第六楽章 ――とくと見たか魔王よ、これこそがヒトの持つ〝愛〟の力だ

第41話

 ナラクの意識を蝕む呪いは、どす黒く恐ろしい闇に始まり、そしてその闇は歌によって打ち払われた。

 もうあの闇が〈使徒〉によってもたらされたものだったのか、それとも自分自身が生まれ持った闇だったのかも、定かではなくなっていた。


 ――ピ・ウル・エイデ/アシュタル・メイゼ/ミクタル・ノイエン・ミシュマルタム――


 ナラクが声なき悲鳴を上げるたびに、恐怖心や苦痛を打ち消そうと聞こえてくるあの歌声。


 ――ピ・シャステ・エイデ/マイノ・フォット・エミネ?/ナアス・マイナ・ラプタリーチェ・スネム・エン?


 誰のものでもない、何のためでもないこの歌は、ナラクの闇に光をもたらした。

 そして、歌だけが呪いに打ち勝ち、安らぎをもたらしてくれるものだと確信したころにはもう、あの歌の続きが聞こえてこなくなっていた。

 歌は、ナラクの夢の中だけで繰り返される、かりそめの救いになった。苦痛から逃れたい一心で深層意識が見せる免疫反応、あるいは幻想――子どもじみた言い方をすれば〝おまじない〟みたいなものだ。


 ――ぴ・うる・えーで/あちゅたる・めいぜ/みくたる・のいえん・みちゅまるたむ――


 でも、あのとき聞こえてきたこの歌声は、ナラクの知っているものとは違う誰か――おそらく小さな女の子の声で。たどたどしいながらも、ナラクの覚えている歌詞をひたむきに真似ようとしている。

 それにナラクは今、夢を見ているわけではない。


 あの古びた遺跡の最奥部。誰もいなくなった、真っ暗な祭壇の下。もう何千年と冷えきったままの石床の上で、一糸まとわぬ姿の魔王ナラクデウスが、凍りついたように眠り続けていた。

 なのに、損なわれたナラクの体温を、この時あり得ない熱が暖めていた。腹の下あたりに感じる、奇妙な密着感と重み。何か柔らかくて小さくて重たいものが、自分にのしかかっているのを感じて。


『――ぴ・ちゃすて・えーで/まいの・ほっと・えみね/なーす・まいな・らぷた――』


 そう喉を振るうたびに、腹の上でゆさゆさと揺れる暖かいもの。


「……らぷた、んーと、なんなのでした? この先の歌詞、ミュゼにわうまく、ききとれなかったのです」


 でも、そこで疑問形になるのは何故だ。経緯も何も知らないまま問われたところで、ナラクには答えようがない。

 状況がわからずに上体を起こしたところで――


「ぴぎゃ――――――っ!?」


 ごちんと、何ものかのおでこと激突した。


「…………ぬ……………………なんだ、貴様……」


 目覚めたばかりのナラクは視界もおぼろげで、夜目もまだきかず、眼前に揺らぐのは何ものかの生白い肌だけ。

 ただ、一目でそれが女だとわかった。暗闇を切り裂く白の輪郭。くびれた腰つきに、丸みを帯びた部分は乳房だろう。薄桃色の小花が二つ、つんと咲いている。

 ナラクと同様、一糸まとわぬその女は、何がどうしてこうなったのか、こちらの下腹部にまたがっていた。人界の因習になぞらえるなら、さながら男女がまぐわっているかのような体勢で。

 ナラク自身も裸体であることをようやく自覚できたのが、この時だった。とはいえ、魔王である自分がそのような愚行に至った記憶などなく。壇上を見上げれど、祭壇に輝いていたあの宝玉は、既に光を失っていた。

 あれからどれほどの時間が流れたのだろうか。あたりを見渡せども、倒したはずの勇者エクスの姿はどこにも見当たらない。それどころか自らをイデアリスの〈使徒〉などと名乗った、あの暗黒神の紛いものもだ。


「……ええい、暑苦しい。何ものだ貴様は。何故そこにいるのだ、我から離れよ――」


 理解が及ばず、自分に跨がっていた少女の細首に手を伸ばす。

 だが、その喉頸を掴み上げるはずだった手が、少女自身に掴み返されてしまった。


「まおーさま、おねだりなしの、おさわりわ、いけないのです。まだミュゼわ、生まれたて、ですので? ふわわ……」


 またもや疑問形で返されてしまった。それに、この魔王に全裸で跨がって堂々の大あくびという、冒涜的な恐怖心の欠如。


 ――生まれたて? 何を言っているのだ、この娘は。冒険者か……いや、この伝わってくる魔力の流れ――魔界のものか。


 意図するものがわからないまま、裸体の少女にされるがままに手を押し返されてしまう。


「まって、おまち、ください? まおーさま。もうちょっとでミュゼ、出られ、ますので?」


 と、少女はナラクの胸板に手を付いて上体を支えると、下半身を重たそうに持ち上げた。ナラクの腰に跨がっていた、肉付きのいい尻が離れる。触れていた熱が損なわれると同時に、ナラク自身の肉がぶちりと千切れ、削げるかのような痛みが走った。


「ぐ――――――ぁっ?!」


「あ………………ごめん、なさいです? 生まれるの、ちょっぴりはやすぎましたのです?」


 そのまま後ろによろけてしまい、すてん、と尻餅をつく少女。

 一方で、自分の下腹のあたりだ。そこにあったはずの皮膚や肉がこそげ、真っ赤な血がにじみ出ているではないか。


「貴様、この遺跡のどこから現れたかと思ったが…………よもや、この魔王自身の血肉から這い出てきたとはな。さては、夢魔の類か」


 たとえば肉体を持たない精霊属ならば、特定の贄を媒介にこうして受肉することも不思議ではない。

 だが、少女は手をふるふると振って否定し、それから思い出したようにナラクに跪いてみせた。


「んと、ミュゼわ、さきゅばす、ちがうのです。とてもすごい、ばんぱいや? んーと……?」


 人差し指を立て、ナラクに何か説明しようと試みるが、この少女は言葉もたどたどしく、まったく要領を得ない。


「――答えよ、娘。この我を魔界の王と知りながら、なにゆえに我の血肉をかすめ取ったか」


 そう問い詰めるナラクだが、まだ起き上がることすらかなわない。どれほどの期間、この遺跡で眠っていたのだろうか。体の衰弱が激しく、血潮を巡る魔力の発露すら感じ取れなくなっている。


「ミュゼ、ひとりであそんでました。すてきなお歌? が、きこえてきました。お歌の聞こえるほうをめざしたら、まおーさまの、たましい? を、みつけたです。まおーさまのからだ? どこかなってさがしてみたら、ミュゼ、こんなとこに生まれてしまいました」


 やはり要領を得ない説明だが、意味は伝わった。つまり、このミュゼと自称する少女は、肉体を離れさまよっていたナラクを見つけ出したと言っているのだ。そしてナラクの霊魂を肉体へと押し戻したところ、自分までも受肉して生まれ落ちてしまったのだと。


「この我を長き眠りから解き放った――そう言いたいのだな、ミュゼと名乗りし、〈いと旧きもの〉の娘よ」


「れへへ、そんなかんじ、なのです。われわ、みゅーぜたにあ・ぶるたらく。〈異境〉をたびする、ばんぱいあ・ぷりんせす、なのです」


 魔界の王の御前にしては、だらしなく締まりのない態度の少女。だが、このミューゼタニアとやらは魔王に跪き、そして自らを〈異境〉の住人――それも吸血鬼の姫だと明かしたのだ。

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