午前三時の小さな冒険
増田朋美
午前三時の小さな冒険
その日、熱いと思われるくらい暑い日で、夜になってもまだ暑いと思われるくらいだった。発疹熱が収束するまで、どこにも行かないで動かないように、部屋の中にいるように、という政府の呼びかけも理にかなうほどの暑さだった。
人間が暑さだとか、発疹熱のこととかで、何もできずに、無意味だ無意味だと、愚痴をこぼしている間、白い、三本足のフェレットである正輔は、いつもと変わらず元気にえさを食べて、水を飲んで、よく遊んでいた。もちろん、四本足のフェレットのように、活発に動き回ることはできないが、小さなフェレットは、いつでもどこでも元気なのであった。
その日、政府から、不要な外出はするなと言われているにも関わらず、杉ちゃんと由紀子は、製鉄所を訪れていた。なんでかというと、花村さんに呼び出されたためだ。いつも、花村さんが、水穂さんの世話をするために、泊まり込みで製鉄所にいるのであるが、それでも、杉ちゃんたちは、心配で仕方なくて、製鉄所を来訪してしまうのだった。
いずれにしても、電車もバスも本数を減らしてしまっていたから、杉ちゃんたちは、相変わらずタクシーを利用してやってきた。そういう行為は危険という人もいるのかもしれないが、本人に悪気はないので、いさせてやろう、と製鉄所の利用者たちは、それを黙認していた。だって、自分たちも家の中で、ここへ来なければ、邪魔なやつとか、役に立たないやつと言われてしまうだけだからだ。そういうところは、口に出して言うことはせず、お互い様だねと利用者たちはそういっていた。
「さて、ご飯だぞ。食べろ。今日は、山菜たっぷりのおかゆだぞ。」
杉ちゃんが、ご飯の器をもって四畳半へ行くと、水穂さんも同時に目を覚ました。
「起きなくてもいいですから、食事だけはしましょうね。」
と、そばにいた花村さんが、水穂さんに声をかけた。この、花村さんの声掛けがないと、水穂さんはまたご飯を食べんなくなる可能性があった。
「何も食べないのは、ダメですよ。食べられるときは、食べて、元気をつけましょうね。」
そういって、杉ちゃんから器を受け取ると、花村さんは、おさじを水穂さんの口元までもっていった。水穂さんは、静かに頷いて、中身を飲み込んだ。
「どうだ、少し、味が薄すぎたかなあ?」
杉ちゃんが聞くと、水穂さんは、黙って首を横に振る。
「じゃあ、ちょっと濃い味だった?」
と聞くと、水穂さんは、また首を振った。
「おいおい、じゃあ、何の味だったんだよ。」
杉ちゃんが聞くと、
「味なんかしないんだ。どんな味かなんて、さっぱりわからない。」
と、水穂さんは、言った。花村さんが、薬の副作用ですかね、と首をひねる。
「まあ、そうなっちまうのはしょうがないが、とにかく食べなくちゃだめだぞ。完食するまでしっかり食べろや。」
杉ちゃんにそういわれて、水穂さんは、また花村さんから差し出されたおさじの中身を口にした。
「じゃあ、もう一度行きますよ。」
花村さんが言うと、水穂さんは、くびを横に向けてしまった。
「ダメですよ。おかゆ二口で、もういいなんて、そんなこと言っちゃ。」
花村さんが、そういうと、ちょうど台所を片付けて、由紀子が四畳半にやってきた。
由紀子は、花村さんから、おさじをひったくって、無理やり水穂さんの口の中に入れてしまった。水穂さんは、せき込んで中身をはいてしまった。
「由紀子さん、気持ちはわからないでもないが、あんまり強引にやるのはどうかと思うぞ。」
と、杉ちゃんが、由紀子の肩をついたが、由紀子は、平然としていた。そして、もう一回、おさじをおかゆの器に入れて、水穂さんの口元にもっていく。
「ほら。」
水穂さんは、仕方なく口に入れた。それを、五六回くりかえして、おかゆの器は、からっぽになった。
「よし、食べてくれてありがとうな。と言っても、由紀子さんが無理やり食わせたようなもんだけど。」
杉ちゃんがちょっとため息をついた。縁側で、遊んでいた正輔が四畳半に戻ってきた。多分、何か食べたくなって戻ってきたんだろう。動物というのは単純なものだから。正輔は、水穂さんに近づくと、水穂さんも彼のことをかわいいと思ったのだろうか、そっと頭をなでてやった。由紀子は、どうしても、この車輪付きのかまぼこ板に乗っている、小さなフェレットが、苦手だったのであるが、それは口にしないほうがいいと思った。
「さて、お二人にお願いがあるのですが。」
と、花村さんが話を始めた。
「ちょっと今日、箏曲の会で、大事な会議をしなければならず、静岡までいかなければなりません。申し訳ないのですが、今晩は帰ってこられないので、どちらか二人、一晩残っていただけませんか?」
「ああ、そういえばそういうこと言ってたな。今日がその日なんだね。じゃあ、僕が残るよ。」
と杉ちゃんが即答するが、由紀子は、杉ちゃん一人ではちょっとむずかしいかなという顔をした。それに、カレンダーを眺めてみると、明日は由紀子の勤務する予定の日ではなかった。実をいうと、岳南鉄道も電車の本数をかなり減らされたので、彼女も暇だったのである。
「杉ちゃん、あたしも一緒に残るわ。この製鉄所の余っている部屋に泊めてもらうようにすればいいんだし。」
由紀子がそういうと、花村さんは、すみませんお願いしますと言った。多分、会議は結論は先に出ているが、とても長くかかると、予想していたので。
「それでは、そろそろ会議場へ行かないといけないので、ちょっとお暇します。東海道線も電車が何本か減らされているので、急いでいかないと電車に乗り遅れてしまう。」
花村さんは、よいしょと立ち上がった。
「おう、いつも水穂さんのこと見てくれてありがとうな、それじゃあ、気を付けて行って来てや。」
杉ちゃんに言われて、花村さんはありがとうと言い、四畳半を出ていった。
それに関係なく、正輔は水穂さんの手のひらをなめたり、水穂さんの人差し指が、渦巻きを空書しているのを目で追ったりして遊んでいる。由紀子は、三本足のフェレットちゃんはいいわねえ、なんてことをつぶやいて、お皿を片付けに台所に行った。
とりあえずその日は、水穂さんは、杉ちゃんの作った夕食をしっかり食べて眠ってしまった。特に残したりもしなかった。これで、発作も起こさず、眠ってくれればいいのだが、そうはいかないというものである。
水穂さんが眠ったのを確認すると、由紀子は、しまい風呂を貸してもらって、製鉄所の空き部屋を借りて、寝てしまった。
「痛い!」
由紀子は、ふっと目を覚ました。誰かが手のひらをガブッと噛んだ気がしたのだ。目を開けて、反対の手で電気のリモコンを出して、明かりをつけてみると、正輔が彼女の手のひらを噛んでいる。壁にかかった時計は、明け方の三時になろうとしていた。
「どうしたのフェレットちゃん。」
と由紀子が聞くと、正輔は由紀子の手からやっと口を離し、ちいちいと声をあげて、一生懸命車輪付きのかまぼこ板を動かしながら、廊下を歩きだした。由紀子も布団から起きて、そのあとをついていくと、四畳半から、せき込む音が聞こえてきた。由紀子は、すぐにそれが水穂さんだと分かった。同時に、ほれ、しっかりせいと、杉ちゃんが、体をさすっている音も聞こえる。由紀子は、急いで四畳半のふすまを開けた。そして、水穂さんが杉ちゃんに背中をたたいてもらいながら、一生懸命出すものを出そうとせき込んでいる様子を確認した。三本足のフェレットちゃんは、これを伝えたくて、私の手を噛んだのね。と、由紀子は、すぐに分かった。
「水穂さん、大丈夫?」
声をかけたが、水穂さんはせき込むばかりで、返答はしなかった。杉ちゃんが、背中をたたいて、出しやすくしてやっていても、せき込むのは止まらない。
「由紀子さん悪いけど、帝大さんに電話してくれないかな。救急車呼ぶのはちょっと危険すぎるからさあ。」
杉ちゃんにそういわれて由紀子は、わかったわといった。すぐに、スマートフォンを取って、急いで帝大さんの番号を回す。救急車を呼んだら、絶対に病院をたらいまわしにされて、その間に失敗してしまう可能性もある。それではいけないと由紀子にもわかっていた。
でも、こんな時間に帝大さんは出てくれるかなあという不安もあった。だって午前三時、みんな寝ている時間なんじゃないか。
「はいはいもしもし。」
眠そうな声であったけど、沖田眞穂先生、つまり帝大さんの声が聞こえてきた。
「あの、すみません!今西由紀子です。今、製鉄所にいるんですが、水穂さんがまた発作を起こして大変なんです。すぐに来てくれませんか!」
と、由紀子は、急いで帝大さんに言った。帝大さんは、はいはい、わかりました、タクシーを呼ぶのに時間がかかるかもしれませんが、ちょっと待っててね、といった。でも、こんな時間、呼べるタクシーなんてあるのかな、と由紀子は思った。それにこんな時間だから、深夜料金が適応されて、高額な運賃になってしまう可能性もなくはない。
「帝大さん、あたしが迎えに行きますから、どこかわかりやすい場所で待っててくれませんか。そうだな、近くにコンビニかなにかありませんでしょうか?」
と由紀子が聞くと、
「はいはい、うちの近所には、セブンイレブンが一軒建っていますが、そこで待っていればいいですか?正確に言うと、セブンイレブン、富士市一色店だったかな?」
と、帝大さんは答える。
「了解です!そこまで迎えに行きます!」
と由紀子は、急いで言って、すぐに製鉄所の玄関を出て、車に飛び乗った。後ろで、小さなフェレットが、ちいちいと何か言っているのも気が付かなかった。由紀子は、制限速度を超えて車を飛ばし、カーナビの指示も、信号機の指示もほとんど受けずに、セブンイレブン富士市一色店の前につく。そこの玄関前で帝大さんは待っていてくれた。セブンイレブンは、こういうご時世なのにも関わらず、なぜか、24時間営業していて、真昼のような明るさだった。帝大さんは、由紀子から、水穂さんの様子を聞くと、ゆっくり助手席に乗った。由紀子はまた制限速度を超えて、車を飛ばした。誰も制限速度を超えている何て文句言う人もいないのが良かった。パトロールしている警察官もいなかったから。
由紀子が製鉄所に戻ると、正輔が待っていましたとばかり、ちいちいと声をあげて、二人を出迎えた。そしてまるで先導人になったように二人を四畳半に連れていく。水穂さんは相変わらずせき込んでいるが、もう疲れてしまったのか、それも弱弱しくなっていた。帝大さんは、由紀子と杉ちゃんに悪いけど外へ出ていてくれといった。由紀子たちはその通りにしたが、小さなフェレットが一匹中に残った。二人とも、彼をどうするかは忘れていた。
四畳半のふすまの向こうから、弱弱しく、水穂さんがせき込んでいる音が聞こえてきたが、しまいにそれも静かになった。
やがて、ふすまがそっと開く。杉ちゃんと由紀子が後ろを振り向くと、正輔がちいちいと声を立てて出てきた。それと同時に、帝大さんもへやを出てきた。
「先生!どうなのでしょうか!」
と由紀子が聞くと、
「ええ、大丈夫です。投与した薬が、思ったより効きました。」
と、帝大さんは、にこやかに笑った。
「このかわいいフェレット君が、試験官みたいに監視していましたから、気が抜けませんでしたよ。」
「じゃ、じゃあ、水穂さんは大丈夫なのか?」
と、杉ちゃんが言うと、帝大さんは、はいと頷く。
「ただ、しばらく眠らせてやってくださいね。多分、疲れていると思いますからね。」
と帝大さんは由紀子たちにいった。由紀子は水穂さんに声をかけたかったが、帝大さんは、それはしないでねと由紀子を牽制した。
「ありがとうございました。送っていきます。」
由紀子は帝大さんに一万円札を渡したが、帝大さんは受け取らなかった。その代わり、自分をコンビニまで送ってもらえないかといった。由紀子は、はいすみませんと顔をくしゃくしゃにしたまま、急いで車のかぎを取って、四畳半を出るべく立ち上がった。後ろで、小さなフェレットが、またちいちいと言っているのが、聞こえてきた。動物は、同じ言葉しか話さないが、きっとそれには重要な意味があるんだろうと思った由紀子は、歩きながら彼に向って、にこやかに微笑み返した。
午前三時の小さな冒険 増田朋美 @masubuchi4996
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