第19話
こうして〈森の木こり宿亭〉が閉店後のこと。
獣のごとく肉を喰らい、浴びるように酒を飲み干したペルラが酔い潰れようとも、ナラクは決して警戒を緩めることなどない。それは自分自身のためであり、そして現在はアイドルの
表口に閂が落とされたことを確認し、ミュゼを伴って勝手口から店外へと出る。一日の役目を終えた用心棒たちも帰宅し、ナラクたちを見送るものもあらかた酒に伸された後だ。
刺すような視線を皮膚に感じたのは、裏路地に出てすぐのこと。ナラクとしても、あれで相手が引き下がったとは考えもしなかったわけで。
弱い明かりを落とす魔工石の外灯の下に、あの仮面の剣士が佇んでいる。光を浴びたその肩に水滴がはねているのを見て、いつの間にか雨が降り始めていたことをようやく知った。
「――――魔王…………ナラクデウス」
やはりその声は、低くくぐもってはいたものの、凛とした音色混じりの――つまりまだ若い女のものだ。
相手は、まだ武器は抜いていない。こちらの返答次第では、というやつだろうか。
「あれ、だれなのです…………まおー、さま?」
傍らのミュゼがローブにしがみついてきて、ぎゅっと身をすくめて。雨に濡れた外套に身震いしたからではない。ただ救いを請うように、見上げてきたのがわかって。
「……おい、おい、なんなんだ、その小娘は。なんなんだ、その腑抜けたざまは。ふざけているのか? おまえ、本当に、あの……世界を蹂躙した魔王ナラクデウス……なのか?」
「……ああ、そういうこった。貴様が一体何もので、この町に来てどれほどのものを見てきたのかは知らんが、これでよくわかったろ?」
仮面をしていようがいまいが、この剣士が果たして何ものかなどナラクには興味がなかった。
これまでに百を超える冒険者の死に顔を眺め、千を超える死体を踏み越えてきたナラクだ。人間などどれも同じようなものだと、かつての自分なら気にも留めなかっただろう。いずれにせよ、人間たちの恨みを買う、命を狙われるなど、今のナラクにとって日常であり、報いであり、そして瑣末ごとなのだから。
「戯れに忠告しておいてやるが。貴様はいつまで過去という戦場を這いずり回るつもりだ? そんな大仰な剣じゃ時代遅れだといい加減に気付けよ。おれさまと勝負したけりゃ、黙ってアイドルを連れて来な。この魔王ナラクデウス、どのような相手だろうが、アイドルを名乗るものであれば勝負くらいは買ってやる」
そう、今のナラクにとって当たり前の言葉を手向ける。
仮面の剣士は無言を決め込み、それ以上は踏みこんでこない。
そもそもナラクにも状況は見えていた。剣士の背後で、まだあの憲兵たちが見張っていたのだ。あのあと憲兵に解放されたわけではなく、せめてひと言ナラクと話させろとでも訴えたのだろう。
「…………じゃあな、名もなき剣士さんよ」
頼むから二度と関わってくれるなよ。そう願うナラクは、ミュゼを懐に抱き寄せローブを雨よけ代わりにすると、足早に立ち去ることにした。
そうして雨の降りしきるこの夜以降、仮面の剣士はヴェナントから忽然と姿を消すことになった。
反して、本日の初勝利でステージに自信を付け始めたミューゼタニアは、持ち前の歌声が人の心を動かし、ヴェナントで急速に人気を高めていくことになる。
ナラクの元で続けるアイドリア・エフェクトのレッスンはまだまだ実を結ばず、稲妻と大嵐を呼び寄せたり草原に大穴を開けたりもしたが、まあそれはそれとして。
かの辺境国ヴェナントで幕開けた魔王と吸血鬼のアイドル稼業は、こうしてようやく軌道に乗り始めたのである。
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