第5話

 横須賀海軍施設内にあるレストランの一角で、青とショウは食事をしていた。青がほとんど生のような焼き具合のステーキを切り分けもせずに齧っていると自身のハンバーグを綺麗に切り分け終えたショウが口を動かした。

「少しは女性らしくした方がいいぞ。いくらなんでもそれじゃ、見栄えが悪過ぎる」

 言い終えるとショウが意味有りげに視線を周囲に走らせる。青はちらりと周囲を見てからステーキを皿の上に置いた。齧り取った肉を租借しながら言葉を作った。

「構うな。私のこの姿を見ろ。食べ方を気にした所でなんの意味がある?」

 ショウはナプキンを取ると青の口に付いたソースを拭った。

「そんなに捨てたもんじゃないぞ。流石は大使館付きのスタイリストに頼んだだけの事はある。今の君はどこからどう見ても高級将校の娘にしか見えない。自分の容姿を誇ったらどうだ?」

 ふんと鼻を鳴らして青はワイングラスの中の赤ワインを一気に煽った。

「くだらない。お前が見てるのは私の宿主だ。本当の私の姿を見て、同じ台詞を言ってもらいたい。なんなら今、出て見せてやろうか?」

 青が両手の指を自身の口に添え、口を大きく開こうとする。

「おいおい、やめろ。分かったから、やめてくれ。いいじゃないか。少しは状況を楽しめ。今までこんな事はした事がないだろう? 逃亡生活も終わったんだ」

 青は投げやりな目線をショウに送るとまたステーキに齧り付いた。今度は肉の面積の三分の二程を齧り取るとリスのように口を膨らませながら租借する。

「もう、いい。分かった。だが、そういう所もかわいいと言っておくよ。まるで親に逆らってわざと意地悪をしている娘だ」

 青は乱暴にワインのグラスを掴むと、空になっていたグラスに並々とワインを満たした。口の中にある肉を胃の腑に落とし込むように一気にワインを飲み干す。

「ショウ。お前の悪趣味の話はいい。それより、どうなってる?」

 ショウが切り分けたハンバーグを丁寧に口に運び、ゆっくりと味わうようにして食べてから言った。

「研究所に向かって移動中との事だ。尾行も付いているそうだよ。上手くいっていると思っていいだろう。君が思い付いたプランを実行する条件は整いつつあるという事だ」

 青は残り少なくなったステーキをホークで突き刺した。

「会うのが楽しみだよ。あいつとは生殖行動をする約束をしてあるんだ。子供が生まれれば私の復讐ももっと規模が大きくできる。人をたくさん殺せる」

 ショウが苦笑する。

「全く。無粋な話を。もっと言葉を選べないのか。あの人とは婚約しているとか、将来を約束しているとか」

 青は最後のステーキ片を口の中に放り込んだ。

「馬鹿馬鹿しい。この体の情報からそういう知識も得ているし、感情としての動きも分かる。だが、私には関係ない。まあ、今、そういう出会いがあったとしたら、少しはお前の言うようになるかも知れん。そこに意味があるかどうかは分からないが」

 ショウが微笑んだ。

「ほう。それはいい事を聞いたよ。そうなれば、君も少しは人間らしくなると言う訳だ。それはぜひ、そうなってもらいたい」

 青はステーキの皿に残っているソースを舌で舐め取った。

「世迷言はもういい。早く食え。私はもう終わった。早く行こう」

 ショウがまた苦笑する。

「折角の団欒なんだがな。娘は彼氏に早く会いたいとご立腹か。父親とは悲しい役目だよ。なんてな」

 ショウが食事に集中し始める。青は綺麗になった皿に映っていた自分の顔を見詰めた。化粧を施された顔は、自分で切創を縫合した跡までも違和感なく隠していた。左右の瞳の色は、素敵だからこのままでなどとスタイリストに言われたが、その瞳の真実、殺した相手から自身の眼球が損傷していた為に奪い取ったという話をしたらどう言ったのだろうか。だが、と思う。あいつ、自分と同じ寄生虫であるB03が、今のこの姿を見たら喜ぶのだろうか。ショウからB03も人間に寄生していると聞いた時は、どうなるのだろうか、と思ったが、これはこれで悪くはないのかも知れないと今は思う。自分が雌だから女の体に入れられたようにあいつは雄だから男の体に入れられているらしい。人間らしい付き合い……。そこまで考えて皿に映る自身の顔が醜く歪んだ。そうだったな、と思う。どんなに外見、宿主を飾ったとしても、中身である自分は触手の生えた虫なのだ。交尾する事になれば、この体の口から触手を出して相手の触手と絡ませるだけだ。そこには最早宿主の美しさ、見てくれの差異などなんの関係もない。全ては無意味、と思おうとして、何かが引っ掛かった。すぐにその何かが宿主である人間と同化していっている所為だと気付く。この脳死をしていた宿主の中にある、人間が言う所の心なる物が、確実に影響を虫である自分に及ぼしている。研究施設にある飼育箱の中で聞いたいくつもの言葉。あの女、私達と話す事ができた崇子という女……。崇子に聞かされたB01の実験の話。青はそこまで考えて思考を強制的に閉じた。今は手袋で隠している左手がぎしぎしと軋り音をたてていた。そう。これは憎しみだ。B01はいい奴だった。たった三匹だけ、記憶が始まったのは、三匹しかいない狭い世界の中だった。仲良く過ごしていたんだ。そのままずっと狭い世界の中でもよかったのに……。B01が人間に寄生させられ、人間の体から出され、変態をさせられて、成虫と呼ばれる物にされて……。それを殺す為に自分はこの宿主に入って戦った……。自分が何者なのか? それは未だに分からない。分かっているのは崇子という女から聞いた情報の分だけ。

「待たせたね。どうした? 顔色が悪いが?」

 ショウの声で青は思考の雲から抜け出した。

「顔色? 分かるのか? 今はこの通り化粧をしてるんだ。食事は終わったのか?」

 ショウがああ、と頷いた。

「なら、行くぞ」

 青は勢いよく席を立った。ショウが続いて立ち上がる。

「なあ。リトルレディ。食事の感想くらい聞かせてくれないか?」

 青は額に手を当てた。

「餌の事か? 私の宿主の空腹は満たされたよ。実に数日振りにね。これでいいのか?」

 ショウが苦笑したのを見て、青はその先にショウが何かを言う事を予測すると、素早く反対の方を向いた。

「もたもたするな」

 ショウの大げさな溜息の音が聞こえた。青がレストランから出てそのまま横須賀海軍施設の門に向かって歩き出すとショウが後ろから声を掛けて来る。

「待て、待て。車を用意してある。君はここで待っていてくれ。現地まで歩きで行く気なのか?」

 青は足を止め、勢いよく振り向いた。

「気が利くじゃないか。ついでに着替えも用意しくれ。この格好じゃ何もできん。こんなひらひらの付いた服じゃ、目立ち過ぎるし動き難い」

 ショウが残念そうな顔になった。

「似合ってるんだがな。そのドレス。なんてな。大丈夫だ。いくら私でもその素敵な格好で、君を外に出す気はないよ。着替えはちゃんと用意してある。心配するな」

 青は無言のままそっぽを向くと声を出した。

「早くしろ」

 ショウの溜息の音が聞こえ、遠ざかって行く足音がそれに続いた。ショウの用意した車両は、Yナンバーではなく普通の車と同じナンバーの車両だった。青には全くどうでもいい事だったが、車に乗ってすぐにショウが自慢げに話し出したので意味が理解できた。米軍関係の車両で走るよりも一応用心の為に自前の車にしたんだよ。ショウはまるでドライブにでも行くような機嫌のよさで口を動かしながら軽快に車を走らせて行った。西に傾き始めた陽に照らされている綺麗に護岸された海際の直線道路を抜けると緩いカーブがあり、そのカーブの下、コンクリートで固められた崖の下から生えているようにそびえている瀟洒な作りのマンション。そのマンションの駐車場の空いているスペースに車を止めるとショウが言う。

「ここだ。中々いい所だろ? 東京湾が一望できる」

 青はショウの言葉を無視して車から降りた。

「どの部屋だ?」

 ショウが苦笑する。青は一々自分の態度に余計な反応をするショウを相手にしないと車中で決めていた。なんと言うのか面倒臭いのだ。

「201号室だ。二階の一番左。景色の眺めは今ひとつだが、いい選択だ。窓から飛び降りる事もできるし、防衛もし易い」

 青は足早に歩き出した。ドアの開く音がしてショウの声が追って来る。

「おいおい。君は私の後からだ。君の口調と態度でいきなり行ってはまずい。相手は一人じゃない。護衛がいる。さっき車中で話しただろう?」

 青は振り向かずに答えた。

「抵抗すれば殺すまでだ。それも車中で話したはずだが」

 乱暴にドアの閉められる音が響いたと思うと明らかに駆け足であろう足音が聞こえて来た。すぐに黒い影、ショウの背中が視界の端に入り追い抜いて行く。青の前に来ると立ちはだかるようにして振り向いた。

「流石にここは私に従ってくれないと困る。余計な犠牲は出さない主義でね。どうしても聞けないと言うなら、このプランはなしだ」

 青は顔を歪ませて笑った。

「なしか。ならば。力ずくで私を止めろ」

 青は軽く膝を曲げると左と見せかけて右前方に跳んだ。あっさりとショウの横を擦り抜けて青はショウの前に出た。

「青。いい選択だ。嬉しく思うよ。だが、もういい」

 青の背中に金属質の筒状の物が当てられていた。

「すまんな。私は君と違って用心深い。相手の調査はしてあるが、それを鵜呑みにして強硬な手段を選ぶような事はしない。それに、さっきも言ったが、余計な犠牲はいらない」

 青はにやりと笑った。

「お前を先に殺すべきだった。全く、嫌なものだ。お前を殺すのを躊躇ってしまった」

 背中から当てられていた物が離れる。

「そうだろうと思ったよ。その辺の話は後にしよう。今、私の喜びを表現したら、今度こそ本当に殺されそうだからな」

 青は黙ってショウを先に行かせると、後に続いた。マンションの入り口につくと、入り口はオートロックになっていた。ショウはここに住んでいる住人のように慣れた感じで着ている服のポケットから鍵を取り出すと番号入力ボタンの下にある鍵穴に差し込んだ。ショウが鍵を回すと自動ドアがゆっくりと開いた。ショウが階段を、と言ったので青はショウの後に続いて階段を上がった。ショウはなんの迷いもなく201号室のドアの前に来るとすぐに呼び鈴を押した。僅かな間をおいてからインターホン越しに声が聞こえて来た。

「えっと、崇子さんですか?」

 若い男の声だった。恐らく三鷹という男なのだろう。ショウが声色を変えて返事をする。

「そうだ、開けてくれ。いきなり開けて飛び掛られても困るからな」

 見事な女声だった。カメラ付きのインターホンの前には顔を見せないようにして青が立っている。こんな事で騙せる訳がないと青は思っていたが、どうやら、相手は相当な馬鹿らしい。もっとも。ショウ曰く、事前に崇子の事をじゅうぶんに調べて練習していたそうだが。潜入は大胆かつシンプルに。ショウが事前の打ち合わせの時に言っていた言葉。青は打ち合わせの時は、くだらないと罵倒したのだが、こんな事で簡単に入れるのなら、無駄がなく戦闘もないのなら、確かにこの方がいいのかも知れないと思った。

「早かったですね。今開けます」

 中から開錠をする音が聞こえる。ドアが少し開くが、ショウは動かない。

「あれ? 崇子さん?」

 中から若い男が顔を出した。青はドアの裏に隠れながら男の顔を見た。写真で見た容姿からこいつが三鷹なのだと確信した。

「すまん荷物がある。出て来てくれないか」

 男がああ、と唸る。

「ケーキですね。奮発したんですか? 一人じゃ運ぶのも大変なほど大きいのかな」

 楽しそうに弾んでいる男の声。男が全身をドアの外に出した瞬間、ショウが閃光の如き速さで動いた。素早く男の裏を取り持っていた注射器を首筋に突き刺した。男は全くなんの抵抗もできずにゆっくりと膝から崩れていった。

「さあ、リトルレディ。邪魔者は排除した。ここからが君の出番だ。私は外で待っていた方がいいかな?」

 ショウが畏まった態度を大げさに取ってみせる。青は顔を歪めて笑うとふんっと鼻で笑った。

「一緒に来い。女声は気持悪かったが、お前の手際は流石だ」

 ショウがにやりと笑った。

「これはこれはありがたきお言葉。なんてな。ちょっと待ってろ。大事な人質を作らないといけない」

 ショウが眠ったようにぐったりとしている男を後ろ手にして拘束する。野暮だがこれが一番いい、と最後にガムテープを口に巻くと男を軽々と肩に担ぎ上げた。ショウが拘束した男を玄関の脇にあったトイレの中に座らせると口を開いた。

「後は用心の為に施錠だ」

 玄関のドアを閉め鍵を掛ける。二重ロックにチェーンロック。ショウが鍵を掛け終わると言葉を続けた。

「準備完了だ。さあ、行こう」

 部屋の間取りも調べ済みだった。ショウのお陰でまるで自分が今まで住処にしていたかのように勝手が分かった。玄関から続く廊下を抜けると客間がある。そこには誰もいなかった。その奥の大きな窓のある部屋も無人。廊下から正面にある窓を見て、左右にドアが一つずつある。先に右側のドアに取り付いたショウを無視して、青は左側のドアを開けた。消えていた電灯をつけるが、中には誰もいなかった。ショウが右側のドアをノックした。

「三鷹さん? お母さん帰って来たの?」

 幼さの残る男の子の声。ショウがゆっくりと振り向いた。青は嬉しさのあまりに叫んでいた。

「久し振りだな。私だよ、B03」

 ショウが深い溜息をついた。ショウが青と声を発したが、青はドアの中から聞こえて来た声に気を取られた。

「誰? 僕の友達か何かかな。ごめん。僕は記憶喪失らしいんだ。だから……、分からない」

 青はショウの顔を見てからドアを開けようとして手を伸ばした。ショウが体を使ってそれを制すると声を出した。

「そうなのか。私達は君の知り合いだよ。部屋から出て来てくれないか」

 うん。という声に続いてドアが開く。中から痩せ過ぎとも言っていいくらい線の細い男の子が出て来た。髪が肩に掛かるくらいの長さで、色白の顔に長い睫をした大きい目。高めの鼻の下には薄いピンク色の控えめな唇。車の中で写真を見ていたし男だという事は知っていたから戸惑いはなかったが、何も聞いていなかったら女だと思うような容姿だった。

「えっと、どう挨拶すればいいのかな。久し振り、でいいのかな」

 心持ち顔を俯けて、おどおどしながらそんな事を言う。青は男の子の肩を掴んだ。瞬間、肩を掴んでいる掌から軽いが思わず手を離してしまうような刺激が走った。青が驚いて手を引くと男の子も同じ刺激を味わったのかとすんとその場に尻餅をついた。

「な、何? 今の?」

 男の子が青の事を見上げながら言う。青は顔を歪めた。

「何じゃない。私達だからだ。お前が警戒するからだよ。これで確実だ。B03。私はB02だよ。記憶喪失は分かるが、それは宿主の事なんだろ?」

 男の子が不思議そうな顔になる。

「宿主? B03?」

 青は大きな声を上げた。

「いい加減にしろ。そんな芝居はいらない。研究所の人間に言われてるのか? 今はいいんだ。自分の言葉で話せ」

 男の子が叱られている子供のような悲痛な顔になった。その顔を見て青は苛立ちを覚えた。男の子の脇の下に手を入れると、先と同じように刺激が走ったが今度はそれを無視して起き上がらせた。

「口で言って分からないのなら、今から見せてやる。私が誰か、はっきりと見れば分かるだろ」

 青は男の子の体から手を離すと自分の口に両手の指を突っ込んだ。口の脇の部分を思いっ切り指で引っ張るとごぼっと喉の奥から湿った音が鳴る。青は口の中から自身の本当の姿である、虫の姿を出して見せた。男の子の視線がはっきりと自分の姿を捉えた所で、青は体内に戻った。

「どう、だ。こ、れで、わか、わかったろ」

 言葉を発したが、体内に戻ってすぐだったので神経の把握が上手くできずに言葉がちゃんと出なかった。その辺りを接合し直してから改めて言葉を発しようとしたが、青は男の子の様子を見て言葉を変えた。

「気を失ってるのか?」

 ショウが男の子の変わりに答えた。

「そのようだ。今後はそれはやめた方がいいな。だが、ちょうどいい。お前は落ち着いた方がいい。彼を起こしたら冷静に話してみよう」

 青はショウから視線を外すと気を失って床の上に倒れ臥している男の子を見て舌打ちをした。

「意味が分からん。自分の姿を見て何をしてるんだこいつは」

 青は客間にあったソファの所に行くとどかっと腰を下ろした。

「早く起こせ」

 ショウが分かってるさ、と答えると男の子に近付いた。

「おい。少年。起きろ。大丈夫か?」

 ショウが軽く男の子の頬を叩くと男の子はすぐに目を開けた。

「あ、あの、僕は」

 ショウは頷いた。

「気を失っただけだが、大丈夫か?」

 男の子がゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫みたいです。ごめんなさい」

 ショウは気にするな、と言ってから言葉を続けた。

「そこに座れ。彼女が待ってる」

 はい、と返事をした男の子だったが、ソファに近付いて青の姿を見るとうわっ、と声を上げていた。

「なんだ! 人を見てうわっとは」

 青が睨み付けながら言うと男の子が慌てながら頭を下げた。

「ごめんなさい。さっき、ええと、あなたの口から何か変な物が出て来て。夢だと思うんだけど、それで」

 青は顔を歪めて口を開こうとした。

「私も驚いたよ。君が、そうそう、圭介君がいきなり青の顔を見た途端に絶叫して気を失ってしまったんだからね。圭介君、君、記憶を失う前にうちの娘に何かしたんじゃないだろうね?」

 圭介が首を左右にぶんぶんと振った。

「いえ、何も、いえ、多分だけど何もしてないと思います」

 ショウが大げさに安堵したという身振りをする。

「そうか。まあ、今は追及するのをやめにしよう。ところで君は記憶喪失と言ったが、何も覚えてないのかい?」

 青はショウに向かって口を開こうとしたが、圭介が話し出したので我慢した。

「はい。覚えてないです。起きたのは今日ですし。分かってるのは、ここが僕の家で、お母さんと二人で住んでて、後、三鷹さん。あれ? そういえば三鷹さんは?」

 ショウがすかさず言う。

「ああ。彼なら私達の再会の邪魔をしたくないと言って買い物に行ったよ。ちょうどよかったとも言っていた。君を一人にする訳にはいかないからね」

 圭介がそうですか、と少し不安そうな顔をする。

「すぐに帰って来るさ。心配しなさんな。そういえば今、今日起きたと行っていたが何かあったのかい?」

 圭介が頷く。

「事故にあったみたいで。ずっと眠ってたらしいです」

 ショウが難しい顔をして頷いた。

「何も覚えてない、か」

 圭介がすまなそうな顔になる。

「はい。何も。ごめんなさい」

 ショウが優しい笑みを見せる。

「そう謝るな。別に責めてる訳じゃない。だが、どうした物かな」

 ショウの視線が青に向けられる。青はふんと鼻で笑った。

「思い出させればいい。簡単だ。私と交わればいいだけだ。こいつが、嫌がっても構わない」

 青が立ち上がるとショウが圭介の前に立った。

「まあ待て。このままの方が都合がいいかも知れない。君に酷な話かも知れないが」

 ショウが言葉を切った。

「なんだ? 別に何を言われても構わん」

 ショウの表情が引き締まり黒い瞳に暗い影が落ちた。

「これを米国に渡せば、君を簡単に自由にできる。悪い話じゃないと思うが」

 ショウが途中で言葉を変えた。

「いや、やめとくか。君の表情を見れば一目瞭然だな。だが、現実はそういう事だ」

 青は冷めた目で圭介の顔を見詰めた。

「お前、どうなんだ?」

 圭介が首を傾げる。

「どう?」

 青はぶっきら棒に言った。

「どうなんだはどうなんだだ。今の状態だ」

 圭介がまた首を傾げる。

「今の状態?」 

 ショウが見詰めて来る。青は思わず視線を外していた。青の視線の片隅でショウが優しい微笑をした。

「今の生活だよ。君は今幸せかい?」

 圭介が少し迷うかのように沈黙した後にこくんと頷いた。

「まだ何も分からないけど……。お母さんは優しくしてくれるし、三鷹さんは面白いし。検査は嫌だけど、でも、幸せだと思います」

 青は顔を歪めて口を動かした。

「ショウ。私の復讐は、圭介を不幸にするよな。だが、私が復讐しなくても、圭介は不幸になるんじゃないか? 私は初めて、考えたよ。私のやろうとしている事は違うんじゃないかって」

 ショウの言葉が返って来る。

「君は……。君は寄生してから私と会って敵としてではない人間と初めて触れ合った。そして今は、初めて悩んでいるんだよ。だがね。人は悩み続ける。恐らくずっと。そして、選択をし続ける。極端に言えば、呼吸をするという事すら選択だ」

 ショウが近付いて来た。真正面から真剣な目を向けて来る。

「私は生きる為に生きて来た。だから、正直だ。自分が生き残る為なら人も平気で殺す。君はなぜ生きている? 君の望みはなんだ?」

 青は歪めていた顔をいっそう酷く歪めると頭を抱えて絶叫した。圭介を見ていて感じていた苛立ちが爆発した。

「私はこいつがこんな風に生きているのが気に食わない。どうして、私がこんななのにこいつはなんの闘争もなくこうして間抜けにしていられる? おかしいじゃないか!!!」

 青は圭介に向かった。有無を言わさずに圭介の喉元を金属製の左腕で掴むと壁に圭介を押し付けた。苦悶の表情を浮かべる圭介を更に壁に押し付け、首を締め上げた。圭介の体が少しずつ持ち上がって行く。圭介の顔色が変わって行くが青は力を緩めなかった。背中越しにショウの言葉が聞こえて来た。

「殺すのか? 私は止めない。死んだってこれにはそれなりの価値がある。それが君の望みなら好きにするがいい」

 圭介の履いているハーフパンツから液体が流れ出す。圭介が小水を漏らしていた。圭介の顔が青白くなり目から涙が溢れ出す。半開きになった口からは涎がだらだらと流れ出た。

「どうした! どうして反撃しない! お前は、お前には私と同じ力があるんだ。触手を出せ! 抵抗しろ!」

 青は圭介を後ろに向かってぶん投げた。落下した音に続いて、酷く咽て咳き込む音が聞こえて来る。青は振り返ると、両手を床に突いて嘔吐している圭介を見下ろした。

「汚らしいんだよ、お前。しょんべんまで漏らしやがってよ。飼い慣らされやがって。私の前から消えろ。今すぐ消えちまえ!!」 

 圭介はなんの反応もせずに嘔吐をし続けていた。ショウが近付いて来た。

「憎いのならそれでいい。これには君の代わりになってもらおう」 

 ショウが圭介の側にしゃがんだ。

「大丈夫か? 悪いが、そんなにゆっくりもしていられない。体を洗って着替えたら私達と一緒に来てくれ」

 ショウに助け起こされる形で圭介が立ち上がった。

「ご、めん、なさ、い」

 圭介の口から言葉が漏れる。青は反射的に振り向いていた。圭介の涙で歪む黒い瞳が空ろに青の方を見ていた。

「ごめ、ん、なさい」

 圭介が何度も苦しそうに咽ながら謝って来る。

「なんなんだお前は!!!」

 青は目の前にあったテーブルを金属製の左腕で殴り付けた。木製のテーブルは青の一撃を受けて真っ二つに割れてしまった。

「おい。青。そろそろ落ち着け。あんまり騒ぐと近所にも聞こえる。厄介事が増える可能性がある。これも連れて行くんだ。何時でも話はできる」

 青はショウを睨み付けた。

「話ができる? こいつと私が? 話なんかするか。こんなゴミ虫みたいな奴」

 ショウが青の痛烈な言葉も気にせずに厭きれた、という身振りをしてから溜息をついた。

「全く思春期の娘を持つと苦労が絶えない」

 ショウが言葉を続けようとするとショウの持っている携帯電話が鳴った。

「おっと、すまん」

 ショウがジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと通話ボタンを押した。

「私だが。……。そうか。こちらは撤収するだけだ。なるほど。はははは。それは、早い。お前達は平気なんだな。分かった。気を付けて帰れよ」

 ショウが通話を終えて携帯電話をポケットにしまった。

「青。話は後だ。急ぐぞ。研究所に行った連中からだ。正体が露見した。なんでも、元大上私兵隊の隊長さん自らこちらに向かっているらしい」

 青はショウの顔を見詰めた。

「大上私兵隊?」

 ショウが圭介を伴って歩き出す。

「知っているのか? まあ、その話は後だ。君も支度、と言っても何もないな。少しだけ待っていてくれ」

 ショウと圭介が部屋から出て行く。青はソファに腰を下ろすと天井を見上げた。脳裏に圭介、B03の姿が浮かび上がって来る。青はその姿を振り払うように立ち上がった。車に先に行ってしまおうと思い廊下に向かって歩き出す。数歩足を進めた所で目前にあったドアが開いた。このドアは確か……、と思った時にはドアの中から男が姿を現していた。鉢合わせの格好になったが、青は冷静に相手を見た。相手は先に拘束したはずの三鷹であった。どうやって拘束から抜け出したのかは分からなかったが、そんな事はどうでもよかった。

「お前……。B02……、なのか?」

 三鷹が酷く驚いた顔をする。青はゆっくりと頷いた。

「私を知っているのか。私はお前など知らん。大人しくしてればいい物を」

 どうして自分を知っているのかなどと詮索する気など更々なかった。青は圭介に対する苛立ちをぶつける相手がいた事に歓喜した。青は無言のまま相手との間合いを詰めると、左拳を振るった。普通の人間であればこれで終わり。脳漿をぶちまけて倒れるだけだ。研究所からの追っ手や今なら分かるが、米国からの追っ手などだったらかわすだろう。それでも。避けられても数撃。青に操られる人間の身体能力は、相当に鍛錬をしている人間が相手でもそれを凌駕する。だが、仮に相手が青と同等の力を持っていたとしても。決定的に相手と違うのは、青には恐れがない、という点だった。己の肉体が破損する事を青は恐れない。腕が千切れようが足が吹き飛ぼうがそんな物はすぐに直せる。なくなったら、この左腕のように代価品にすればいい。宿主である人間の生命さえ無事ならば、四肢を引き千切られようと半身を失おうと平気なのだ。ショウに負けたのは、宿主の体調が悪かった所為。飲まず食わずで彷徨っていて何時もの力が出なかっただけの事。三食食事をとってじゅうぶんに休息をとっている今のこの体ならショウと再戦をしても勝つ自信がある。三鷹が青の拳をかわした。青は顔が綻ぶのを感じながら下に避けたのを見て鉄槌を振り下ろす。腕を頭の上で交差させる格好で三鷹がそれを受け止めた。

「つつ。これは効くな。流石、ブロワーだ。なあ、どうしてここに来た?」

 効くななどと言いながら余裕があるのかそんな言葉を三鷹が掛けて来た。青は三鷹の言葉を無視して三鷹の顔面目掛けて蹴りを出す。三鷹が後ろにさがってこれをかわす。だが、三鷹の後ろは玄関で、それ以上さがる事ができなかった。青は素早く三鷹に近付くと再び左拳を振るう。砕かれてしまった左腕のかわりに塒にしようと忍び込んだ場所にあった金属片をかき集めて作った腕。触手で繋ぎ合わされているそれは、元々あった腕と比べてもなんらの遜色もなく動いている。それどころか金属の比重と頑丈さが思わぬ武器として役に立っていた。青の拳を三鷹が右に動いてかわした。拳が木製の玄関ドアを貫いてしまう。青はすぐに腕を抜こうとしたが、その僅かな隙に三鷹が後ろに回り腕を首に巻き付けて来た。

「おっと、動かないで欲しいな。流石のブロワーも首を取られたら終わりだよ」

 青は強引に腕を引き抜くと体を回転させて三鷹を壁に打ち付けた。相当な衝撃があるはずだが三鷹は怯む様子をみせずに首を締め上げて来る。

「無駄だね。これぐらいじゃ参らない。諦めないと本当に」

 青は宿主の呼吸が困難になって来ている事を自覚した。こんな攻め方であっさりと自分が負けそうになっている事が許せなかった。

「それならば、これならどうだ?」

 青は体の向きを変えると部屋の方に向かって駆け出した。目指すは外の景色を眺める事ができる大きな窓だった。二階という高さが低過ぎて気に食わないが、下がアスファルトなどであれば問題はない。この三鷹の攻撃を凌ぐ事ができればそれでよかった。部屋の中を駆け抜け窓を突き破る。ガラスの破片が宿主の体に新たな傷を作って行く。胸くらいの高さのあるバルコニーの柵をジャンプして飛び越える。三鷹はその間も全く離れようとはせずに首を締め上げて来ていた。落下が始まったと思うとすぐに衝撃があり落下が止まった。

「ふう。流石に効くよ。だけど。植え込みに落ちたのがラッキーだった。私はまだまだ戦える」

 青の目論見は失敗していた。三鷹は離れる事なく背中にくっ付いていた。

「なんだお前は! どうして離れない」

 圧迫されている喉から掠れた声が出る。

「君が大人しくすれば離れる。圭介君の事があるからね。負ける訳には行かないんだ」

 青は立ち上がろうとした。だが、足が三鷹の足に絡め取られていた。

「おっとっと。そうはいかない。今度は目の前の崖から飛び降りられそうだ」

 宿主が意識を失った。だが、生命には問題ない。仕方なしに青は意識のなくなった宿主の体を脳をかえさずに直接コントロールする事にした。だが、脳をかえさないとなると著しく運動能力が低下してしまう。それに神経に直接刺激を与えなければならないので、その伝達路を確保する時間が必要だった。直接神経を刺激するには、脊髄などに触手を触れさせる必要がある。宿主の肉体にも大きな負担が掛かってしまう。青は宿主の体の中で絶叫していた。口がないのでそれは声になる事などはなかったが。

「落ちたか。だが、まだまだ抵抗できるはず。だったらこっちも直接やるまでだよ」

 宿主越しに重い衝撃が伝わって来る。外の状況がまだ分からないが、恐らく自分が寄生している部位、青は宿主である人間の胃の斜め後ろ背骨の横辺りにいたのだが、そこを人体越しに殴っているのだろう。今まで受けた事のない衝撃が何度も襲って来て青は意識を失いそうになった。どうしてこんな事ができる? と思いながら移動しようとしていると三鷹の声が体の外から聞こえて来た

「驚いているかな。君達の事は研究してるからね。君が今どこにいるか、大体予想はできてる。変態前の君達は、とても弱い。これぐらいの衝撃でも相当に辛いはず。諦めて大人しくするかい?」

 返事のしようもない青に三鷹はそんな台詞を吐いて来た。青は宿主の呼吸が自由になっている事に気付いた。脳に刺激を与え、目を覚まさせる。宿主はすぐに気絶から目覚めてくれた。だが、すぐには行動には移らない。もっと三鷹を油断させてから一気にこの状況を覆す。青は回復した人体の感覚を研ぎ澄まして三鷹の隙を伺った。青の耳に数台の車が到着したと思しき音が聞こえて来た。

「崇子さんか?」

 三鷹の声がする。青は崇子だと? と思ったが今は三鷹を倒す事だけに集中する事にした。数人分の足音が聞こえて来た。青は三鷹の仲間が本当に来ていたら、今以上に状況が悪くなると判断して反撃に移る事にした。目を開けると、車のライトなのか、自分の方に幾つかの光が向けられている事に気付いた。

「ああ~! 三鷹! 三鷹みっけ」

 この状況に全く似つかわしくない緊張感に欠ける女の子の声。

「大上、き、あっと響子お嬢様?」

 三鷹の素っ頓狂な声。

「何々~? 何してんのよ、三鷹~」

 三鷹が何かを答えるよりも早く全身黒尽くめの屈強な男達が走り寄って来た。

「二人を拘束よ。そっちの女は多分ブロワーでしょ。用心用心ね」

 明るく女の子の声が言い放つと男達が腕を伸ばして来る。青は素早く起き上がり、男達の腕から逃れたが、更に数十人に及ぶ黒尽くめの男達が青と三鷹を取り囲むようにしているのに気付いた。青はゆっくりと周囲を見回した。周りを囲む男達の後ろ、黒いライトバンの屋根の上に黒いドレスを着た女の子が立っているのを見付けた。青は顔を歪ませてほくそ笑むとダッシュした。男達の間を擦り抜け、頭の上を飛び越え、ライトバンのボンネットを蹴って飛翔。女の子の顔がはっきりと見えて来る。長い光沢のある栗色の髪の下に意志の強そうな太い眉毛と眦の上がった目。漆黒を思わせる色の瞳は動揺を孕む事なく青の目に向けられていた。

「はやっ。網々!!」

 どこまでも緊張感のない……。と青が思った時には、数回の発砲音が響き、無数の網が青の体を捉えていた。放たれたであろう網の勢いで青は駐車場のアスファルトの上に転がされた。

「ふっふ~ん。これでお終いかな。崇子姉が来たら褒めてもらえるかにゃかにゃ」

 網の中から出ようともがく青だったが、網ごと男達に担がれ、ライトバンの後ろに備え付けれていた檻の中に入れられてしまった。網の中から尚も脱出をしようともがいていると三鷹の声が聞こえて来た。

「どういう事ですかこれは?」

 ようやく網から出る事ができた青は、銀色に鈍く光る格子越しに女の子と三鷹が向かい合って立っているのを見た。

「うんうん。三鷹元気そう」

 三鷹がずれた発言にも怯まずに食って掛かる。

「お嬢様。どういう事ですか?」

 女の子が右手を前に出して人差し指だけをぴんと立てた。

「三鷹~。ちゃんと挨拶なさい。挨拶は大事なんだからね」

 三鷹が急に素直になってぺこりとお辞儀する。

「お久し振りです。響子お嬢様」

 響子お嬢様がうんうんと二回頷いた。

「三鷹もね。それで、どういう事かって言うとね。崇子姉と圭介に会いに来たのよ」

 三鷹が周囲に顔を巡らせた。

「こんな大人数でですか?」

 響子が頷く。

「そうよ」

 三鷹が更に言う。

「檻やネットランチャーを持って?」

 響子がくんと胸を張って言う。

「そうよ。何か問題でも?」

 三鷹が小さく首を左右に振った。

「いえ。こちらも助かったので問題はないですが」

 響子が青の方に顔を向けた。

「あれ、噂のブロワーよね?」

 三鷹も青の方に顔を向けて来る。

「さあ、私にはなんの事だか。あれは、多分、ただの押し込み強盗か何かだと思います」

 三鷹は真剣な表情だった。響子がおもむろに三鷹のおでこにでこぴんを入れる。

「うわっ。お嬢様、いきなり」

 響子がていっ、ていっ、とでこぴんの雨を降らせる。三鷹も腕でおでこを庇ったり、ダッキングやスウェーバックを駆使してかわすが、響子も負けてはいない。結局、執念深く執拗にでこぴんをされた三鷹のおでこが真っ赤に染まった。三鷹も響子も息を切らせ始める。

「お、お嬢様、降参です。降参します」

 三鷹の泣きが入った所で響子が声高に言う。

「み~た~か~。ぜえぜえ。最初から素直に降参しなさいよ。指は痛いし、ぜえぜえ。息が切れたじゃないの」

 荒くなった呼吸を整えながら響子が檻に近付いて来た。

「もういいわ。どうせ崇子姉に義理立てして何も言わないつもりなんだから。こっちに直接聞いちゃうも~ん」

 三鷹が響子の前に立ちはだかった。

「だめです。危険ですから、近付かないで下さい」

 響子の顔がにや~んと至極嬉しそうな笑顔になった。

「三鷹~。ねえねえ、どうしてそんな事を言うの?」

 嬉しいと思いっ切り表情で語りながら、無理に感情を抑えているのがばればれな口調で響子が問う。三鷹が真面目な声で応じた。

「押し込み強盗と言っても中々凶暴で腕もたちます。檻の中にいますが何をするか分かりませんから」

 響子ががっくーんという効果音付きで頭を垂れた。もう、全然なってないわ、とその寂しげな姿が語っていた。

「三鷹。そこは、ストレートにこうよ。響子お嬢様の事が心配ですから、と。そしたら私は答えるわ。三鷹。崇子姉がブロワーを盗んでいなくなった事に対して私が何もしなかったのは、あなたや崇子姉がいざとなったら必ず私の味方になってくれてると信じていたからよ、と。更に私は言うわね。今、三鷹が私を庇ってくれたのが何よりの証拠よ、と」

 響子が言い終わると勢いよく顔を上げる。その顔には落胆の色はなく、何か、大きな仕事をやり遂げたような、清々しささえ感じさせる表情が浮かんでいた。三鷹が笑い声を上げた。

「全く。響子お嬢様は変わらないですね。崇子さんがいなかったら間違いなくお嬢様の元を離れたりはしませんでしたよ。ですが。今は私は響子お嬢様の部下ではありません。あれは単なる押し込み強盗ですよ」

 響子が大きく頷いた。

「三鷹って相変わらず空気が読めないわね。だけど、あなたの立場は理解したわよ。それなら、こう言うわ。うちの組織を舐めないで欲しいわ。情報は把握済み。今夜動きがある事は知ってたのよ。うふ」

 三鷹がやっぱり、と呟いた。響子がその呟きに好反応を示す。

「な~にがやっぱりなの!!! だったら最初からそう言え、とか思ったんでしょ? ええそうよ、どうせ、私は、崇子姉の身が心配で出張って来たのよ。ふん~だ。笑いたいなら笑えばいいわ。でもでも、あれを捕まえたのは私の手柄ですからね~。べーだ」

 響子があっかんべーと舌を出した。三鷹が深い溜息をつく。

「本当に相変わらずです……。こうなったら少し甘えさせてもらいます。お嬢様。逃げてなければ、まだ部屋の中に男が一人残っています。それと、圭介君も。力を貸してもらえませんか?」

 響子の口調が急に大人しくなった。

「圭介がいるの? でも、事故にあって、脳死状態だったはずだわ。自宅でみてるの?」

 三鷹が静かに言う。

「いえ。圭介君は目覚めています。脳死状態ではありません」

 響子の射るような視線が青に向けられた。

「そういう事なのね。崇子姉……。許せない。いくら私が寛大で寛容で脳内の比率が優しさ八十パーセントだったとしても」

 三鷹がやはり静かな声で言葉を紡いだ。

「崇子さんは、圭介君の事で本当に悩んで苦しんだんです。圭介君を自分の運転ミスで交通事故に巻き込んでしまって……。圭介君を何よりも大切にしていた人です。お嬢様。崇子さんを責めないであげて下さい」

 響子が三鷹の言葉がまるで聞こえていないように言葉を続けた。

「圭介がいなくなって崇子姉の一番側にいられるのは私だけになったのに。圭介の為に全部やったのね。私の側を離れていなくなって。許せな~い。ああ~、もう、絶対に許さないんだから」

 三鷹が怪訝な声を出した。

「あの、お嬢様」

 響子は青に視線を向けながら最早聞こえないくらいの小さな声で何事かをぶつぶつと呟いている。

「お嬢様。聞いて下さい、お嬢様」

 三鷹が大きな声を出すと響子がびくっと小さく痙攣してから顔を三鷹の方に向けた。

「何よ」

 三鷹がおずおずと言葉を出した。

「あの、お嬢様は何に怒ってるんです? 最初は圭介君をその、脳死状態から無理やり起こした事に怒ってると思ったのですが。今の言葉を聞いているとちょっと違うような。確か、お嬢様は、圭介君の事が大好きで、婚約もしたいとか言ってて」

 響子が首を左右に大きくぶんぶんと振った。

「ふん。あれは方便よ。私は崇子姉が好きなの。圭介と結婚すれば、義理とはいえ娘になれるでしょ。そう思っただけよ。まあ、圭介も崇子姉に似てるから嫌いと言う訳じゃないわね。けど、あれは男よ。私の脳内辞書に男が恋愛対象などという文字はないわ!!」

 響子の言葉が余程重かったのか三鷹が搾り出すような声で言う。

「もちろん、その事は、崇子さんは知らないんですよね?」

 響子が三鷹の頭をすぱーんと張った。

「言える訳ないじゃない。私にだってシャイな一面くらいあるのよ。三鷹。今の事崇子姉に言ったら逆さ磔&水責めの刑よ」

 三鷹が張られて下がった頭をゆっくりと上げた。

「分かりました。他人の色恋に口を出すほど私も野暮じゃありません。しっかし、お嬢様が百合っ子だったとは……」

 百合っ子言うな~、と今度は響子のローキックが三鷹の足を襲った。かなりの威力があるのか、三鷹が体勢を崩してアスファルトに両手をつく。

「すいません。以後は絶対にこの言葉は口にしません……。いや、ちょっと待てよ」

 三鷹が立ち上がると響子から数歩離れた距離まで進んだ。

「お嬢様。申し訳ありませんが、現代は真に残酷な時代です。味方だと思っていた者があっさりと裏切ったり、信頼していた仲間が実は敵の諜報員だったりと」

 響子が凛とした眉毛を右の方だけ上に上げた。

「あん? 何が言いたいのよ」

 三鷹がさらりと言う。

「お嬢様。私は今、お嬢様のウィークポイントを知ってしまったのです。崇子さんに今の話は聞かせられませんよねぇ」

 響子がしまった、という顔になった。

「み、三鷹。お前、ま、まさか」

 三鷹がにやりと笑って頷いた。

「その、まさかでございますよ、お嬢様。三鷹は再度言いますが、今はもうお嬢様の部下ではありません。ですから」

 三鷹の言葉は最後まで語られる事はなかった。響子の全体重がのったフライングクロスチョップが三鷹の首に直撃していた。

「元部下の分際で。相手をよく見てからにする事ね。私は、今は、大上財閥第十五代目の当主よ。お前如きの男に脅される謂れなどないのよ!!」

 げーほげーほと咽ながら三鷹が言う。

「げほげほ。冗談ですよ、冗談。ここはそうやって盛り上げる所じゃないですか。げほげほ」

 響子が神妙な面持ちになった。

「三鷹。ごめん。そんな三鷹の面白心を理解できなかったわ。ごめん、ほんとにごめん」

 二階から落ちてもほとんどノーダメージの三鷹である。回復は早かった。

「分かって頂けたのなら結構ですよ。それで、真面目な話の方ですが、家の中にいるであろう男の件、お願いします」

 響子が力強く頷いた。

「任せておけい。おい、お前ら、あの窓の割れている部屋を制圧しろ。発砲は許可する。完全武装で行って来い」

 はっ、という声がそこここから返って来る。

「お嬢様。銃器の使用はここではまずいですよ」

 響子が悲しそうな顔になった。

「平気よ。この国のどこで戦争をやったって、私は許されてしまうの……」

 ああ、そんな自分が切ないの、と響子の顔が更に語る。全身黒尽くめの男達が数台あった黒のライトバンに近付き、中から黒光りする何やら物騒な物を持ち出すと一目散にマンションに向かって駆けて行く。男達の後姿を見送っていた響子が不意にてくてくと歩き出した。数台止まっているライトバンの後方、陽が沈み、完全な暗がりと化した駐車場の隅の方に向かって行く。唐突になんの前触れもなく足を止めると長い髪をかき上げてから右手を闇に向かってびしっと伸ばした。一本だけ伸びた人差し指の先に向かって大音声でのたまう。

「どうだ? これで出て来られるだろう?」

 暗がりの中から笑い声が聞こえて来る。檻の中の青にはその声がショウの物である事がすぐに分かった。

「何をしたいんだ、お前ら……」

 青は先ほどから続いていた三鷹と響子のやりとりと、それをずっと黙って見ていたショウに対して心底厭きれたという思いを込めて呟いた。暗がりの中から、ショウとショウに銀色のデザートイーグルをこめかみに突き付けられている圭介の姿が現れる。ショウの目が青を見る。青はそそっと視線を外した。

「冷たいな。君の為にこうして出て来たというのに」

 青はなんの反応も示さなかった。響子が言った。

「圭介をどうする気なのかしら?」

 余裕綽々という態度を見せている響子。対するショウも笑顔を見せた。

「これは、君の知り合いなのだろう? それに、これの中身はブロワーだ。天下の大上財閥の当主なら垂涎物じゃないかな」

 三鷹がそっと響子の側に立った。響子が伸していた右手を天高く突き上げた。

「天下の大上財閥とは高く買ってくれてるわね。いいでしょう。要件は何?」

 響子が右手を下ろすとショウが口を開く。

「君が捕らえた彼女を返せ。これと交換だ」

 ショウが銃で圭介を小突く。圭介が泣きそうな顔を更に泣きそうにした。響子が悲しそうな顔になった。

「あなた、何者?」

 ショウが静かな声で言う。

「ショウザスナイパー。恥ずかしいがこの名前なら聞いた事があるんじゃないかな」

 響子が小首を傾げる。三鷹が声を上げた。

「聞いた事ありますよ。傭兵です。高潔にして残虐。ショウザスナイパー。その狙撃の腕を慕って集まった傭兵達を率いてかなり大規模な活動をしている。一昨年あった中東某国での空港占拠事件。あれをやったのも彼らだと聞いています」

 ショウが慇懃無礼にお辞儀をしてみせる。

「その通り。そんな男だよ」

 響子がふんと鼻で笑った。

「ショウザスパイダー? 聞いた事ない。そんな蜘蛛だかなんだか分からない名前を語られても困るわ」

 三鷹が響子の言葉を遮ってスナイパーです、と突っ込む。響子がへ? と小首を傾げた。

「うっほん。失礼。言い間違えてしまったわ。ショウザサスペンダー。そんな大物のあなたがどうしてあの女の子に拘るのかしらね。ブロワーならその手にあるでしょう。交換なんてしたって私にもあなたにもなんのメリットもないのよ」

 今度は誰も突っ込まなかった。ショウが言葉を出した。

「それが故の悲しそうなお顔かな、お嬢様。心使いはありがたいが、それはいらぬ詮索だよ。そのかわいいお顔が消し飛ばない内に私の要求を聞いた方がいい。君のお顔は私の仲間のスコープにはっきりと映っているのだからね」

 三鷹が周囲に目を走らせる。

「スナイパーですか?」

 ショウが頷いた。

「ああ。かなりの腕だよ。五十口径だ。食らったら跡形もない」

 響子が頭を垂れた。抵抗ができないと諦めたのか、許しを懇願する為なのか、それは分からなかった。束の間の沈黙の後、くつくつと笑う声が地の底から響くように聞こえて来る。ゆっくりと顔を上げて行く響子。その顔は心底おかしそうに笑っていた。

「くっくっく。あははは。うふふふ。ふひひひ。はぁー。面白い。笑い過ぎてぶひってなっちゃうじゃない。ぶひっ。あうっ。ほら~、なった~。恥ずかしいのよ、年頃の乙女なんだから。ショウザスペクトロン。撃ちなさいよ。今すぐ。そのスナイパーとやらに命じなさい」

 三鷹がお嬢様と大きな声を出した。ショウが溜息をつく。

「撃てないとお思いかな? 私がそんなに情にもろいと?」

 響子が壮絶な笑みを顔に浮かべた。

「違うわ。大違うわよ。私には弾が当たらないの。それが大上財閥当主の背負った宿命。何人たりとも私を殺す事などはできはしないわ」

 ショウが大笑した。

「なるほど。流石十三才の乙女にして大上の当主になっただけの事はある。だが。その自信も、いや、信仰と言った方がこの国では合うかな。それも撃ち砕かれる」

 ショウが空に向けてデザートイーグルを一発撃った。瞬間。響子の足元のアスファルトが爆ぜた。響子が足元を見てから後ろを振り向いた。虚空を見詰めてからまたショウの方に顔を戻した。

「ほら、ね。外れた。もっと撃てばいいのに。この外れは、大きいわよ」

 ヘリコプターのローターが風を叩く音が遠くから聞こえて来た。

「おお。あの音はアパッチかな。なるほど。私の目の前にいるお嬢様は大した物だ」

 ショウが言葉を切ってから青の方を見た。

「青。どうやら手詰まりらしい。どうした物かな?」

 青はショウの顔を見てから圭介の顔を見た。相変わらず圭介は泣きそうな情けない顔をしている。青は溜息混じりに呟くように言った。

「そいつを殺せ。それでいい」

 ショウが頷く。

「いい選択だ。そうなれば君の価値が上がる。だが、本当にそれでいいのか?」

 青は無言のままそっぽを向いて返事とした。ショウが圭介を跪かせた。

「よかろう。では」

 デザートイーグルが圭介の後頭部に当てられる。圭介は恐怖の所為か、真っ白な顔を俯けて声も出さずに震えていた。ショウの人差し指がゆっくりと引き金を引き絞って行く。一発の銃声が鳴り響いた。青はちっと舌打ちをした。金属がぶつかり合う高い音が鳴ってショウの腕からデザートイーグルが吹き飛んだ。二発目の銃声が鳴る。ショウが素早く圭介を起こすと盾にするように羽交い絞めにした。

「まあまあの腕だな。だが。二発目はいただけない。これの所為で動揺したかな」

 ショウが圭介を離した。崩れ落ちるようにへたり込む圭介を放っておいて破損したデザートイーグルを拾い上げる。

「使い物にならないな。気に入っていたのだが残念だ」

 銃の残骸をホルスターにしまうとショウは圭介の側に戻った。

「君の味方が来たようだぞ。さて」

 ショウが圭介を起こすとまた羽交い絞めにした。駐車場に一台の車が入って来る。エンジン音が全く聞こえないのは、その車がハイブリットカーである事を物語っていた。車はショウと圭介の近くで止まった。ドアがゆっくりと開くと一人の女が降りて来た。後ろで括られている黒髪がふわりと揺れる。着ている白衣の襟からその白さに負けないくらいの色白の首筋が見える。きつく吊り上った目は、圭介に似てなくもないが、その性質が圭介とは違って荒い物だと主張しているかのようだった。真赤なルージュに彩られた唇が歪む。

「崇子、会いたかったぞ!!」

 青は叫んでいた。檻の中にいるのがもどかしい。今すぐにでも飛び掛りたい衝動に駆られる。崇子が青の言葉を無視して圭介の側に行く。

「圭介。許して頂戴。でも、大丈夫よ。すぐに元に戻してあげるからね」

 崇子が圭介に触れるぐらいの距離に行く。腹の底に響くような銃声が鳴った。圭介の体がびくんと痙攣し、ほぼ同時にショウの体も衝撃に震えた。ショウが圭介を離す。圭介がまるで操り手の手から離れた人形のように力なく倒れた。

「響子。圭介を研究所へ。急げ」

 響子がは、はい、と返事をしてすぐに黒のライトバンに乗り込んだ。一分も経たないうちに響子がライトバンから降りて来る。

「崇子姉、手配したわよ」

 すぐにヘリコプターの飛行音が近付いて来た。崇子は圭介を抱き上げると両膝を突いて崇子の方を見上げているショウを見た。

「死なないんだろう? まだ。防弾装備だな。それでいい。お前は楽には殺さないよ。こっちが片付いたら付き合ってやる」

 ヘリコプターが駐車場の空いているスペースに降りて来る。三鷹がローターの作り出す強風に煽られながら崇子の側に行った。

「崇子さん。ここは私に任せて圭介君と行って下さい」

 崇子が答える。

「いや、お前が行ってくれ。B02の事もある。ここには私が残る。圭介は大丈夫だと思うが、頼む」

 はい、と三鷹が応じて圭介を受け取る。着陸したヘリコプターに圭介を抱えた三鷹が乗り込んだ。ヘリコプターは二人を収容するとすぐに離陸して行く。ヘリコプターの爆音が徐々に遠ざかって行き、静かになっていく駐車場に崇子の声が響いた。

「響子。ありがとう。礼を言っておく。お前のお陰で圭介が助かった。正直お前とは会いたくなかったのだが、この再開は喜んでおくよ」

 響子が全身で嬉しい、と語るように軽やかにステップを踏みながら崇子に近付いた。

「た~か~こ~ね~え~。会いたかった~」

 響子が三段跳びのようにしてほっぷすってぷじゃんぷっと飛んだ。崇子に飛び付こうとしたらしいが、崇子はするりと響子をかわすとショウの側に行った。ショウがゆっくりと立ち上がる。

「アナコンダの抜き撃ちか。流石に効く」

 崇子が表情を全く変えないで応じた。

「チェイタックを使ってもあの状態ではな。この距離なら外さないだろう?」

 ショウがやれやれという顔をした。

「最初から息子の体を撃っても構わないと思ってたのか? 全くクレージーだ」

 崇子が言う。

「構わないとは思っていたが、狙い所は考えていたさ。だからだよ」

 ショウが何かを言おうとしたが、崇子がそれを遮るように先に口を動かした。

「響子。再会の喜びは後で語れ。この男を拘束。それで終わりだ」

 崇子が青の方に顔を向けた。青は目が合うとにやりと顔を歪ませて笑った。

「B02はうちでもらうぞ。いいな?」

 響子がにんまりと微笑んだ。

「私も一緒に行きます~」

 崇子が諦めた顔をする。

「来るなと行っても来るのだろう?」

 響子がはいですよ~、と黄色い悲鳴を上げた。

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