第33話 凪の後には嵐が来る
波を立てずに健やかに、穏やかに暮らしていけるのであればそれに越したことはない。ごく当たり前に生活がおくれるのであれば、それ以上がむしゃらに幸せを求めても足元がすくわれるだけだろうと心がけて生活を送るようにしている。
友人の
掌で転がされたという表現は少し誤解を生みやすいけれど、彼女達は小悪魔のように悪い女の子ではなくて純白と例えて差し支えない。純真、清廉、無垢という言葉を体現したような二人に愛されているのだから御波は果報者だろう。
紆余曲折はあれどそれも一つ収まりがついたということで私は一安心をしていた。ひっそりと抱いていた想いもしっかりとダンボールに詰め込んで心の押し入れに思い出としてしまい込んだ。
「あとは変に遠慮しがちな御波がちゃんと彼女達とステップを刻むだけだと思っていたのにな。」
男友達の恋人のことを彼女達という時点で可笑しいのだけれど。その問題は取りあえずそっと脇に避けておく。
私は今、同じ建物にあるカフェを見下ろせる本屋の二階に居る。件の御波はカウンターの中でひどく動揺して慌てた様子だ。彼の隣にいる女の子に困った表情で身振り手振りをして何か伝えているのが見える。目立つ髪をしたその子は私達の二つ年下の後輩。そんな子にいいようにもてあそばれているのがここからでもよく見える。
変に女の子を引き寄せるのは、良いように言えば彼の美徳/メリットがそうさせるのだろう。悪く言えば誰にでも良い顔するのが原因だし、もしも彼の恋人の立場に立って考えるすると、無駄にやきもきさせるのだから優しくする相手は絞るべきだとは思う。
もてあそばれる隙を見せずにちゃんと年上らしく凛としていればいいのに。今日は彼にとっては幸いにも
「あれは、うーん。近いうちに拗れる……かな。」
私こそ恋の当事者ではなくて部外者なのだから、余計に首を突っ込める権利も義務もない。馬に蹴られるなんて勿論嫌だし、犬に喰われてしまうのもできれば遠慮願いたい。
「まあ……でも多分、気になって関わるんだろうな。」
スペースが空いた本棚に本を補充しながらそう結論付ける。過去の自分の行動から考えたらそれはすぐに結論が出せるくらい自明だった。
最近は高校の頃と違ってあまり運動をしていないので、重い本を持ち上げると身体が鈍っているのがよく分かる。
はぁっと出した息は運動不足の身体が緊張して弛緩したことで身体が無意識についた息なのか、何だかんだ御波を気にしているどうしようもない私へ向けたため息なのか、どちらにせよこの先身近に面倒なことが起こる嵐の直感を受けてついたため息かは区別は出来なかった。
さて、付き合っている彼女達のことを考えて誰にでも優しくなんてしちゃダメだよ、なんて御波に言えた道理はないし。その性格こそが御波らしさとも言えるのだから、万が一にそれが損なわれるのはきっと良くないだろう。
「どう、伝えようかな。」
偶然にも補充のために手にした本のタイトルは”恋に落ちる脳科学”だった。科学なんて名前を付けて胡散臭いことこの上ないのだけれど、この際ハウツー本にでも目を通せば答えが見つかるかも知れない。アルバイト終わりにでも中身を少し確認してみよう。
⁂
「
この春からメンバーに加わった二つ年下の後輩が以前よりもわざとらしいくらいの笑顔で問いかけてくる。
「裏の冷蔵庫にも無かった?」
「はい、さっき見てきましたけど無かったです。」
「じゃあ、えっとこの連絡先に急ぎだったら連絡して在庫がないか聞いてみて……、紫雨さん、あの……ちょっと近いんじゃない?」
「まあ、狭いですから?」
彼女の後ろ側に随分と隙間が見えるけれど……。指摘しても無駄なことは経験済みなので諦める。
「先輩。やり方、教えてください?」
「ああ、えっと。ごめんね。お店に電話する前に一言店長に相談しておいた方が良いね。売れ残らないようにしないとダメだから。夕方五時過ぎていたら基本的にはもう頼むことはないかな。」
「へえ。そうですよね。売れ残ったらダメですよね。分かりましたー。しっかり覚えておきますね。」
そう言いながら彼女は説明中もずっと俺の顔を覗きこんでくる。ぱっちりと開いた瞳はいつの日か夜中に見かけたダウナーな彼女の表情からは考えつかないくらいに鮮やかな表情だ。
きっとあの表情こそ彼女の本来の姿なのだと思うのだけれど……。
「三崎先輩。じっと見てどうしたんですか?」
いつの間にか彼女に視線が奪われてしまっていた。また沙羅か愛に見られると彼女達を怒らせてしまうかもしれない。彼女達がそれくらいで無闇に俺を嫌いになったりしないはずだけれどもできれば避けたい。
「あ、えっと。足らないのはどのケーキだった?」
誤魔化すように視線を逸らして彼女に問いかける。
「はちみつレモンタルトと、日向夏蜜柑のチーズケーキです。」
「あ、じゃあ。店長に聞いてくるね。」
すっと、紫雨さんと立場を入れ替える。いつの間にかカウンター際に追い込まれていた態勢から抜け出した形になる。逃げ出したとも言えるかもしれない。
「はぁい。じゃあ私はお客さん待ってますね。」
言いながら紫雨さんは手を小さくヒラヒラとまるで蝶のように振ってくる。その様子に苦笑しかできなかった。
「はぁ。本当、気分屋の子だなぁ。」
カウンターから裏手に周り事務所へと向かう。愛と沙羅と違う雰囲気で妙に距離の近い彼女は、俺のことをいたずらに振り回しているだけだ。
何度か勘違いしないようにお願いはしたのだけれど、「これが私の距離感なんでー。」といって聞き入れて貰えなかった。
「三崎先輩は可愛い彼女持ちなんでこれくらい慣れっこですよね。……三崎先輩のモテる秘訣を近くで見せてもらっているだけですー。」
そのついでに俺が下手に勘違いしないように釘を刺すような言葉まで付けてきた。彼女が心の奥底で何を考えているのか霧を掴むように分からない。
「店長いいですか?」
「あ、三崎くん。どうしたの?」
机に座ってパソコンのモニターに映るスプレッドシートとにらめっこをしていた店長に声をかける。
「えっと、はちみつレモンタルトと日向夏蜜柑のデザートの補充かけますか?」
俺の言葉に何故か店長は首を傾げる。
「ああ、十個くらいあればお願いしようかな。代わりに電話かけておいてくれる?」
「ええ、はい。……えっと俺、何か変なこと聞きました?」
「ああ、ごめんね。三崎くんが来る少し前に紫雨さんにも同じこと聞かれてね。もしかして入れ違いだったのかな。」
店長は不思議そうにまだ首を傾げている。
「……そう……かもしれないですね。やっておきます。」
そういえば紫雨さんが入店したての頃にちゃんと教えた記憶を思い出した。この件を紫雨さんに問い詰めても、
「忘れちゃったので念の為に先輩に聞きましたー。」とでも言われるのだろう。実際のところはきっと暇を持て余した彼女のいたずらだろう。
「ちゃんとした後輩の指導方法か怒り方の本でも
困った時の湊頼りも卒業しなければならないとは思っているのだけど、周りに相談できそうなのか彼女だけだった。頭を掻きながら事務所を後にして紫雨さんが待つカウンターへ戻り
「あ。先輩お帰りなさい。」
案の定というべきか、にこやかな笑顔で可愛い後輩が迎えてくれる。
「紫雨さんって……忘れっぽい?」
「んー。どうでしょう?三崎先輩がそう言うならそうかも知れませんね?」
質問の答えは彼女の表情が雄弁に物語っている。その答えに納得をしたことにして電話を掛けることにした。
「じゃあ電話かけておくから。ちょっとお客さん来たらよろしくね。」
「はぁい。分かりましたー。」
強く物が言えない自分自身の優しさなのか情けなさに、心の中で首を傾げながら電話帳に書かれた番号をプッシュしていく。通話釦を押して電話を耳にあてる。
ワンコール、ツーコール。鳴り響く電話音よりも背面に感じる視線に気が取られてしまう。
「はい。Le soleil 桜ヶ丘店です。」
電話口に出たのは聞き馴染みのある声。だけれども他所行きの声の彼女はちょっとだけ知らない人みたいだ。
「もしもし、La Luneです。デザートの補充が出来るかご確認したいのですけれど。」
俺の声を聞いて藍沙は声音をいつもどおりに緩める。
「なんだ、御波じゃない。どうしたのよ、そんな他人に話しかけるみたいに。」
「仕事中だし……藍沙は気にしないのか?」
「ふふ、いいの。今は周りに誰もいないから。あ、えっとでも邪魔しちゃだめね。足らないのはどれ?」
周りに誰もいないという藍沙の言葉ではっとした。何故気を抜いてうっかりしてしまったのだろう。俺の近くにいる後輩の存在、じっと電話をかける俺の姿を眺める視線の出処の彼女を。
そっと振り返ると紫雨さんは面白いものをまた見つけたようにさっきよりもニコニコしている。
「御波?聞こえないの?」
「いや、ごめんなさい。えっと……。」
「分かったわ。ちょっとだけ待っててね。」
足らないデザートを藍沙に伝えると彼女は保留釦を押して店先へと向かっていった。流れるチープなメロディーが俺の心の中のアンニュイさを増長させていく。電話を切ったらきっと質問攻めに合うだろう。
「おまたせ。両方共在庫あるから今から持っていくね。」
「はい、よろしくお願いします……。お待ちしております。」
「御波、もしかして喋り方で店長に怒られたの。くすくす。ごめんね。待っててくださいね。」
ガチャリと電話が切れる音が聞こえてから数秒後。観念して電話機をゆっくりと耳から話して元の台座に戻した。
「先輩って、梅ヶ谷さん達以外にも彼女作ろうとしているんですか?それって結構罪な気がしますけど?」
電話を置いたタイミングでさっそく紫雨さんが声をかけてきた。
「違うよ。違うよ……。」
「へえ、じゃあアイサさんって男の人なんですか?」
小首を傾げてまた詰め寄られる。何でこういうタイミングではお客さんが来ないんだろう。
「女の人だね……。」
「じゃあ名字ですかぁ?結構珍しい名前ですね。」
「……下の名前だね……。」
「あ、ほら、やっぱりー。ね、可愛いですか?」
「……ノーコメント。」
「えーずるいなー。あ、私デザートの配達来たら受け取りますから。」
「いや、俺がやっておくよ……。面倒でしょ?」
「えっと、これもーアルバイトのお勉強なので私にさせてください。」
勉強だと言われたら断る術なんてなかった。どうにもこの子にはいいようにあそばれてしまう。じゃあ、沙羅と愛の二人の前ではしゃんと出来ているか、もてあそばれていないかと問われると辛いところなのだけれど。
紫雨さんは入店したての頃と比べると生き生きと仕事をしている。きっと彼女自身のためやこの店のことを思えばそれはプラスの効果になっているのだろう。
カウンターに立ちデザートの配達を心待ちにしているだろう彼女の横顔を覗くとそれはってもいい笑顔をしていた。
アステリズムの恋 四季 @siki1419
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