第8話 月とスッポン
気が付けばスカーグレイブには雨が降りしきっていた。灰色の空から大粒の雫がアスファルトに打ち付けられ、次第にそのペースと頻度を速めていく。傘をさしている者もいれば、大急ぎで走っていく者もいた。中には巷で流行しているらしいアヴォイド・ウェットと呼ばれる雨具を使用している者もいる。端末にアプリケーションを入れる事で特定の範囲内を小型のドローンが飛び回り、折り紙の様に折りたたまれていた傘布を展開してくれるという代物である。
赤毛の少女はアヴォイド・ウェットを使いながら颯爽と歩き、とある建物へと辿り着いた。スカーグレイブにおけるビジネスの中心地である西ゲートウェイ通り、その端にある地味なビルへと足を運ぶ。腕の端末を入り口にある感知器にかざすとドアが開き、アナウンスによる音声が彼女を迎え入れた。
エレベーターに乗り込むと一階のボタンを二度、二階のボタンを四度押す。するとエレベーター内にある小型のカメラが起動し、彼女の顔を認識するとエレベーターが動き出した。エレベーターには表示されていない最上階へ辿り着くと、扉が開いた。柔らかそうな椅子がいくつか用意され、このご時世には珍しい暖炉や美術品が飾られている。
(相変わらず変な趣味してる…)
赤毛の少女はそんな事を思いながら、奥の広い部屋へと訪れる。テーブルを囲っている面々と奥の窓から通行人を眺めている一人の青年がいた。
「キティ、さっきの話は本当か?」
「勿論、動画送ったの見なかった?」
赤毛の女性がそう言うと、テーブルに着いていた強面の男性がタブレットをスタンドに立て、受信されていた動画を開く。流石に離れすぎているせいで鮮明では無いものの、確かにリッパ―達と交戦する謎のアマルガムの映像であった。
「何このダサいマスク」
「ホッケーマスクだ…スポーツ以外で使っているのは映画でしか見たことないけどよ」
「マルチ・ホルダーか…でも今まで気づかれなかったというのはいくら何でも…」
「つまり凄い成長速度ってわけよね…アイザックさん、もしかすれば――」
「アイザックに匹敵すると?そんな事があるはずないわ」
口々に意見が飛び交うが、窓から景色を眺めていたアイザックは全員の元に近づく。謎のアマルガムの成長速度について言及していた少女に突っかかっていた黒髪の女性の顔を撫でながら席に着いた。
「恐れる事は無いさ。こいつが何者かは分からないが、まずはこいつを見つけ出して交渉を持ちかける。決裂すれば教えてやると良い…いつの世も出る杭は打たれるんだとな」
アイザックが静かにそう言うと、全員がそれに賛同する。多くの者が彼に対して心酔しているかのように見ているのに気づくと、アイザックは得意げに笑って見せた。
――――現場を離れたイナバは、追いかけてくるものがいないかを確かめてからレギオン本部へと戻って来た。ナーシャからの連絡が入り、言われるがままに駐車場への入り口へと向かう。てっきり正面のシャッターが開くものかと思っていたが、重厚な音を立てて路面が割れる。路面だと思っていた物は、入り口を塞ぐためのカモフラージュだったらしく、それらが収納された後に地下へと続くのであろう下り坂が露になった。照明の灯っている下り坂を一人寂しく歩き続けると、開けた場所へとイナバは出た。
様々な形の車両が付近に配置され、奥に存在する装備の保管庫と思われるエリアには厳重に保管された武器を飾っている棚が所狭しと並んでいる。この辺りの管轄をしているのであろうスタッフたちは、相変わらずイナバを訝しそうに見ていた。
「少しヒヤリとした場面もあったが上々だ」
保管庫から歩いて来たのであろうか、奥から歩いて来た黒人が満足そうに言った。横にいた白い肌の女性は相変わらず不愛想であったが。
「自己紹介が遅れた。マルコムだ、マルコム・クレイ。お前が情けない姿見せてたら、俺達が出張る予定だったんだぜ?」
「…アビゲイル・ホフマン、よろしく」
二人が自己紹介を終えると、全員が待っていると言われてオフィスへ向かう事になった。周囲からの視線に耐えながらエレベーターに乗り、一階へと辿り着いた後は先ほどと同じようにCVATのオフィスへと向かう。
「見事だ新入り ! 喰われかけてからの逆転劇は見ていて面白かったぞ」
部屋に入るや否や、ハンクが陽気に出迎えた。他の者達も安心やら驚きが入り混じった表情でイナバを見ている。
「さて、今後なんだが…君にはやらなければならないことが山ほどある。引っ越しやこの施設全般についての説明、兵士としての訓練…まあ、とにかく沢山だ。引っ越しについてはすぐにでも行ってほしいんだが、その前に研究棟へ向かってくれ。そこの主任が君に会いたがっている。そうだな…キースとエマ、当分の間はお前達で面倒見てやれ」
「了解」
「分かりました!」
ハンクからの指示に、スキンヘッドの男と眼鏡を掛けた女性が威勢よく返事をした。イナバはひとまずホッケーマスクを返すと、二人に連れられて研究棟があるという場所へ向かう。
「キース・エイブラハム・ジョンソンだ。まあ、キース隊長とでも呼んでくれ」
「私はエマ・チーリン。よろしく!」
二人から明るく名前を教えられると、イナバは「よろしく」と素っ気なく返した。
「おっと、それと他の連中はともかく俺には敬語を使ってくれ。これでも立場上、レギオンの幹部でお前の上司なんだ」
「…わ、分かりました」
イナバに対して少々威圧的にキースが言ってくると、イナバも仕方なく応じる。肩で風を切るように歩く彼の後ろをイナバがついて行っていると、エマが隣から囁いてくる。
「ごめんね~、ああ見えてあの人、この会社じゃ凄いベテランなんだよ?おまけに叩き上げ。だから今の立場にすっごい自負があるらしくてさ…ハゲだけど」
「何度も言ってるがこれは剃ってるんだ。っておいイナバ !笑うんじゃない !」
そんな風に少々騒がしくしながら渡り廊下を歩き、厳重そうな自動ドアの前に着く。キースが専用のリーダーに何かをかざすと、静かにドアが開いた。白衣やつなぎを身に付けている者達を避けながら、奥へと進んでいくとホログラムに映る人型の何かを眺めながら顎に手を当ててしかめっ面をしている男性がいた。キースは立派な顎鬚を弄り始めながら唸っているその男性に近づいて肩を叩いた。
「ふむ…もう一捻りだ…何かもっと目立つ…」
「フランク、連れて来たぞ」
キースが話しかけるが、男は全く聞く耳を持たなかった。
「ちょっと話しかけないでくれ…何が足りないんだ…?レギオンの兵士としての何か…痛っ」
肩に掛けられた手を男性が振り払うと、「お前が呼んだくせに…」とキースは呆れた様に呟く。そして近くにあった食べ終わった食器が乗っているトレーを見つけた。テーブルに食器を移した後にトレーを掴むと、そのまま男性の頭を小突いた。軽く悲鳴を上げた男性は頭を擦りながら振り向くと、お目当ての存在に気づき揚々と歩み寄る。
「君が噂に聞いたクラスA相当のアマルガムか !コンシュームに武装形成、おまけにマルチ・ホルダーなんだって?こりゃ当分の間、レギオンの天下は揺るがないな ! この間、ジークコーポレーションがクラスBのアマルガムの捕獲に成功したらしいが、うちは一歩先を行くってわけだ ! 人体がアマルガムへ変異する確率はただでさえ低いというのに ――」
「…話が良く分からないし、難しい単語を使わないでほしい」
「お~…すまない、喋りすぎたな。私はフランク・アハトフ、レギオンの研究開発部門の主任だ」
早口で喋るフランクをイナバが戸惑いながら制止させると、彼は反省した様に大人しく自己紹介を始めた。
「顔合わせは済んだか ?色々とやらなきゃならない事があるんだ」
キースがそう言うとフランクは不満げな顔をしたが、すぐに諦めたように肩を竦める。
「まあ今後ともよろしく…そうだ、せっかくだし意見を聞きたい。この軍服のデザインに何か付けたしたいと思うんだが何が良いと思う?」
ホログラムを指差しながらフランクが言うと、三人は暫し考えた。
「ん~これって戦闘服だよね? 無骨さを出すためにもうちょっと装飾を増やすとか?」
「別に要らないだろ。このままでも良いと思うぞ」
「いや…欲しいんだ何かもう一つ、邪魔にならない物を…新人、君はどう思う?」
二人の意見に納得がいかなかったのかフランクはイナバにも尋ねた。妙なプレッシャーを感じつつもイナバは考えていたが、ふと昔読んでいた漫画の事を思い出す。
「あの胸のボディーアーマーの部分、あそこにロゴとかマークを入れてみるっていうのは…?」
フランクは黙って聞いていると、ホログラムの設定を弄って、レギオンのシンボルである蝙蝠の翼に包まれた髑髏のマークを服の胸部に重ねた。途端に眉間に寄っていた皺が消え、表情が一気に明るくなったように感じる。
「…いや、悪くないかもしれない。寧ろこれが良いのかもしれない…! そうだよ。レギオンに所属している事を表すのにうってつけじゃないか ! 早速取り掛かるぞ…ああ、そうだ。一通りやる事をやったらまた顔を出してくれ。この仕事をする上で知っておかないといけない事を話しておきたいからね」
フランクは一方的に捲し立ててから足早にどこかへ向かって行く。三人は呆然と立ち尽くしていたが、ひとまず引っ越しの準備を行う事にすると、研究棟を出て行った。
――――翌日、キースとエマ、そしてなぜかヘンリーとレイの四人に連れられたイナバは社員寮へと案内される。既に元々住んでいた部屋からは荷物を運び出しているらしく、荷解きは自分でやって欲しいとのお達しであった。
「頼まれた私達はともかく、何であなた達まで来てるの?」
エマはヘンリーに対してぶっきらぼうに聞く。全員が共に私服姿で歩いているのが、イナバの目には新鮮に映っていた。
「まあ、最初に出会ったよしみだよ。それに荷解きするんなら人手は多い方が良いだろ?」
「気を遣わなくても、そんなに荷物は多くないからすぐに終わる」
ヘンリーが理由を言ったが、イナバは別に助けは要らないとでも言うかのように切り返した。その後も雑談を交えながら目的の部屋に辿り着くと、キースがカードキーを取り出してドアのロックを解除する。
「私の部屋は隣だから、何かあった時は言って」
部屋に入る前、レイはイナバに対して言った。イナバは「ありがとう」とだけ返してから、自分の新居に入る心の準備を済ませる。
「じゃ、入るとするか」
キースがそう言うと、五人でそのまま部屋に入り込む。小奇麗に清掃された部屋の中央に段ボール箱が四つほど置かれていた。家具や雑貨が運び込まれた形跡も無く、バスルームとトイレに繋がる扉や備え付けの家具、そして広々とした窓がある以外には何の変化もない様子だった。
「…まさかこれだけ?」
「悪かったな…余計な物を買う金が無かったんだよ」
荷物の少なさに驚いているレイにイナバは嫌味ったらしく言いながら、荷物に近づいて行った。てっきり開けるものかと四人は思っていたのだが、イナバは箱を素通りして部屋を歩き回り始めた。部屋は二つあり、小さめのキッチンが存在するリビングと机やベッド、空っぽの棚が置かれている書斎に分けられていた。二つの部屋を落ち着かない様子で見て回った後に窓へと近づく。日差しが入り込んで眩しかったものの、レギオンの敷地に広がっている森林が見え、非常にリラックスの出来そうな景色が目に飛び込んできた。
「…なあ、この部屋本当に一人で使って良いのか?」
クローゼットの中を確認していたイナバが、恐る恐る振り向きながら全員に聞いた。
「何だか、色々と苦労してきたんだな…」
そんな彼の姿にヘンリーは困惑しながらそう言った。
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