子が並んで立っていた。

「悪いが、三鷹は圭介を頼む」

 三鷹がはい、と頷いた。

「今度はへまはやりません」

 真面目な顔で言う三鷹に崇子は笑顔をみせた。

「お前が何時へまをやらかした? よくやってるよ」

 三鷹がですが、と口を開き掛ける。

「私が甘かったんだ。お前はよくやった。B02とあの傭兵が相手だ。上出来だよ」

 三鷹が苦い顔で頷いた。崇子は踵を返すと圭介の側へ行った。

「圭介。ゆっくり休むのよ。すぐに戻るからね」

 圭介がうん、と頷く。崇子は二回ほど圭介の頭を撫でると三鷹と入れ替わりに部屋を出た。圭介の寝ている場所は、研究施設のある部屋の中に間仕切りで作られた部屋なので、一度別の部屋を作る為の間仕切りの角を曲がっただけで崇子は山戸谷と話していた時に使っていた応接室についた。崇子をそこまで先導した響子がドアを開ける。二人の自衛隊員に警護されながらソファに青とショウが並んで座っていた。崇子は二人が拘束衣を着せられている姿を見て苦笑した。

「警護の者は部屋の外で待て。終わったら呼ぶ」

 二人の自衛隊員が小気味のよい返事を残して退散する。崇子は二人の向かいのソファに座った。響子が崇子の横に座って来る。

「私は関係者だから、ここ」

 一応、伺いのつもりか響子が言った。崇子は響子を一瞥してから二人の方に顔を向けた。

「さて。何から話そうか」

 崇子が言うと青が色の違う左右の瞳を爛々と輝かせて口を開いた。

「久し振りだよな、崇子。ようやくここまで来れた。逃げないで最初からここにいればよかったよ。そうすればお前を殺す機会はいくらでもあったのに」

 響子が口を動かした。

「虫女の分際で崇子姉に随分舐めた事を言うわね。今すぐに殺虫剤をかけてあげましょうか」

 崇子は二人の会話を無視して言葉を続けた。

「B02。今は常葉青と名乗っているのだっけな。青。元気にしてたか?」

 青が顔を歪ませて笑った。

「元気にしてたか? ああ。お陰さまで。これを見ろ。お前の仲間にやられた傷だ。人を実験道具にしてB01が暴れ出したら、戦わせて。好き勝手やってくれてたな」

 崇子は青の顔にある縫い目を見詰めた。

「すまない、と言えば許してもらえるのか? 許しはしないのだろう? 私を殺すのはいいが、それで何が変わるんだ?」

 青がふんと鼻で笑った。

「偉そうに。そんなもん、殺してみなきゃ分からない」

 青が一旦言葉を切って醜く歪んだ笑みを浮かべる。

「実験だ。あれと同じだろ」

 崇子は苦笑して見せた。

「本当に嫌われた物だ。だが、まあいいさ。青。お前はこれからここで暮らすんだ。安心しろ。もう酷い実験はしない。データは粗方揃ってるからな」

 青が睨み付けて来る。

「飼育する、だろ。言葉を選べよ。実験をしないなら何をさせるんだ?」

 崇子は一度、黙ったままじっとしているショウの方を見てから視線を青に戻した。

「B01が目覚めるかも知れない」

 青が嬉しそうに微笑んだ。

「よかったじゃないか。また、人が死ぬ」

 崇子は頷いた。

「そうだ。だから、お前がいるんだよ。大人しくするなら自由にしてやる。そんな格好でずっと過ごしたいか?」

 青が天井を見上げた。

「馬鹿らしい。自由にできる物ならしてみろ。すぐにお前を殺すだけだ」

 崇子は静かな口調を作って言った。

「それは無理だ。お前の頭を弄るからな。静かに過ごすと約束するならそれは許してやる。圭介みたいになりたいのか?」

 青が怒鳴り声を上げた。

「お前! B03に何をした?」

 崇子は垂れて来た前髪を右手で横に流した。

「制御装置を取り付けてある。記憶も全て消してある。私に懐くようにな」

 青が流石に驚いた顔になった。響子が口を開いた。

「崇子姉……」

 信じられない、といった口調だった。崇子は自嘲気味に笑うと言葉を吐いた。

「理解してもらおうなんて思わないさ。ただの自己満足なんだよ」

 崇子は響子の顔を見た。響子がにへっと微笑んだ。

「お前には悪い事をしたか。圭介の事を好いていてくれたから」

 響子がぶんぶんと首を左右に振った。

「平気よ。崇子姉がいればそれでいいわ」

 響子がなぜか頬を赤らめている。崇子は小首を傾げてから青の方を向いた。

「お前が決めていい。どうしても私を殺したいなら制御装置を受け入れろ。自分の意志で私に従うなら条件を飲め」

 青は舌打ちをしただけで、何も言わなかった。

「大人しくするのが利口という物だ。大人しくしている振りをすればいいだけの事だろう。それでもいいと彼女は言ってるんだ。この条件は飲んだ方がいい」

 今まで黙っていたショウが口を開いた。崇子は頷いた。

「そういう事だよ。青」

 ちっと舌打ちをもう一つしてから青が吐き捨てるように分かったよ、と言った。

「よし。青の事はこれで終わりだな」

 崇子の言葉にショウが言う。

「次は私かな?」

「そうだ。お前の処遇。傭兵団の首領なんだって?」

 ショウが首を小さく左右に振った。

「そんな物じゃない。たまたま私が指図をしているだけだ。誰が一番偉いとか、そんなくだらない序列は存在しない」

 崇子は溜息をついた。

「大使館の庇護下にあった割には何も問い合わせは来てないらしい。まあ、当たり前といえば当たり前だ。成功すればよし。失敗すれば知らん顔。実に傭兵らしい扱いだ。私は面倒事が嫌いだ。お前も何もしないと言うならこのまま解放する」

 ショウが苦笑する。

「私にはここに残れと言わないのかい?」

 崇子は思わず微笑んでしまった。

「面白いな。それは。アメリカンジョークという奴か」

 ショウが笑い声を上げた。

「いや、ジョークのつもりはないのだけどな。青がここに残るなら私もと思ってね」

 崇子は青の顔を見た。

「青は、その方がいいのか?」

 青がショウの横顔を見た。ショウがその視線に気付いたように青の顔を見る。

「ここには敵しかいない。こんな奴でもいた方がいいな」

 ショウがおーう、と大きな声を上げた。

「青。私の気持が通じたのだね。これから私の事をダディと呼びたまえ」

 青がそっぽを向いた。

「うるせえ。調子に乗るな」

 恍惚とした顔をしているショウには青の拒絶の言葉は全く届いていないようだった。ショウが崇子の方を向く。引き締まった表情になっていた。

「崇子さん。そういう事だから、よろしく頼む。ここに住ませろとは言わない。せめて通う事は許して欲しい」

 崇子はゆっくりと頷いた。ショウがまたおーう、と嬉しそうな声を上げた。崇子はそんな大げさな仕草をするショウを見詰めながら口を動かした。

「もちろん、条件がある。こっちには危険が伴う事になるのだからな」

 ショウが真面目な顔になって頷いた。

「取り敢えず言ってみてくれ。内容を聞いてからだ」

 崇子は言葉を作った。

「情報を入れろ。外の事だ。お前が雇われてた米国の事。他にもうちの事に関する事全てだ。大上と自衛隊の連中が隠蔽を図ってるが、どれくらい情報が漏れているか分からん。高名な傭兵団の首領様が堂々と国内を闊歩している世の中だからな。心配はいくらしても足りない。ここが襲われるなんて事も有り得るだろうしな」

 響子の言葉にショウが苦笑して見せた。

「実際に私の仲間が潜入に成功してるからかな?」

 崇子はああ、と応じた。

「最初は、全く気付かなかったよ。レントゲンにもちゃんと映ってたからな。触診で分かったんだ。ブロワーは体内を移動できるからな」

 ショウが残念そうな顔をした。

「なるほど。そこまでは偽装できないな。あれには随分金を掛けてたのだがね」

 崇子はふっと息を漏らした。

「じゅぶんだったんじゃないか? その隙に圭介を手に入れたんだ。響子がいなかったら完敗だった」

 響子がえへへへ、と笑う。ショウが言った。

「重要なのは結果だよ。今こうしいるのだから君の勝ちだ。私を殺す事だってできるんだ。私としては命乞いをしても仕方がないと思っているよ」

 崇子は笑い声を上げた。

「面白いな。お前とは話が合いそうだ」

 ショウも声を出して笑った。

「ぜひお付き合いしたい物だ。君みたいな女性にも興味がある」

 響子が二人の会話を遮るように声を上げた。

「崇子姉。圭介が待ってるんじゃない? 戻ってあげた方がいいと思う」

 崇子は響子の顔を見詰めてから頷いた。

「そうだな。響子、悪いがケーキを用意してくれないか。圭介にケーキを食べさせると約束をしていたんだが、買いに行く暇がなかったんでな」

 響子が右手に嵌めていた腕輪を弄る。

「これで、すぐに部下が来るわ。凄いでしょ、これ。私専用の呼び鈴」

 崇子は響子の右手に触れた。響子があふぁ、と呻いたが崇子は無視した。

「ほう。これはいい。響子、これを改良して作って欲しい物があるのだが。すぐにできるか?」

 響子が崇子の手を握りながら言う。

「もちろん。崇子姉の頼みなら宇宙に行きたいと言われたってすぐに叶えるわよ。えっと、どんな風にすればいいの?」

 崇子は青の方を見た。その間も響子が手を握っていたが崇子は構わずにいた。

「青。すまんが、発信機を付けさせてくれ」

 青が睨み付けて来る。

「言ってる事が変わったな」

 崇子は青の言葉をスルーして続けた。

「体に埋め込む訳じゃない。この腕輪と一緒だ。お前の現在位置と状態を把握できるようにしたい」

 青がふんと鼻で笑った。

「そうやって型に嵌めて行く訳か」

 崇子は静かに言った。

「分かった。それならば付ける付けないはお前の自由でいい。響子、青に似合いそうなデザインの奴を作ってやってくれ。再会を祝しての贈り物だ。値がはっても構わん」

 青が付き合ってられない、という顔をしてそっぽを向く。響子が頷いた。

「いいわね、それ。じゃあ、後で腕輪を作る職人を呼ぶわ。ここに呼んでいいの?」

 崇子はああ、構わない、と返事をした。響子が言葉を続けた。

「でも……。ねえ、崇子姉。私とも再会した訳でしょ? 私には何かないの?」

 まだ握られていた手に力が加わった。響子の顔を見ると響子の大きな瞳が熱に浮かされているように輝いていた。

「私は大上から逃げた身だからな。私から物をもらっても嬉しくないんじゃないか?」

 響子が妙に顔を近付けて来る。

「な、なんだ?」

 崇子は確か前にも……、と響子がこんな風に迫って来るような態度を見せた事を思い出した。

「これで、どうだ?」

 崇子は響子の頭を撫でた。昔はこれで響子は随分と喜んでいたのだ。掌に触れるさらさらとした髪が心地いい。崇子の行動に目を閉じた響子の顔を見ていて、大きくなった、としみじみと思った。しばらく撫でていたが、部屋のドアがノックされたので崇子は手を止めた。

「誰だ?」

 ドアの向こうから声が返って来る。

「大上の者です。響子様からの呼び出しがあったのですが」

 崇子がまだ目を瞑っている響子に言う。

「響子」

 響子が目を開けると、名残惜しそうにしながら崇子から離れた。

「ケーキを頼んで来るわ。大事な物だから私も行って来る」

 崇子は立ち上がって礼を言った。

「流石は響子だ。そういう気の回る所は好きだぞ」

 好きだなんてそんな~、と響子が顔を真赤に染めながらドアの側まで行った。

「すぐに戻るわ。では」

 振り返ってそう言うと部屋から出て行った。崇子は立ったまま青とショウを見た。

「すぐに拘束を解かせる。後は好きに過ごしてくれ。ケーキが来たら圭介の為に宴会をやる。付き合え」

 二人が返事をする隙を与えずに崇子は部屋を後にした。表で待機していた自衛隊員に二人の拘束を解くようにと伝えると圭介の寝ている部屋に行く。すぐに到着するとノックをしてからドアを開けた。三鷹がベッドの側にあった椅子から立ち上がって迎えてくれる。崇子は眠っている圭介の顔を見詰めながら口を開いた。

「眠っているのか。何か言っていたか?」

 三鷹が壁際に寄せてあった椅子を崇子の前に置いた。崇子が座ると三鷹も先ほど座っていた椅子に座り直した。

「特には何も。医療チームの者が体の様子を見に来ました」

 崇子はどうだった? と言葉を挟んだ。

「回復力がありますよ。もう、傷口は完全に塞がってます。狙いもよかったとの事です。何も心配はいらないと」

 崇子は溜息をついてから、引き締めた顔で崇子の顔を見詰めている三鷹の顔を見た。

「体の方は回復してもきっと圭介の心の傷は回復しないのだろうな」

 三鷹がなんです? と問う。

「母親に撃たれたんだぞ。異常な事だろう? 狙いがどうこうの問題じゃない。圭介のあの状況を間近で見ても私の考えは揺るがなかった。この子が私の手から離れて……。いや、こんな環境で育ったらどんな子になってしまうのだろうな。私みたいになってしまうのかな。そうだったら、つまらんな」

 崇子は視線を圭介の顔に移した。圭介の寝顔を見ていると心底愛しいと思う。だが、自分はそんな圭介に対して……。

「家族の本当の姿なんて誰にも分かりませんよ。どれだけ親が子を愛して、子が親を愛していてもそれだってはっきり分かる物ではないです。隊長は圭介君を救った。それが事実です。B02は、圭介君を本気で殺させるつもりでした。私は、隊長よりの人間です。最善の判断だったと思っています」

 崇子は圭介の頭を撫でた。圭介がうー、と言いながらむずかゆそうな顔をする。

「ふふ。やっぱりかわいいな。三鷹。青は、圭介に言ったのか?」

 三鷹が束の間沈黙する。崇子が発言を促そうとする前に三鷹が口を動かした。

「ええ。言いました。ブロワーの事ですよね。私はトイレに閉じ込められていたのですが、大きな声でしたから、はっきりと聞きました。圭介君、相当酷い目にあわされて……。申し訳ないです。自分の迂闊さがなければ……」

 崇子は圭介の頬を手で優しく撫でた。圭介が口をむにゅむにゅと動かす。

「こうしていると、本当の圭介に見える。寄生虫のお陰で意識があるとは思えないな」

 三鷹が頷くのが衣擦れの音で分かった。

「B02の処遇、どうするんですか?」

 崇子は三鷹の方に顔を向けた。

「報復する、と言いたい所だが、やめようと思う。あれには酷い事をしてるからな。ブロワーは人と似ている。周りの環境の影響をちゃんと受けている。記憶を消して、制御装置を取り付けてはいるが、圭介のこの非戦闘的な性格はそれだけの所為じゃないだろう。青があんなに攻撃的なのは私の扱いの所為かも知れん。元々圭介を蘇らせる為に始めた事だ。生物兵器云々は手段に過ぎない。それにな」

 崇子は一旦言葉を切ってドアの方を見た。

「もしも、私に何かがあったら。圭介が一人にならないようにしてやりたい。もちろん、お前や響子がいる。だが、圭介を今の圭介として存在させているブロワーの為もある。B01が言っていた。この子達を守りたいとな。あれだけは進んで実験を受け入れたんだよ。B02は強制的に、B03は自我を奪われて、だからな。今更かも知れんが」

 圭介が目を開いた。崇子の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。

「お母さん。戻って来たんだ」

 崇子は頷きながら圭介の頬に触れた。

「傷は平気?」

 圭介がうん、と頷く。

「もう全然痛くないよ」

 崇子は深い溜息をついた。

「圭介は、優しいね。お母さんの事怒ってもいいんだよ?」

 圭介が不思議そうな顔をした。

「どうして?」

 崇子は臆せずに言葉を出した。

「私はあなたを撃ったんだから。母親としては絶対に、失格。自分の子供を撃てる親なんてそうはいないわ」

 圭介が困った顔になった。口を動かしそうになっては止め、また動かしそうになっては止めを数回繰り返してから言葉を紡いだ。

「あの時、お母さんが側に来てくれた時、僕は凄く安心したんだ。お母さんがあの怖い所から助けてくれるって思った。それで、ちゃんと助けてくれた。僕はそれが嬉しい。お母さんは凄いって思う」

 崇子は圭介の頭を優しく何度も撫でた。圭介が笑いながらやめてよ、と言ってもしつこく撫でた。

「響子がケーキを買って来てくれるわ。圭介、食べられそう?」

 圭介が満面の笑みを浮かべて頷く。

「うん。お腹空いてたんだ」

 崇子は自然と顔が綻ぶのを感じた。

「ねえ、圭介。立てる?」

 圭介が少し戸惑ってから上半身を起こした。

「お母さんが支えて上げるから、ベッドから下りてごらん」

 圭介がうんと返事をしてベッドから両足を下ろす。崇子の支えなしで圭介は床の上に立っていた。

「痛みとか変な感じとかはない?」

 圭介が数歩歩いた。

「うん。大丈夫」 

 崇子は圭介の顔をじっと見詰めると真面目な顔を作った。

「圭介。お母さんはあの人達の事を許したの。女の人の方は、これからここに住んでもらうわ。当然、あなたも会う事になる」

 圭介の顔が困惑に染まる。徐々に泣きそうな顔になってしまう。

「怖い?」

 圭介がこくんと頷いた。崇子は椅子から立ち上がると圭介の両肩に手を添えた。

「圭介。あなたなら大丈夫。今度何かされそうなったらはっきりやめろと言いなさい。圭介はお母さんの子なんだからね。本当は強い子なの。お母さんよりもずっとずっと強いのよ」

 圭介がでも、と不安そうな顔で言う。崇子は圭介を抱き締めた。

「あなたは優しい。でもね。それだけじゃ、生きてはいけない。悲しいけど、生きるって事はそういう事なの。時には、強くならなければだめなのよ」

 崇子は圭介から少し身を離して圭介の顔を見た。圭介はまだ不安そうな顔をしていた。

「お母さんは、僕を守ってくれなくなっちゃうの?」

 崇子はもう一度圭介を抱き締めた。

「そんな事ないよ。お母さんはずっと圭介を守るわ。でも、お母さんがいない時もある。圭介が一番大事だけど、どうしても離れなければいけない時があるでしょう? そういう時には圭介が強くないとだめ」

 圭介が頷くのが動きで分かった。

「僕頑張る」

 崇子は、圭介と呟きながら圭介の頭を撫でた。

「お母さん、B03って何?」

 何時か聞かれるだろうと思ってはいたが、崇子は放たれた言葉に一瞬体を強張らせた。

「圭介、それは、あの人達から聞いたの?」

 崇子は圭介からそっと離れると、圭介の瞳を見詰めながら聞いた。

「うん。何か僕の事を言ってるみたいだったんだ」

 崇子は用意していた言葉からいくつかを選びつつ口を動かした。

「そうよ。それは、あなたの事」

 三鷹が崇子さん、と声を掛けて来る。崇子は右手を上げてそれを制すると言葉を続けた。

「あなたの意識を戻そうと、お母さんがここであなたの事を研究したの。その時にそういう名前を付けてね。研究の資料に圭介という名前を使うのは嫌だったから」

 圭介がだけど、と遠慮がちに口を動かした。

「皆、あの女の人の事、B02って呼んでる。あの女の人、僕の事知ってるみたいだった」

 崇子は小さく息を漏らした。

「そうね。あの人もここに昔いたのよ」

 圭介が言う。

「それだけ?」

 崇子は頷いた。

「う~ん。他にもまだあったかな。お母さんも全部を覚えている訳じゃないのよ。気になる事があったら聞いて。そうすれば、お母さんも思い出せるわ」

 崇子は言葉尻に笑顔を付け足した。圭介が笑顔を返して来る。

「うん」

 崇子は圭介をベッドの上に座らせた。

「よろしい。圭介、今は、女の人の声は聞こえない?」

 圭介が小首を傾げた。

「ほら、今日、圭介が地下三階に行った時。声が聞こえたって言ってたでしょう?」

 圭介が小さく頷いた。

「うん。聞こえない」

 崇子は笑顔で頷くと三鷹の方を見た。

「そういえば、家の方をほったらかしだったな。中はどうなってる?」

 三鷹が言う。

「窓が割れたぐらいだったと思います。彼らの目的が圭介君でしたからね。家の中を荒らされたとかはないです」

 三鷹がはっとした顔になる。崇子は声を出して笑った。

「構わん」

 崇子が圭介の方に顔を戻すと圭介は崇子と三鷹の会話の意味が分からないといった顔をしていた。

「響子に頼んで家を早急に直してもらうか。こうなったらとことん使ってやろう」

 三鷹が椅子から立ち上がったであろう音がした。

「そうですね。お嬢様は我々の事、なんとも思ってないようですし。昔みたいに、いや、昔よりも立場が関係ない分付き合いやすいかも知れません」

 崇子は三鷹の方に顔を巡らせた。

「どうした?」

 三鷹が笑顔を見せる。

「あの二人の様子を見て来ますよ」

 崇子はそうか、と言ってから言葉を紡いだ。

「じゃあ、頼むとしよう。ついでにB01の方も見てくれ」

 三鷹がはい、と返事をして、部屋から出て行く。崇子は圭介の横、ベッドの上に座った。

「う? お母さん?」

 圭介が小首を傾げて見詰めて来る。崇子はベッドの上にごろりと寝転んだ。

「寝よっか。お母さんちょっと疲れたかも」

 圭介が掛け布団を掛けてくれてから崇子の横に寝た。

「お母さん、温かい」

 圭介が小さな声で言う。崇子は圭介の頬に頬を擦り付けた。

「圭介は柔らかい」

 圭介が笑い声を上げながらやめてよ、とやんわりと抵抗して来る。崇子は構わずに圭介にちょっかいを出し続けた。

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