第42話

 夕刻の訪れとともに、弱々しい琥珀色の陽が射しこむ窓辺の部屋。窓を開け放ったままではかすかな肌寒さを感じる程度には、季節が冬へと傾きかけていた。

 ナラクたちの自宅――今はアイドルギルド〈ペンタミュール商会〉の事務所となった、あの宿屋に戻ってからのことだ。

 ナラクはミューゼタニアをベッドに腰かけさせ、ラパロから回収した魔工石を首枷に触れさせる。首枷をゆっくりとなぞり探っていくと、ちょうど一周したところで、魔力の粒にまで分解し、そのまま消滅してしまった。


「……随分と長い間、お前を待たせちまったな。よかった、こいつを外してやることができて。これでお前はもう自由だ」


 ミュゼの白い首筋にまだかすかな痕が残っており、ナラクはそこをそっとさすってやった。

 ミュゼはしばらくの間、何も言わずにナラクに身を任せて、ただうっとりと目を窄めていた。だが、徐々にその瞳に緋の光が点り、


「…………ごめんね、まおーさま。がまん、むり。……もうぜったい、むり。えいっ」


 さすっていた手をあっさり掴み取られて、そのまま彼女のベッドに押し倒されてしまった。

 シャルからミュゼに贈られた縫いぐるみたちに背を預け、ナラクは彼女の衝動を受け入れてやることにした。

 ゆらりと顔を近づけてきたミュゼの目つきは、もう先ほどまでの彼女ではなくて。獲物のにおいを嗅ぎ取ろうと大きく息を吸い込み、ナラクの首筋に近付いていく。

 吸血鬼の牙が、ナラクに突き立てられる。血肉を分け与えた存在なのに、まるでこちらの命を吸い取ろうとするかのような本能行動。爛々たる血の色を虹彩にたぎらせたミュゼが、さらに血を求めてむしゃぶりついてくる。


「んっ………………はぁ……まおー、さま…………あふ………………ん……」


 血を啜る合間の息継ぎが嬌声めいた吐息となって、堪え難い背徳感として押し寄せてくる。だがナラクは、彼女の抑えきれない興奮がいつか留まるよう、背を撫でてやることしかできなくて。

 しばらくそうしている内に、ミュゼの瞳に光が戻ってくる。その肩から力が抜けたのを察して、彼女を引き剥がしてやった。


「あの……ミュゼわまたイケナイことしてしまいました。でも、ごちそうさまでした。まおーさまのお味、しゅごかった…………ほへぇ」


 などと、まだ夢見心地で惚けているようだ。口もとに血糊を残したこんな顔、とてもユーに見せられたものではない。ハンカチで拭ってやるのに手慣れてきたのは自分だけだろう。


「……これが最後の晩餐、のつもりはないからな。この魔王が、絶対にそうはさせん」


「はい、まおーさま。ミュゼはいつだって、まおーさまの血肉とともに在ります、ので」


 ベッドにちょこんと座ると、魔王をじっと見上げてくる。


「……まおーさま、とても暗いお顔。そんなにミュゼに悪いとお考えなら、罰ゲームなのです」


 再び飛びかかってきたミュゼが、今度はナラクの腰に手を回し、頬ずりをした。そしてナラクを上目づかいで見上げると、瞳を潤ませ、それから恍惚の笑みを浮かべる。


「まおーさまっ。こ、今度いつか、今日のよりもっと激しいのが、したい……」


 その目つきは、完全に捕食者のものだった。というか、この時点で既にエナジードレインを受けているわけで。


「あ、ああ………………おれさまとしては構わんが、お互い、節度を守ってな」


 ミュゼの吸血衝動の矛先が、第三者に向けられないようにするために必要な犠牲だ。ただ、いくらナラクが不死者とはいえ、ミュゼの方がどこまで際限なくなるのだろうと、さすがに危機感を覚えてしまう。


「はい、期待でおっぱいが膨らみまくり、だといいな、です」


 こんな、それなりに微笑ましいと言えるミュゼとの日常を、もうこれ以上続けることができなくなった。アイドリア・クラウンという文化を通じて人間たちにも愛されるようになったこの吸血鬼は、今その命運の分かれ道に立っているからだ。


「ミュゼには辛い役割を押しつけてしまうことになった……………………すまん」


 もうミュゼには、ナラクの思惑をすべて伝え終えていた。それを無茶と知って、それでもこの吸血鬼は王の意のままに従うと、けなげに答えてくれたのだ。


「そんな、あやまらないでいいです。まおーさまは、ミュゼのプロデューサーさまなので。アイドルのお仕事なら、ミュゼわどんなヨゴレでも」


「そんな真似はさせない。……させるつもりなんてなかったんだ。お前に汚れ仕事をさせるのは、もうこれっきりだ」


 彼女は強い。こんな見てくれよりも、ずっと、ずっと。人間どもが策略の道具に利用しようと目論み、新しい魔界の王がその力を欲しがるほどに、彼女は可能性を秘めた存在なのだ。

 ただナラクの選択が彼女を裏切ることにならないか、それだけが心配だっただけで。


「ミュゼわ、まおーさまのためなら、なんだってします。どんなことだって、してみせます」

 首枷の痕すらも、愛おしそうになぞる指先。そして胸元で手を重ね、主君への深い忠誠の念

を示す。


「このミューゼタニアは、魔界で最もおそろしい魔物がひとり。〈いと旧きもの〉の眷属。かの暗黒騎士ガベルファウストすら、我の力をおそれるでしょう」


 魔王に跪くものども。魔界を統べるナラクデウスに命の火を委ね、敵を噛み砕く牙になると誓ったものども。


「魔王さまに、我が力をご覧にいれましょう。必ずや、あなたの野望を叶えてみせます」


 だが、こんな光景はもはや、遠い過去の残影そのものだ。


「――――――――なんて、うそ、です」


 なのに、予想だにしなかったタイミングで、そんな拍子抜けするような台詞がミューゼタニアから返ってきて。

 思いがけない言葉に彼女の顔を見返すと、今までナラクに向けたことがないような、それもミュゼがユーに向ける時みたいな、悪戯めいた顔立ちがそこにあって。


「なんもでもは、ミュゼにもできません。ねえ……ミュゼをうらぎらないで、ね?」


 そんな、ナラクにしてみればあまりにも尊い表情が、堰を切ったように一瞬で崩れ去る。


「さからって……ごめん、なさい。でも、本当は、いや。こんなこと、これで最後、なので……ちゃんとわたしをむかえにきてくれなかったら、あなたをゆるさない、ので……ゆるさない……ぜったいにゆるさない……ので……」


 溢れ出てきた涙が、ミュゼの整った顔立ちをさらにあどけなく、ぐちゃぐちゃに汚していく。


「……あなただけが、わたしの希望なのでっ」


 まるで親との別れを前にした子どもの泣き顔だと、ろくに知りもしないのに、この胸が痛みに突き動かされて。


「アイドルわ、みんなの希望になれなくちゃ、うそ。だったら、ミュゼの希望は? ……わかりますか? ちゃんと、ミューゼタニアの希望で…………まおーさまだけが、わたしの希望で、いてください、ね……?」


 かけてやれる言葉が、もう何も出てこなくなって。

 これはきっと、一種の魔術か何かに似ていた。アイドルという視点を得て世界を知ったこの吸血鬼と、奈落の底から太陽の下に這い出てきた魔王と。人まねをするにはいびつな両者が、こうして反応し合って、それが魔法か奇跡かに思える涙へと行き着いた。

 もし希望なんていう形すらないものが存在するのなら、こうして何か同士が反応し合って、自然と生まれてくるものなのだろうか。

 それを言葉にしてやることがまだ難しくて、ナラクにはミューゼタニアを、ただ好きに、思うままに泣かせてやることしかできなかった。

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