第28話

 シャルの寝室を離れたあと、ユーフレティカと肩を並べ、居城の通路を戻る。

 石造りの冷たい壁には十歩おきに小穴が穿たれ、ラパロが大陸中からかき集めたらしき絵画や陶芸品などが所狭しと飾られている。また天井には色ガラスのはめ込まれた天窓が設えられ、さながら女神教の礼拝堂を思わせる光の演出だ――まあ、わざわざ城の廊下でここまでの派手をやる悪趣味さが、芸術王ラパロの芸術王たる所以だが。


「――で、ゲス領主殿はうまく騙せたか、新人アイドルのユーフレティカ・アールビィよ? まさかおれだけ子守を命じられるとは想定外だったが、ラパロの野郎、まだお前のことを疑ってるかもしれん。まあ、その雰囲気だと、なんの問題もなかったようでなによりだが」


 隣で彼女が素知らぬ顔をしているため、新人アイドルとしての領主への謁見をやり遂げたのだと受け止める。ちなみに〝アールビィ〟は、勇者の素性を隠すためにつけた偽名だ。


「その名で呼ばれても振り返れる自信がないし、なにより胸が痛む。ただ、おまえのおかげでぼくの正体を伏せることができたことは感謝している。あのラパロ辺境伯もまったく感付いていないみたいだったからね」


 この人間が魔王に対してまで感謝を述べるのは、別段珍しいことではなかった。融通のきかない馬鹿正直で、冗談も皮肉も口にせず、常に善意に則った不合理な生き方しかできない愚者。


「他人を欺いた程度で胸を痛めるような人間が、なぜ正体を隠す必要がある? 仮面を付けてまで他人を演じる意味が、おれさまにゃ理解不能だ」


 今もこうして魔王を包み隠さずに生き、それどころかかつての敵である人間の前で新しい姿を演じる――それがナラクだ。どれほど人間たちから弾圧を受けようと、アイドリア・クラウンのプロデューサーたろうとする意志を曲げるつもりはない。


「…………それは……すまない。できれば誰にも話したくないことなんだ」


 それほどの苦悩でもあるのか、ユーはそれっきり俯いて目を逸らしてしまった。

 仮面の剣士の正体は成長した勇者エクスで、しかも実は世に知られていたものとは真逆の性別だった。

 あの当時の勇者が男を騙った理屈なら、ナラクも知っていた。敗北した勇者が、大戦後も魔王への妄執に囚われ続けてきた理屈も理解はできる。

 だが、額にある〈聖者の紋章〉を今になって隠そうとし、黒髪の女剣士に変装してまで暗躍してきた理屈となれば別だ。


「でも、どうしてそんなことを聞く? おまえ、そんなにぼくのことを知りたいのか?」


 と、さっきまで目も合わせようとしなかったくせに、途端に上目づかいでこちらを釘付けにしてくる。

 長く可憐な睫毛が、瞬きに揺れる。射し込む窓明かりを浴びれば、まるで翅を休める蝶だ、なんて形容しても様になる眺め。


「おれが知る必要があることはな、今さら現れたユーフレティカって人間が、ミュゼのアイドル活動を邪魔しないこと――ただそれだけだ」


 そう、ミュゼの邪魔は誰にもさせない。己を慕うひとりぼっちの吸血鬼を、あのアイドリア・クラウンの舞台にのし上がらせてみせるとナラクは誓ったのだから。


「だったら、ぼくにこんな茶番をいつまで続けさせるつもりなんだ?」


 この善人面から茶番などと切り替えされるとは、我ながら思ってもみなかった。ようやく思考の切り替えができるくらいには回復できたのか。自分を暗殺しかけた人間が一夜明けて、それなりに現実を割り切れるようになれたのなら、彼女に自宅を一部屋貸した甲斐もある。


「あー、そうだな。お前には、ミュゼと一緒に何日かレッスンを受けてもらって。脳みそに剣技しか詰まってねえお前がアイドルとしてまったく使いもんにならねえことを、そこでしこたま思い知ってもらって――」


 わざとらしく指折りして数えながら、悪意を込めた将来計画を突きつけてやる。


「なにっ――――――!?」


 首のうしろで腕でも組みながら、素知らぬ顔をして先を行ってやる。


「――そんでもって、志半ばにアイドリア・クラウンの道を挫折した哀れな娘として、鞄一つ下げたユーフレティカが田舎に帰る場面で、このクソ短い英雄譚は大団円を迎えるって寸法だ」


「おまえ、やっぱりぼくを馬鹿にして愉しんでるじゃないか!」


「へいへい。その細っこい首で支えていやがる頭を使いたまえよ、人間。ごく自然な流れでヴェナントを去りたけりゃ、必要なのはそういうごく自然なシナリオだろうが。だいたいな、領主の城であそこまでの騒動を起こしたんだ。お前はもうお尋ね者なんだぞ」


 昨日からそこかしこに憲兵が増員され、町中が緊張に張り詰めていた。まだ潜伏中の賊が捕らえられるまで、ヴェナントの出入りも当面は制限される見込みだ。

 正直ナラクとしては、アイドルプロデューサーという己が立場を利用して、恨みを買いにくい手段でこの元・勇者を厄介払いしたい――という打算が半分くらい。残りの半分は――今はさておき。


「ああ、それとも何か? ユーフレティカ殿はまだヴェナントに居座って、このおれさまへのいちゃもんを続けたいってか?」


「あたりまえだ! ぼくはリュクテアとはもう無関係だが、かといって打倒魔王を諦めた覚えなんてない。おまえや、あの吸血鬼をこんなところで野放しにしておけるものか」


 とはいえ、呪詛にでも取り憑かれていたような表情は幾分落ち着いて、昨日ほどには剣幕に熱が籠もらないユーフレティカ。


「でも、今おまえのことは置いておく。ぼくにはまず、ラパロ辺境伯を裁く義務がある」


 向けられたのは、目を逸らすなと言わんばかりの視線。言葉に嘘偽りない証拠だ。


「……裁くのはヴェナントの司法官の仕事だ、この非文明人め。それに、おれたちの事情にまで首を突っ込むなと忠告したはずだが? ったく、とんだお人好し勇者だぜ。ミュゼの首枷にまで気付いていやがったとは」


 そう、これは思わぬ誤算だった。ユーフレティカは、ミュゼが呪詛の首枷に囚われていることを、あのステージの時点でとっくに見抜いていたのだ。


「おまえたちがあの男に弱みを握られているのなら、ぼくが倒すべき順序も明らかだ」


 そう宣いながら、皮肉も何もあったものじゃない、純然たる闘争心を見せつけてくれる。


「それに、ここで人の犯した悪事を見逃せば……ぼくを選んでくれた紋章の聖者テュテスを裏切ることになる」


 テュテス――紋章の聖者。勇者候補だったリュクテア王家の男子たち、その誰ひとりとして見そめることなく、先王の妾の娘だったユーフレティカを選んだという、神話世界の聖者だ。ナラクにも見える概念ではないから、いかなる存在なのかは知るよしもないが、宿主に勇者としての力を授ける見返りに、人生を賭けた寵愛を求めるのだという。問題は、その聖者様とやらが煩悩にまみれた女性らしく、おかげでユーフレティカ嬢の人格形成に多大な影響を及ぼしたのは火を見るよりも明らかで。


「そうかよ、そいつはありがたいこったね。で、またその聖者とやらの力を解放しておれと対峙しても、今度は三年前のようには行かねえぜ? この世の〈摂理ルール〉を犯すような真似をすりゃ、今度こそ、ぜってえに〝あいつ〟が邪魔にしに来る」


 唐突に立ち止まったユーフレティカの喉が、ごくり――と躊躇いがちに飲み下される。こればかりは、元・勇者と元・魔王、両者の共通認識だ。


「――やはり、現れるのか。暗黒神――いや、イデアリスの……〈使徒〉が」


 ナラクにとっても、あの忌まわしい呪い。奈落の淵に生まれしものをも凍えさせる黒い闇を、この胸の内にもたらした超越者。


「現れるも何も、あいつは見てくれがガキなだけで、中身は神そのものだ。誰の前にでも現れ、どんな理屈も通用しねえ。でなけりゃ、闘技場戦争の時代なんて来やしなかった。昨日だって、お前がステージに飛び込んだ瞬間にも奴が邪魔しに現れておかしくなかった」


 そう、そこが腑に落ちなかった。三年前の最終決戦以降、ナラクの前に〈使徒〉が現れたことなど一度たりともなかったのだ。なのに多くの大陸諸国は、まるで〈使徒〉から天啓を授かったかのように、次々に闘技場戦争を受け入れていった。みな〈使徒〉の裁きを恐れて、次々に〈摂理〉に従う道を選んだ。


「なら、ぼくの行いを〈使徒〉も認めてるんだよ。ぼくは正しい。ぼくに宿ったままの〈聖者の紋章〉がその証明さ」


 射止めるような視線が、ナラクを真っ向から刺す。お前は間違っている――そう訴えている。


「……ふざけてろよ。正しいお前の正しさなんてもんが本当にあるんなら、黙って墓場まで持っていきやがれっての」


 あの頃にも似たような台詞を、この小癪な人間に吐き捨てた記憶がある。彼女もきっと覚えていたのだろう。反論の言葉を飲み込み、後には後悔の溜息だけが残った。


「じゃあ、おまえは〈使徒〉を見たのか? あのあとの混乱期、いくつもの戦場に〈使徒〉が介入して全てを塩の尖塔に変えてしまったって。そういう噂なら、旅の先々でいやというほど耳にしてきたけれど」


「あいつは、あれから一度もおれの前に姿を見せやがらねえ。その噂がどこまで真実かどうかも知らんが。ただ、どう足掻こうとおれとお前がその生き証人。それだけだ」


 思い出しただけでも、思考に雑念がよぎる。背に汗を感じ、無意識に軋む歯。

 でも今のナラクには、歌がある。一時的にでもあの呪いから解き放ってくれる、アイドルたちの美しい歌声が。暗闇に沈みそうな世界を彩る、輝かしいステージが。

 だから過去を振りほどくように、立ち止まっていたナラクは先を進む。自分がイデアリス顕現の生き証人だというのなら、残された不死を逆手にとって、この物語の結末を必ずや見届けてやると誓って。

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