第53話

 新魔王の軍勢が放った災厄は、等しくヴェナントを蹂躙したのが現実だ。

 ラパロ辺境伯が住まう〈白竜眠りしヴェナール城〉にも、それは凄惨な爪痕を残していた。

 軒並み調度品が倒れ、ランプの灯りまで失われ暗がりとなった、城内の一室。

 かつて窓が穿たれていたあたりの場所には、天蓋付きの優美なベッドが設置されていた。射しこむ陽光に照らされて、毎朝ベッドに腰掛けた愛娘が、眠たいまぶたをこすりこすり、「おはよう」の口づけを欠かすことがなかったあの場所だ。

 あの場所のはずだったのに。


「…………おお、おお………………シャ……ル…………シャル……ル……そんなところに……隠れていないで、さあ……出ておいで……」


 芸術王と呼ばれてきた男――ラパロ・ヨネ・ヴェナント辺境伯は、かつてベッドがあった場所まで、力なく這って近付いていく。

 暗い影を落とす愛娘の部屋は、巨大なドラゴンが爪で切り裂いたかのような惨状だった。もはや窓どころか、壁そのものが貫き破られ、そこから覗ける青空だけが明るい外界をラパロに見せつけてくる。


「シャル…………シャルル……マキナ…………こんなの嘘だと…………なぜだ、なぜこの僕が生きのびて、こんな命よりも価値ある宝物きみが……こんな、こんな――こんな結末など僕はッ!!」


 つい今朝まで愛娘がいたはずのベッドは、崩れた瓦礫の山で押し潰されていた。難病を抱え生まれついたシャルルマキナは、一日の大半をベッドで過ごしてきた。強い薬の服用なしに、同世代の娘たちと同様に飛び跳ねて遊ぶ〝同じ〟すら彼女は与えられなかったのだ。


「そんな……僕が間違ったのか……? 一体どこで間違った? この戦が始まるとわかった時、真っ先にシャルを抱いて地下に避難させておくべきだったのか? それとも、それとも――」


 うずたかく積み上がった石材の破片を、ラパロが素手で掘り起こし始める。軟弱な指先が擦りむけ、すぐに使いものにならなくなるが、もはや自分の怪我など知ったことではない。

 シャルのベッドにできあがった、瓦礫の城を前に。射しこんでくる太陽のまばゆさのせいか、ラパロがそれに気付けたのはようやくこの時だ。

 転がり落ちてきた石材の破片を目で追うと、瓦礫の頂上に、見知らぬ少女が立っていた。薄衣一枚まとうだけの、娘とちょうど同じくらいの女の子だ。


「…………あら、なにもの、なの……お嬢ちゃん…………そんなとこにいちゃ、あぶないよ?」


 まるでうわごとのように、問いかけてしまっていた。その長く伸びすさんだ白髪を見れば、何ものなのかわかろうものなのに。

 狼狽えが震えになって、それが止まらなくなった腕をもう片方で押さえつける。膝立ちのまま後ずさろうとして、それでも愛娘がいた場所から離れるのはもっと恐ろしく許されないことで。こうも歯を食い縛っていては、満足に話すこともできないのに。


「――――なるほどぉ! あなたがようやくこの芸術王を裁きに来たのですか、イデアリスの〈使徒〉よ! あたくしの前に現れるのが遅すぎたくらいですねぃ。……そうか、裁きとは、これがそうなのか…………はは、なんという罰を……あなたというものは――――ッ!!」


 瓦礫の頂上より睥睨する〈使徒〉は、凍り付くような恐ろしい目で、取り乱すラパロを射止め続けたまま。


「ならば、何故このあたくしを――あたくしだけを罰しなかったのですか! シャルルマキナは、あの子だけは何の罪もないのに…………既にあらぬ罪を背負わされて育ってきたのに……どうして今さら……おお…………」


 ラパロの胸には、祈る神がいなかった。

 どうせなら等しき死を、我にも与えたもう。ラパロは〈使徒〉の細い足首に縋り付くも、不敬に踏み付けられることもなく、彼女から氷の視線だけを浴びせ続けられる。

 〈使徒〉が堅く引き結んでいた唇を開いたのは、ラパロが訴える言葉もなくしてからのこと。


【――――で、いつまでそうやって道化を演じ続けるつもりじゃ、ラパロよ】


 あまりにもあっけからんとして、そんな子どもの顔から吐きかけるような声色ではなかった。

 だが、ラパロにそうは聞こえなかった。まるで心臓を掴み取られたかのような恐怖心に、ヒッと喉が悲鳴を上げる。


【この〈使徒〉は神の端末ぞ、見くびる方が不思議じゃ。そなたがこことは別の世界より来たりて、別の世界の文化を持ち込んだ〝転生者〟であることなどわらわにはお見通しじゃ】


「そんな……どうやってそれを……ナラクが君を復活させたのは三年前だ! 僕は十年以上前にこの世界に来てるのに、君が僕の秘密を知ってるなんて時系列的に矛盾してるじゃないか!」


 こんな台詞、洗いざらい喋ってしまったも同然だ。アイドリア・クラウン普及の立役者としてのラパロ・ヨナ・ヴェナント辺境伯の真実――それは、さる別の世界より、アイドル文化を持ち込んだ先駆者という点にある。それをひた隠しにしたまま名を上げ、ヴェナント前領主の娘と結ばれた過去を、当時存在しなかった相手に見透かされてしまったのは、やはり相手が正真正銘の神だからなのか。


【…………はあ、そうやってキモい黒幕キャラを演じ続けられるそなたのメンタリティも、ある意味賞賛に値するのう。ま、そういう芸風も節度をたもつのじゃぞ? いくら魔王に向けられた憎悪を和らげるためとはいえ、やりすぎてはそなた自身が暗黒面に取り込まれかねん】


 何やら人差し指をおっ立てて、人生の師みたいな講釈を垂れてくる〈使徒〉。そんな姿を目の当たりにしては、〈使徒〉側の事情も何も知らぬラパロも絶句するしかなくて。

 すると、〈使徒〉は何のつもりなのか、途方に暮れて膝折るラパロの懐へと入り込んできた。

 まるで自分をこうやって抱きしめろと言わんばかりの、鼻先ほどの距離まで――


【それと、そなたへの罰はな、もうしばし保留にしておいてやろう。いや、ある意味これ自体がそなたへの罰だったのかもしれぬがの――――――】


 〈使徒〉の長い髪の毛から、不思議と嗅ぎ慣れたにおいがして。それに何故か嬉しそうに、どことなくこそばゆそうにまぶたを閉じてみせる彼女。

 わけがわからないままに、ラパロの胸元で突然、〈使徒〉の小さな体が崩れ落ちてきた。

 慌てて肩を抱き留めていた。柔らかく細い髪がふわりと舞い、破られた壁穴から注ぐ太陽を浴びてキラキラと輝く。

 眠るように目を閉じていた〈使徒〉の髪が、いつの間にか金色の巻き毛に変わっていた。

 忘れるものか――これは見覚えのある、愛娘の、シャルルマキナの――


「おお――――――なんと、シャル――――――!?」


 己が胸に舞い戻ってきた愛娘の、変わりない小さな肩を抱きすくめて。


「…………えっ、なあに……………………あ、いた…………いたいって、もぉ、ぱぱ――」


 耳元で聞こえてくるあの声も、確かにあの子のもので。

 でも、まだ顔を見てやることができなくて。今は自分の面があまりに酷い有り様だろうから、顔を見せてやろうにも父親としての体面が損なわれかねない。

 それでもこの時ばかりは、たとえ芸術王ラパロの仮面が剥がれ落ちようとも、大切なもののため思うがままに振る舞うしかなかったのだ。

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