第29話
「――いいから入って来いよミュゼ。そんな怯えなくても大丈夫だぞ」
何が大丈夫なのかを説明できないのに、どうやって信用してもらえるのやら。仕方ないので、根拠はこの笑顔だとばかりに、ミュゼを手招きしてやる。
ラパロの居城から自宅に帰着して、一階の仮設ステージにユーフレティカを案内した時のことだ。留守番させていたはずのミュゼの気配がなく、また何かやらかしたのかと、ひとまず厨房に向かおうとしたところで。
「こわいのです」
さて、扉の向こうの暗闇から覗き込んでいたそれは、いつも以上に口数が短くなってしまった王級吸血鬼嬢であり。
「こわ、です」
ミュゼが小刻みに震えている。涙目になっている。暗闇に二つの赤い瞳がギラついている。
――いや、怖いのはどっちかっていうとお前なのだが。
まだレッスン着姿なので、こちらの不在中にここで自己レッスンを続けていたのだろう。そこを帰宅したナラクだったが、ユーフレティカを伴っていたことが災いしたか。
「ミュゼ、昨日の今日なのはわかるが、こいつ相手にあれほど勇敢に立ち向かってみせたお前が、今さらそこまで怯える必要なんてないぞ」
そう諭してやるが、ミュゼのこの態度は何か妙だった。
――ミュゼはおれを守るためなら、どんな強敵が襲いかかろうと恐れなかったはず。それが、今回は一体どうしちまったんだ。
思いあたる節といえば、彼女が味わわされたユーフレティカの圧倒的な強さだ。だが、相手がどんな怪物だったとしても、泣くほど怯えるなんてミュゼらしくなかった。
「それにこいつとは休戦協定を結んだ。とりあえず、いきなり斬りかかるのはナシで、ヴェナントにいる間はもう直接やり合わない、って約束だ」
「……あのね、ぼくは〝こいつ〟じゃないんだけど。ユーと略された方がまだ救いがある」
「それよりもまず、ユーはミュゼを救ってやってくれ」
「その子はキミの部下だろ。まるでぼくが泣かせちゃったみたいに言わないでよ、カッコだけの魔王のくせに!」
「だから泣かせた張本人がお前だって言ってんだよ、この引きこもり勇者が!」
何やら夫婦喧嘩みたくいがみ合い、互いに一歩も引かず鼻先を付き合わせれば、さすがに慌てふためいたミュゼがようやく顔を覗かせた。ただ泣き顔だったはずのミュゼなのに、何故だか不機嫌そうな目つきでユーどころかナラクまで睨まれてしまう。
「だいじょうぶ、なのれす。これゎただの思い出し泣き、なのれす…………まぉ……さまの、ばか……ふん!」
何やらごにょごにょ呟くと、鼻を鳴らせてそっぽを向いてしまうミュゼである。やはりミュゼとユーの和解は困難なのかと、ナラクは頭を抱えるしかない。
――しかし、あのミュゼが思い出し泣きをするなんてな。昨日ユーにこっぴどくやられちまったのが、そこまで悔しかったのか?
確かに、昨日の騒動からミューゼタニアの様子がどこかおかしかった。
仮面の剣士との大立ち回りに敗れてから、ようやく肉体が再生して彼女が目覚めたのが今朝のこと。ナラクが三人分の朝食をこしらえたあと、着飾り方もろくに知らなかったユーのための衣装選びやら化粧やらに孤軍奮闘している間も、ミュゼは一心不乱にダンスレッスンを続けていた。まるでユーフレティカの存在を認識したくないかのように、無の境地へと至りそうな集中力で。
そう振り返ってみれば、ナラクに思い当たる要因がひとつ。
「吸血鬼の中でも、ミュゼみたいな王級吸血鬼ってやつはな、どっちかっていうと精霊なんかに近い種族なんだ」
「…………精霊? それって、つまり彼女は霊的な存在、って意味で言ってるの?」
「ああ、霊魂が肉体に縛られないって意味ではな」
かつては敵同志だったユーフレティカにミュゼの秘密を語るのも癪だったが、それを知られたところで剣を向ける大義がこの元・勇者にはない。
「王級吸血鬼たちは、〈異境〉なんて呼ばれてる別世界にある本体と好きに入れ替われるらしい。だから、いつでもコウモリに変身できるし、おれさまとは違った意味で不死には違いねえんだが……」
そこまで話したところで、ナラクはようやくある事実に行き当たる。
「……そうか、ミュゼよ。お前は肉体の〝よみがえり〟をやるのは初めてだったな」
よみがえり――確か王級吸血鬼は、そんな固有能力を生まれ持っていた。
本来は〈異境〉なる霊的世界の住人である彼女らは、こちら側の世界では物理的に滅びることがない。ただ、ミューゼタニア・ブルタラクは、まだまだ幼く経験の薄い王級吸血鬼だ。生まれて初めて肉体が消滅する感覚を味わった彼女に、滅びへの恐怖心が芽生えても不思議ではない。
そう考えれば、大丈夫だ――などと無責任な言葉をかけてはやれなくなって。
「……色々とすまなかったな、ミュゼよ。それもこれも、このおれが自分の身すら守れねえほど衰えてしまったせいだ。そもそもステージに災いを呼び込んだ元凶がおれだしな」
率直に詫びるしかなかった。
ステージの主役はあくまでアイドルだと、いつも囃し立ててきたのは自分だ。なのに、結局ミュゼを導いてやれないのは、どう足掻こうと魔王たる己が因果なのだろうか、と。
「……信じがたいな。いまのナラクデウスは、女の子に慕われやすい星の下にでもいるのか」
と、まだ扉の向こうから出てくるのを躊躇っていたミュゼの前に、ユーがずかずかと近付いていく。表情は決して笑っていないが、ミュゼにいきなり襲いかかる雰囲気でもない。
「昨日は悪かった、なんて言うつもりはないよ、吸血鬼のキミ。ぼくは自分の信念に従って戦ったまでさ。この紋章を宿す限り、ぼくはぼくであることを放棄することはできない」
額を覆うティアラを外すと、髪の結び目を窮屈そうに解いて。
聞こえてきた息をのむ声は、ミュゼ自身のものだ。そういえば、ユーフレティカの正体が勇者エクスであることを、彼女にまだ教えていなかったのだ。
「――そう、ぼくの正体は、キミたちの敵である勇者だ。だから、今は休戦中でも、ぼくはいつか必ずキミの大好きな王さまをやっつける」
そんな力のこもった声とともに、何のつもりなのかユーが扉を唐突に開け放つ。
「ひゃあっ――――――?!」
迫るユーに、悲鳴を上げてしまうミュゼ。
「そして、ナラクデウスが倒されたその次は、キミの番だ――」
それは、感覚が追い付かないほどの現象だった。
ぽかんとした顔をしたままのミュゼ。その手首が、ユーによって無理やり掴み上げられていたのだ。
こいつ、この期に及んでまだ――と、ナラクは制止しようにも、かつてのように自由にならない四肢が、反応が追いつかず硬直するのだけを思い知らされる。
それが杞憂だったと気付けたときには、引き寄せられたミュゼがユーの胸にいた。
「わ…………? …………わわ? なにをする、むぎゅ――」
両者には身長差があるおかげで、小さなミュゼがユーに――具体的にはその豊満な乳房に埋まる構図に収まって。
背に手が回され、もう片方が髪を優しく撫でる。さながら母親が娘を慈しむような光景をいきなりおっぱじめられては、制止するつもりだったナラクも立ち止まるほかない。
「お、脅かせやがって! いったいそれは何の真似だ、ユーフレティカ」
目を白黒とさせるミュゼを抱きすくめたまま振り返ったユーが、真顔で「そんなこともわからないのか?」みたいな失望の色を浮かべてきたせいで、呆れて二の句が継げなくなった。
「フフ…………とくと見るがいい魔王よ、これこそがヒトの持つ〝愛〟の力だ。愛、勇気、そして許し。ぼくたちはたとえ剣がなくとも、こうして敵を倒すことができる」
「――――――――はあ!?」
――おいおい、ナニ言っちゃってんだ、このポンコツ勇者は。
なのに大真面目なしたり顔を送り付けてくる元・勇者の胸元で、ミュゼがみるみる頬を沸騰させていくのが見えてしまって。
「は……わ、わ、わ?! やめ、やめるのです…………やめて。もういぢめないで」
藻掻いて抵抗するも力なさげだし、そうこうしているうちに、そっと唇が寄せられる。
「わかってる、もうあんなことしないよ。吸血鬼なのに、ふふ……髪の毛がふわふわで、とてもイイにおいがする。やっぱり魔物でも女の子なんだね。おとなしくしてるキミって、とてもかわいらしい。よし、これからはぼくとちょっとずつ仲良しになろう」
ミュゼの生白い額にやさしく刻まれた、薄桃色の紅。一瞬でこの人間に籠絡されつつあるミュゼは、ほうほうの体で逃げ出すことすらかなわなくなっている。
――忘れてたが、考えてみりゃこいつは人界の大英雄だった。まさか、てめえの王子様スキルと立場を悪用して、これまでさんざ女をたらし込んできたんじゃねえだろうな……。
芸術文化が活発なヴェナントでも、男装して主役を演じる歌劇女優がいる。そして彼女らの女性人気は、男性のそれを上回るほどなのだ。
ただ、そんな役柄を台本抜きに見せつけられては、もはや生まれながらの役者だと認めざるを得なくて。
「ナラクの計らいでね、しばらくこのおうちにお邪魔させてもらうことになったんだ。キミたちが本当に人間と共存していけるかどうか。それを一番近くで見定めさせてもらったほうが世界のためになるって、ぼくはもう気付いてしまったから。……こんなぼくのわがままを認めてくれるかい、ミュゼ?」
さながら求婚でもするかのような所作のユーに、身を離して躊躇いがちに後ずさるミュゼ。
「ああ、どうしましょう、まおーさま……。ミュゼわ……ミュゼわ……アイドルなのに、アイドルなのに……こんなにもイケナイ恋を……してしまったのれすぅ――――」
すぐに腰砕けになってしまい。
途端に慌てふためいたユーフレティカの腕の中で、遂に昇天するミューゼタニアだった。
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