第7話

 ――黄泉たそがれ境目あわいに眠る暗黒神よ。今こそ我が前に姿をあらわし、我が声を聞きたまえ。


 目前の祭壇が神秘的な光を帯びはじめたのは、この時のことだ。

 固く閉ざされた、古代遺跡の最奥部。地下聖堂と思われたここは、松明の明かりすら届かない、底なしの暗闇だったはずなのに。

 中央の台座に安置されていた、大人の背丈ほどもある宝玉――それが、毒々しいまでに鮮烈な緋色で、このほの暗い聖堂全体を染め上げていく。ぶん――という耳鳴りめいた咆哮。外界から隔絶されているはずのこの空間を、無から生み出された風が吹きすさぶ。

 祭壇上に立つのは、闇色のマントをまとった背の高い男だ。大仰な所作で振り返り、溢れ出る血のような光を背に浴びながら眼下を睥睨する。と、祭壇下でうずくまっていた小さな人影が、息も絶え絶えに上体を起こして男を睨めつけた。


「――魔王ッ! ……おまえは、暗黒神なんか復活させて……そんなものに何を……一体なにを願うつもりなんだっ!」


 まだ若く、驚くほど整った顔立ちをした少年だった。活発そうに短く切りそろえられた、白銀色の髪。変声期前であろう、高く澄んだ声色。だが、長引いた戦いで薄汚れた頬をしていても、壇上の男を射とめる眼光はまだ信念を捨てていない。ただの子どもができる面差しではなかった。


「ほう……一度敗れてなお、まだこの魔王に抗おうとするか――勇者エクスよ」


 魔王――と自ら名乗った、祭壇上に立つマントの男。装いと同じ漆黒の長い髪をなびかせる、一見して容姿端麗な青年だ。だが、魔王という冠を魔王せしめる悪魔めいた巻き角が、この男の頭蓋を食い破るように突き出て、緋色の奔流の中で一層おぞましい陰影を浮かばせている。

 魔王は惨めにも地に伏した少年を嘲笑うでもなく、あくまで冷淡な振る舞いで少年の執念を見届けようとしていた。


「………………まだ負けるもんか。勇気を分け与えてくれたみんなのために」


 その少年――勇者エクスが、必死の力を振り絞って片脚を立てる。立ち上がることすらままならないその姿は、もはや悲壮さしかなかった。


「くっ……〈聖者の紋章〉よ、ぼくに力を……最後にもう一度だけ、聖なる力を――――――」


 と、勇者の額に刻まれていた紋章が、ほのかに青い光を放ちはじめた。神話に生きる古竜を思わせる、神秘的な造形の紋章。それは魔法の術式めいて、不思議な加護の光を彼にもたらす。

 それを合図に、一振りの剣が勇者の右手に出現した。宝玉が放つ緋色に負けじと蒼くきらめく、光だけで編まれた剣。

 ――が、その光の剣はすぐにガラスのように砕け散り、瞬く間に消滅してしまった。


「…………ああ、ぼくの聖剣が……。だめ、なのか…………ぼくたちの世界は……もう……」


「……ふ、貴様を勇者たらしめた聖者の力とやらも、どうやらここまでのようだ。だが、とどめは刺さないでおいてやろう。勇者エクス、貴様とはただならぬ因果に引きつけられたもの同士。ゆえに、貴様にも我が願いの結末を見届ける義務がある」


 絶望にうちひしがれる少年へと慈しむようなまなざしを送ると、魔王はマントをひるがえし手を掲げる。その手には、黄金色の柄に、刃面に真っ赤な血色をたたえる短剣が握られていた。


「ただならぬ因果なんて言うなら……ぼくは忘れてないぞ。あのときだって、暴走した魔王軍を王都から撤退させたのはおまえだったじゃないか。おまえとなら……ひとの姿をした魔物であるおまえとなら、ぼくは……もしかしたらわかりあえるかもしれないって、そう願ってたのに……」


「抜かせ、たかだか十年程度しかこの世界を知らぬこわっぱが。我ら魔界の眷属に人間どもの理解など無用。などという移ろいやすいものに幾度も裏切られてきたのが、貴様らの歩んできた歴史だとまだわからぬのか」


 そして、このときばかりは愉悦のあまり表情を歪ませ、かつての冷徹さをかなぐり捨てた魔王が吼え猛る。


「魔王……おまえほど強い力を持つものが、これ以上なんの力を望むって言うんだ……」


「クククッ…………さあ、貴様はそこで無様に地を這ったまま、しかと見届けるがよい――我が宿命の敵たる勇者を倒し、遂に暗黒神を復活させたこの魔王ナラクデウスが、腐りきった世界に何を願い、何を成し遂げるのかを、な」


 そうして魔王が手にしていた短剣が、一層輝きを強めていた宝玉へと触れた、その刹那に。



 ――やれやれ、こうも騒々しくてはおちおち眠ってられんな。



 声が、鼓膜を刺したかのようだった。


「わっ……………………なんだ、いまの。頭のなかに直接……響いて……」


 勇者をしても驚きを隠せないように、この広い聖堂でも残響ひとつ返ってこない声。


「…………女の子の、声……なのか?」


 しかも魔王ナラクデウスと勇者エクス、彼らの意識に語りかけてきたは、年端も行かぬ子どものものだ。


「どこだ……さあ、我が前に姿を現すのだ、暗黒神よ。貴様を呼び覚ましたこの我の前に」


 きっとその声の主に違いないだろう。溢れ続けていた緋色の奔流が瞬時に断ち切られ、光を失った宝玉の上に――いつ現れたのか、淡い光を纏った少女が腰かけているではないか。

 まさにいま生まれたかのように一糸まとわぬ姿で、再び暗闇に落ちた祭壇上で生白い肌を露わにしている。もっとも、肌と同じ真っ白な髪が身の丈ほども伸びすさんで、未成熟な肢体を巧妙に隠しとおしているわけだが。

 この少女の美しくそして完璧に整った造形は、現世に生まれ落ちたものでは説明が付かないほどだった。さながら女神像の彫刻か人形細工かといった、〝完全なる美少女〟と言えようか。


「貴様が暗黒神か――いや、違うな。かの暗黒神が現世に実体化するための器が幼女それか」


 神々の領域からきたる存在は、地上ではしばしば子どもの姿をとるとされてきた。神がヒトと対話するための使者――御使いだ。魔王とて、まさか己がそんなものと対面しようとは思ってもみなかったが。


【目覚めたばかりゆえ、そなたらの事情はちぃともわからんが……まあ、だいたい想像はつく。そなたら地上のものたちは、相も変わらずワンパターン、テンプレ展開でよくも飽きぬのう】


 拍子抜けさせられるほどの大あくびを、隠そうともせず。腰かけた宝玉の上で両脚をバタバタとさせ、暗黒神呼ばわりされた白き少女がさも不満そうに唇を尖らせた。


「てんぷれ……とは何のことだ? 神の言葉など我にはわからぬ、説明してもらいたいところだが――いや、今は時間が惜しい。それも我が願いを実現した暁の話としようか」


【ふむ、わらわを長きにわたる眠りから呼び覚ましてくれたのはそなたか、深き奈落より生まれし男よ。わらわは、そうじゃな――〈使徒〉とでも名乗っておこうか。それが手っ取り早い】


 己が本質を言い当ててみせたこの白き少女に、魔王は確信の笑みを隠せない。


「やはり、かの暗黒神の使いということか。貴様のような神々と対話するための代行者がいるなら話が早い。早速だが、我が願いを主人に伝えてもらうぞ」


 魔王は、神々しいまでの神性を帯びた使徒を前に、怯まずに立ち向かい声を上げる。


「――あらためて名乗ろう。我が名は魔王ナラクデウス。我が願いは、永遠とわに争いの絶えぬ魔界と人界を、二つに分かつことにあり!」


 それこそが魔王の、切なる願い。


「これで人間どもが〝一致団結して倒すべき悪〟を失い、我らの領域まで踏みこむことは未来永劫になくなるであろう。クク……人間どもは同族同士で殺しあう歴史を好きに繰り返すがよい。――さあ暗黒神よ、我が願い、その力をもって実現してもらうぞ!」


 静かだが、強く力の込められたその願いには、彼が自身の目に焼きつけてきた歴史の重さが刻まれているかのようだった。

 だが――


【ふむ、困ったのう。そなたらは何か、途方もなく大きな思い違いをしておるようじゃ】


 座した宝玉から下界を見下ろす暗黒神の〈使徒〉。その目には、不思議なほど人間じみた、ある種の諦念めいたものがのぞいている。


「何…………魔界の王たるこの我が、思い違い、だと?」


 神の代行者を前にしても澱みのない声色だったが、壇上へと登る魔王の足取りには畏れが滲んでいる。魔界全土を束ねるほど強大な力を持つ魔王をしても、神の怒りを買うのは望まぬことだったのだから。


【勝手な都合で呼び出しておいて、とんだお笑いぐさじゃの。まったく、「魔界の利益のために暗黒神を復活させる」とか、「世界の安寧のために暗黒神の復活を阻止する」だとか。挙げ句、勝手にわらわを〝暗黒神〟などと、しおって】


 どこか無邪気に、苛立たしげに吐きすてた少女。


【ああっ! もうわらわってば、そなたらみたいな連中がわらわを都合のいいハイパーチートアイテムみたいに雑に扱ってくれるのはもううんざりなのじゃ――!!】


 仕舞いには、半ば投げやりに喚きちらす始末だ。そんな姿を目の当たりにすれば、魔王も、そして使命を果たせなかった勇者すらも、このときばかりは己が目的すら忘れるしかない。


「は、はいぱー……ちー…………なん、だと? 我に理解できる言葉で話すのだ」


【……いかんいかん、神の代行者ともあろうものが、思わず取り乱してしもうたわ。ま、残念じゃが、暗黒神――などという、など実在せぬ】


 仕舞いには呆れのこもった瞳で、さも嘆かわしいとばかりに〈使徒〉がぼやいた。


「……だ、だが、確かに貴様は〈使徒〉を名乗ったではないか! はるか神話の時代に暗黒神を封じたというこの〈始原の宝玉〉……それに、封印を解く鍵〈受胎の剣〉も我が手に――」

 封印を解く手順に誤りなどなかったと訴える魔王に、〈使徒〉が示したのは――冷笑だ。


【そう、確かに、わらわは使徒――――破壊と創造の神〈イデアリス〉の使徒じゃ】


 そして〈使徒〉の見開かれた大粒の瞳が――宝玉と同じ鮮烈な朱を帯びた途端、


「……イデアリス、だと? そんな名の神などいるはずがない。神を騙る貴様は何ものだ!」


 一瞬で魔王は悟った。この手で掴み取った勝利など、ただのまやかしにすぎなかったのだと。



 ――そなたらのような愚かものどもにはもう、この世界は任せておけぬ。それほどまでに争いのない世界が欲しくば、願いのとおり、イデアリスの代行者たるわらわが与えてやろうぞ!



 そんな〈使徒〉の声を最後に、文字どおりこの世界は改変されることになったのである。

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