第37話
ヴェナント領――南方国境付近の〈未踏領地〉に突如として現れたのは、魔界からきたる軍勢だった。それがヴェナントを経由して北上――その先にあるリュクテア本国へ攻め入ろうとしているのだと、トロネ代行が訴え出たのだ。
「し、新、魔王……であると? そのような恐ろしいものがまだ魔界にいたとは、ナラクゥめ……何故これまであたくしに黙っておったのだ!」
愚かしくもここでナラクの名を持ち出されても、女神教徒が相手では状況が悪化するだけだというのに。
案の定、新魔王の名を耳にした途端に形勢が逆転した。勝ち誇った笑みを浮かべるトロネ代行を前に、ヴェナント側は動揺の声を抑えられなくなって。
「――――お静かに、女神のかわいそうな息子たちよ!」
再び打ち下ろされる錫杖。白装束の聖女は、力尽くで男たちから静寂を勝ち取ってしまう。
「そうですね、〝ナラク〟。辺境伯殿は、かつての力を失ったという元・魔王ナラクデウスを、このヴェナントにて飼い慣らしておられるとか? 大陸に名を馳せた芸術王にしても、いささか悪趣味すぎませんこと?」
そのあざ笑いも、あくまで上品に。
「ええい、何を仰りたいのだ! ナラクデウスは、このあたくしが、無償の愛をもって服従させたのですよ! そしてかの魔王は遂に真の愛に目覚め、アイドルたちをステージへと送り出したのでえす! すばらしい、素晴らしいことじゃないか!! それを、なんですって? いまだに闘技場戦争を拒絶する野蛮人どもが、いまさら魔王を差し出せとでも脅すのか!?」
「かような場で、御託を仰いますな。……〝愛〟と? んふふふ、男の口で語る愛の、なんと不浄なことでありましょうか」
一笑に付したトロネが、錫杖を白騎士に返すと、そのままラパロが座す壇上へとゆっくり上がっていく。
が、慌てふためくラパロの前に辿り着くまでもなく、段下を振り返り声を張り上げた。
「――聞きなさい、ヴェナントの息子たちよ。かの新魔王が、あえてヴェナントを経由地に選んだ目的はひとつです。それは、囚われの王級吸血鬼――ミューゼタニアの奪還作戦」
王級吸血鬼ミューゼタニア。確かに、トロネはそう言い放ったのだ。
「偽りの〈使徒〉なるものに烙印を押された魔王、ナラクデウスなど、我らとしてはもはや用済み――我が女神の愛娘たちが、わざわざ労力を割くほどの政治価値はありません。しかし、ミューゼタニアなら別でしょう。それほどまでに事態が差し迫っていると、辺境伯はまだお気付きになりませんか?」
トロネが再び壇上を振り返れば、ラパロが耐えきれず肩をいきらせ立ち上がった。
「それは言いがかりですぞ! あたくしは、傷付いていたあの吸血鬼に恩情を与えてやったにすぎんのです! 魔王もその付属品だ。……とはいえ、二匹合わせて、いまや我がヴェナントの臣民には違いないですが? ここで手のひらを返すほど、あたくしは愚かな君主ではない!」
「恐ろしい力を持つ吸血鬼の姫。それをおとなしく新魔王に引き渡さねばヴェナントは戦火に包まれ、引き渡したとしても新魔王軍はヴェナントを植民地化する……ああ、実に由々しき事態なのですよ。哀れなヴェナントは君主の愚行と政治判断の誤りにより、聖なる騎士と魔界の騎士のどちらに付くべきかすらも決められないのでした」
そう嘆いてみせるトロネに、ラパロは遂に激高した。
「ああっ、もう口うるさいったら――早々に立ち去りなさい! ほら、憲兵はそいつらをつまみ出しなさいよ。この国はね、あんたらみたいな胡散臭い宗教屋の出る幕じゃないってのよ!」
遅れて我に返った憲兵たちが、慌てふためきつつも命に従い使節団の二人を取り囲む。
「あらあら、辺境伯はそう出るので。つまらない人間で。でも結構――実に結構です」
トロネ代行は含み笑いを残しつつ、周りの憲兵相手に錫杖を構える白騎士を制止してみせる。
「では、これはリュクテアとしての最後通牒ですが。ミューゼタニアをわたくしどもに引き渡していただければ、代わりに我が聖堂騎士の軍勢――一万騎によって、かの新魔王ガベルファウストどもを蹴散らしてご覧にいれましょう」
トロネ代行からの提案は、ミュゼをリュクテア側に売れと――あるいは、新魔王側にミュゼを引き渡すなと。思惑どおりに振る舞わなければ、ヴェナントが滅ぶのをリュクテアは見過ごすだろうと。そうはっきりと、領主であるラパロに選択を突きつけるものだった。
「さあ、大いなるリュクテアは、ヴェナントにいくばくかの時間を差し上げましょう。ごゆるりと悩まれるがよろしいですが、〝あちら〟さまは果たして、いつまで待ってくれるやら?」
暗に、新魔王軍はいつでもヴェナントに攻め込むだろうと、そうほのめかして。
「さあ、あなたも一国の君主ならば、清く正しい選択を。そして小官は、女神エフメローゼの教えに則った、正しい正しい裁定を下すまで、ですので――」
憲兵らに連れられ、扉の向こうへと消えていくトロネ代行たち。余裕をたたえた彼女の大声がまだ届いてきて、ナラクにはそれがただの挑発や方便には聞こえなかったのだ。
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