序章 その四


 本来、喜ぶべき事実である宿った刻印を、親の仇の様に爪を立てるシナヒ。

 左手の甲に出現した緑の模様は他の三人のどれとも違い、新しいタイプの刻印であった。

 彼女が使えるのは風魔術。今日の朝遅れた理由は一人で魔術を試していたかららしい。

 本当に使えるのかどうかを。


 目の前でシナヒはただ泣いている。

 僕とテルキは呆然と彼女を見ていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


「な……なんで、謝るの?」


 僕は思わず問いを出す。

 それはテルキも気にしていた事なのか横で大きく縦に頭を振っていた。

 シナヒは刻印が生まれた左手を強く握りしめて、身体を震えさせ言う。


「あんな事があった後で、私は刻印が出てきて……それだけなら良かったのに、テルキくんにもあるんじゃ、無いのはロミアくんだけじゃない……。私は、私はこの刻印が怖い」


「べ、別に気にすることないよ。僕もすぐに刻まれるよ。皆の中で一番遅かったってだけさ」


「違うの! そうじゃ、ないの。私は……ただ私は……っ!」


 大人しいシナヒが珍しく声を荒げる。

 同時に俯きがちで、あまり目を合わせようとしなかったシナヒが始めて視線を合わせた。

 丸く大きな緑色の瞳。その中には激情の色が見えている。

 なぜ彼女がそこまで刻印に対して感情を荒げるのか、てんで僕は不明で終始頭の上にハテナを浮かべていた。

 だが彼女は違った。

 大きく開いた瞳を更に大きくして、怒りや焦りの色から、怯えの色へと変わる。

 顔色がどんどん悪くなり、元から白い肌が青白く見えた頃、彼女は叫んだ。


「私達は……私達は仲良くしたかったのに……! どうして……どうしてなの! これじゃ、これじゃこの刻印は……まるで」


 後ろへ少しずつ後退りする、彼女の様子は尋常じゃなかった。

 何かに怯え、恐怖し、逃げようとしている。

 がくつく脚で無理矢理踵を返し、地を蹴り飛ばして町の中へと走り去る。

 その後ろ姿を見て、少し間を空けてから、


「────し、シナヒ!!」


 漸く身体が頭に追いついた。

 彼女の後ろ姿は小さくなっているが、追い付けない距離じゃない。

 僕は岩盤を砕き割る勢いで地を蹴り飛ばして、シナヒの後を追いかけた。

 その時視界の端に映ったテルキの顔はなぜか、泥沼の様な嫌な笑みをしていた。



 入り組んだ路地裏に逃げ込むのを確認した僕は彼女を見失い、町中を走り回った。

 薄暗く、鼠が走る生ゴミだらけの路地裏を僕は走り回った。

 時には誰かが吐いたのであろう吐瀉物に足を取られ、転んだ。

 時には路地裏でたむろする賊の様な男達にぶつかって難癖をつけられそうになった。

 そうして、結局夜中まで町を何周もしたが結局見つけることは出来なかった。


 走った後から考えた事だが、もしかしたら魔術を使ったのかもしれない。

 身体能力の高くないシナヒが僕から逃げ延びるにはそれしか考えられない。

 そもそも彼女の逃げる理由、加えて彼女が刻印を宿し、あれ程狼狽する理由も分からない。

 僕達五人は確かに町の前に聳え立つダンジョンに入る為、刻印を宿す事を夢にし、一緒に暮らし修行もしていた筈だ。

 その僕達が、僕を残して皆、刻印者マーカーになったとしても、何も問題はない。

 最後の僕が刻印者マーカーとなるのを待てばいいだけの話なのだから。


 それから一週間、彼女は朝の集まりには参加せず、家にも帰らず姿をくらましていた。


「まぁ、仕方ねぇよ。突然の魔術にテンパっちまったんじゃねぇか? オレも最初はそうだったからな。あんまりはしゃぎ過ぎて気が動転してたぜ」


 テルキはそんな事を言って一緒に捜してはくれなかったが、僕は日課の訓練に家事に加え、シナヒの捜索も加えた。

 毎日、走り込みをしながら町中を走り捜しながら、家に帰っていないか訊いた。

 答えは毎回帰っていない、分からないしかなかったがそれでも捜さずにはいられなかった。

 彼女に対して好意を持っているのは事実だし、だから捜し回っているのだろうと言われても否定は出来ない。

 だがそれ以上に仲間として、ダンジョンにいつか入ろうと決意した幼馴染として、ひたすらに捜した。


 それに僕が刻印者マーカーになれば、きっと彼女も帰ってくる。

 僕が唯一の未刻印であるのが悪いのだ。

 一層増して鍛錬に取り組んだ。

 けれど、彼女が姿をくらましてからの一週間では、僕は刻印者マーカーとなることはなく、ただ訳も分からない時間が過ぎていった。


 そんなある日の巡回の事である。

 シナヒを捜す為、走り込みを塔周りから町に変換させた僕は、陽が沈む頃今日も颯爽と町中を駆けていた。

 道中、窓の外から夕食を頬張る微笑ましい家族や乱闘騒ぎで大盛り上がりしている雑踏。加えて、路地裏で隠れてキスをする者など様々な人を見かけたが、シナヒの姿は視界の端にすら映らない。

 どんなに願っても、僕の目の前に彼女が現れることはなく、絶望に近い感情を抱いていた。

 捜す場所がない。彼女の家も、町の中の隅々まで捜し回っても一向に見つかる気配がない。


 半ば諦めかけて屋根の上で寝そべった。

 空を見上げてもあるのは星々とどこまで伸びているのか分からない天貫く塔のみ。

 空をぷかぷか浮いている女の子など見当たるわけがない。


 漆黒の空、散りばめられた星。

 美しい自然の景色を遮って、天に向かって聳え立つ塔──“ᛚᛁᛒᚱᚨライブラ”。


 この世に突如として出現したと言われている12個あるとされる迷宮ダンジョン──十二の試練ダーウィンズ・ゾディアック

 奥地に潜む迷宮ダンジョン守り手あるじを倒せば、生物を超越する能力を手に入れられると言う。


 目の前に聳え立つあの塔が、僕の目指す冒険者としての最高峰である事は間違いない。


 そこに真っ先に潜り込んだフェイザー。

 彼は今無事なのだろうか。

 僕らはまだまだ初心者だ。

 最難関のダンジョンに潜り込んで無事を願わない程僕らの友情は薄れていない。

 ならばとりあえず、シナヒを真っ先に見つけて、そして僕が刻印者マーカーになってすぐに救援に向かわなければいけない。


 ──ならばこんなところでもたもたしてはいられない。


 立ち上がり、頬を2、3回叩いて気合を入れる。

 あまり乗り気では無かったテルキだが、そんな事を言っている場合じゃない。

 僕は捜索を手伝ってもらうため、今一度テルキの家へと向かった。


 テルキの家は僕と同じく家族がいない。

 正確にはいるのだがほとんど帰ってこない。

 商業を営んでいる彼の両親は毎日馬車に乗っていろんな町を回っているのだ。特にダンジョン麓にあるこの町は、沢山の様々な材料が必要なのだ。

 帰ってくるのは月に一度程度だろう。


 町の外側、住宅街。

 夜の街らしく街灯と家の灯りが点いていたり消えていたり。

 綺麗な光景である。


 テルキの家の前に着く。

 家の前のドアが開いていた。

 不用心だなと思ったがそれ以上は何も思わなかった。

 扉から差し込む光。

 どうやらまだ寝ていないようだった。

 何少しの文句でも垂れてやろうと思って、扉に手をかけ、先をのぞけばそこに見えた光景は────シナヒ、だった。


「ちょ……ちょっと。やめてって……」


「なんだよ。オレが匿ってやってんだろう? 未だに刻印も出ねぇロミアからよ」


 ────なんだ、これは。


 ランプが一つ点いたその下の食卓には、並んで座るテルキとシナヒ。

 シナヒの細い肢体に腕を回してテルキは自分の方へと抱き込んでいた。


「だからって……こんな」


「いいんだよ。オレらも行っちまおうぜ。フェイザーが正しかったんだ。未だに刻印がでねぇアイツは後々出たとしても大した戦力にはなりゃしねぇよ」


「でも……」


 触れるか触れないかという距離まで顔を近付けてテルキはシナヒに迫っていく。

 男の腕力に女が勝てるわけもなく、抱き寄せられ逃げ場もない。

 それでもなるべくシナヒは抵抗を続けていたが時間の問題だった。

 テルキの、機嫌の問題。


「ったく……うるせぇな」


 それはすぐにやってきた。


 ──そ、そんな!


 空いた片方の手で肩を持つと、一気に抱き寄せる。

 そしてギョッと驚くシナヒの唇をテルキはそのまま奪ってしまった。

 長い長いキスだった。

 だが僕の位置からではテルキの後頭部で隠されて状況はいかんせん不明瞭。

 起きている事を想像するだけで吐き気がした。


 しかし、手で押しのけようとしたシナヒの抵抗が消え、代わりにやってくる小さな呻き声と艶かしい唾の音。

 時間を計ればなんて事はない一瞬の話なのだろうが、その時の僕は永遠にも近い長いキスに感じていた。


「……っは。どうだよ。いいもんだろ?」


「最低……」


 シナヒは顔を逸らして悪態を吐くが、その表情は嫌がっているにしても、満更でもない様な表情にも見えた。

 身体も抱き寄せられたまま抵抗する気は無いのか、身をテルキに任せている。


「へへ。オレも初めてだったけどな。もう一週間だ。お前の弱いところなんて全部……知ってるんだぜ?」


「……っぁ、や、めて」


 その言葉の意味は考えるまでもなく、僕の顔から血の気が引いていくのがわかった。

 シナヒをいくら捜しても見つからない筈だ。

 テルキをいくら誘っても来ない筈だ。

 だって彼らは元より僕の意見に賛同してはいなかったのだから。


 テルキの伸ばす手はシナヒの豊満な胸へと伸びていき、そしてそれをシナヒは言葉では言いながらも拒みはしない。

 その光景を最後に僕は、


「ァァァァァァァァッッッ!!!!」


 叫んで逃げ出していた。



「ウァァァァァァァァァ!!! う……嘘だ! 嘘だ、嘘だ、嘘だこんなの嘘だァッ!!」


 二年前、フェイザーが始めた布を巻いた大木への正拳突きの特訓はもう痛みはそこまで感じない。

 町を見下ろせる丘の上にある僕の家。

 その横に、その大木はある。

 僕はその木に向かって拳を振りかぶった。


「みんなっ……! みんな騙してたのか!? 僕のことを!? ァッ……ァッ!!」


 感情のまま拳を叩き付ける。

 溢れ出す感情は叫びになって、力になって、虚しく辺りに響く。

 拳から血が噴き出すほどに殴った。

 骨が砕けるほどに殴った。

 血涙が流れてもおかしくない悲しみを、怒りを、恨みを吐露する場を探して殴り続ける。


 フェイザーに裏切られた。

 ミズキに裏切られた。

 テルキも、シナヒも僕の事を裏切った。


 僕はもう、あの二人──いや四人に対して同じ表情、同じ会話、同じ態度を出来るか分からない。

 彼らが例え変わらず接して来ても僕の心に穿たれた楔は決して抜ける事はなく曲がる事もない。


「なんで! なんで! なんで!! 僕が何かしたってのか! 何か悪い事でもしたってのか!! 僕は……僕はただぁっ!!」


 幼い頃に決意した筈だ。

 昔から冒険者になろうと憧れていた筈だ。

 父親のような冒険者になる為にフェイザーは、カッコいい女性になる為にミズキは、強い男になる為にテルキは、自分に自信をつける為にシナヒは。


 そして、名を轟かせた勇者のように冒険に夢馳せた僕は、冒険者を目指した筈だ。

 皆で、一つのことを目標にして。

 でも、それはきっと──僕だけだった。


「クソォォォォォォォォォッッッッ!!!」


 血に塗れた拳が、骨が砕け散る凄惨な音を身体中に響かせながら、目の前の大木を殴り倒す。

 腕はもう、感覚がない。

 流れ出した血で足元には血溜まりが出来ている。


 八つ当たりをして、何になると言うのか。

 何にもなりはしない。

 それでも感情を吐露せずにはいられない。


 だが結局のところ、

 フェイザーよりも、

 ミズキよりも、

 テルキよりも、

 シナヒよりも、

 誰よりも罪深いのは、

 刻印を出す事の出来ない──なのだ。


「どうして……僕には……」


 中程から折れた大木に訴える様に、力ない拳で叩く。

 そうして僕は、死ぬように眠りについた。




 ---



 チチチチチッ。

 小鳥の囀りが、妙に近く感じられる。

 瞼から眼球を焼く陽の光に照らされて、僕は早朝目を覚ました。

 大木の根元に座り込み寝ていた所為で尻が酷く痛んだ。

 酷使した腕は痺れと痛みで持ち上げる事すら出来ない。

 しっかりと寝た筈なのにどうにも瞼は重く、身体も怠い。

 ストレスのせいだろうか。

 何もやる気が起きない。

 僕は重い足を引きずりながら、もう一眠りする為に帰途に着く。


 扉を開けると、いつもの風景に違和感を感じた。

 違和感の正体はテーブルの上に置かれた一枚の紙だ。

 僕にとっては都合よく紙の内容は見えるように開かれていたので、そのまま僕は読んだ。


『ロミア。先に謝らせて、ごめんなさい。私とテルキはフェイザーを追いかけてダンジョンに入る事にしたの。本当なら貴方を待つのが道理なんだけど。私達も冒険者の魂を持った卵なの。目の前にダンジョンがあって、入る資格を持っているのに入らないなんて事出来ないわ。貴方も刻印が出れば分かる時が来ると思う。この胸の高鳴りを。本当にごめんなさい。 シナヒ・バイスタートより』


 僕はそのままベッドに倒れ込むようにして眠りについた。

 彼女の筆跡は間違いなく彼女のものだ。

 テルキが真似をしてかけるようなものじゃあない。

 こうして僕は、一人になった。









 ──そうして年月は流れ、僕は二十歳なった。

 二十歳になっても僕に、

 刻印が出る事は無かった。

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